3−4 死の受容:死生観の変容


 前振りで死の受容プロセスの文章を入れます。読み飛ばして良いですよ。


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 死を受容するには段階があるとはエリザベス・キュブラー=ロスの提言です。


①否認・隔離:自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。

②怒り:なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。

③取引:なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。

④抑うつ:なにもできなくなる段階である。

⑤受容:最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。


 これは、精神病を受け入れる段階にもあてはまるのではないかと私は考えました。


①否認・隔離:自分が精神病ということは嘘ではないのかと疑う段階である。

②怒り:なぜ自分が精神病にならなければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。

③取引:なんとか自分は正常だと思うように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。

④抑うつ:なにもできなくなる段階である。

⑤受容:最終的に自分が精神病で生きて行くことを受け入れる段階である。

⑥開き直り:できないことはできないと割り切り、できることをして社会とともに生きていく段階である。

⑦幸福:障害を負ったのも、今の幸福な自分に到る不可欠なものだったと全肯定する段階である。


⑤受容:最終的に自分が精神病で生きて行くことを受け入れる段階である。

に到る前、③取引:なんとか自分は正常だと思うように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。④抑うつ:なにもできなくなる段階である。の段階の話になります。


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 精神病を受け入れる葛藤の中、ちらつくのは自殺という選択肢です。精神病と対峙する上で、受け入れた先にしか幸せはないわけですが、精神病を受け入れるということは非常に危険な橋をわたることと思っております。ある種の諦め。諦念。それを抱くわけですが、すぐに受け入れられる訳がありません。なら、どういった行動をとるかと言えば、死の受け入れ準備を始めるのです。

 つまり、死後の世界を調べ始めます。臨死体験記を読んだり、天国地獄を調べたりします。私は洒落にならないほど怖い話を集めてみないを読破したりしていました。貸し借りを精算したり、お礼を言いに回ったりは自殺の兆候と言われていますね。またこの時期は、幽体離脱を試みたり、過去に後悔があればタイムリープの方法を調べたり、タルパを作ろうと試みたり、宇宙人を調べたり(ユミットやアヌンナキ等)、日月神示もこの頃ですね。


③取引:なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。

④抑うつ:なにもできなくなる段階である。

⑤受容:最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。


 この辺の時期と重なっています。⑤は受け入れ後ですので、③、④ですね。


 では、受け入れた後、何が起こるでしょうか。精神病を受け入れると死生観が変化し、変容します。おそらくこれは避けられませんし、健常者には順を追って説明しないと受け入れられないものだと思います。単純に私個人の問題であるかもしれません。根拠はありません。


 ⑤受容のあとに水面下で何が起こったか。実際に社会に出てこれはまずいなと思った最近の実体験の話です。


 飲み会の席で学生の頃の修学旅行の話が出ました。そこでひめゆりの塔の話が出たのですが、嬉々として有名な心霊スポットですよね。と言ったら、優しくたしなめられました。世間一般的には悲劇の地なんですよね。あまり詳しく知りませんし、調べる気もないですが。修学旅行では戦争に関する学習が盛り込まれています。若くして命をなくした。理不尽にも。そういった感じです。



 はっきり言いましょう。死後の世界を調べすぎた結果、私は死ぬことに親しみを感じています。

 よく知ったものごとには親近感を感じるんです。死にたいとは別感情ですよ。



 私たち精神障害者は病気を受容する上で、理不尽を受け入れることに耐性がついています。ついてしまうのです。受け入れるというのはある種、達観です。そういった悲劇に同調し、哀悼の意を捧げる感覚がなんというか薄れてしまっていると感じます。確かに悲劇なんです。世の中理不尽に溢れています。でも、その時その時を自分に与えられたものでやっていくしかないのです。結果がどうであれ。人生は選択の連続でそれを選んだのは自分だから。


 つまり何が言いたいかというと不謹慎です。

 なんか不謹慎がデフォルトになってしまいます。

 死を恐れるものではないと体感してしまっているがうえの不謹慎です。


 上手く言語化できなくて申し訳ないですが、ここが健常者と決して相容れない部分だと強く感じてしまう出来事でしたので文にしたためました。

 よく小説で悪役が死は救いだと言いますが、危険思想ですがそういった側面もあると思います。悪役はなんでまず自分を救わないのか謎ですが。死生観を押しつけるつもりはもちろんありませんし、理解も配慮もいりません。ただ、少し、社会となじめない部分がありましたよという個人的な報告です。


 幸せも生きることを選択するか、苦痛からの解放を幸せと捉えるかで180度意味合いが変わってきます。ただ、生物の本能として、前向きな幸せか、後ろ向きな幸せかで考えると前向きな生きていく選択をとった上での幸せを目指すことが自然でしょう。それができなかったから、ひめゆりの塔は嘆くところなんですよね。ただ、同調ができない。なんかその辺のうまく言えない感覚が変わってしまっているのかもという話でした。


 同感してくださった読者の皆様。

 一緒に気をつけましょう。

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