第10話 十五年と一夜
■シイレイン・トラン(18)
国王の執務室を退出し、扉を閉ざしたところでハルディラントはしばし動きを止める。部屋まで送っていこうと思っていたシイレインも、黙って立ち止まった。
この階は王族の部屋しかない。使用人の出入りも最低限で、廊下はひっそりと静まり返っている。そんな中、ハルディラントは目を伏せ、なにか考え込んでいる様子に見えた。
シイレインには察しがつく。国王との対話中、分かりやすいほど表情に出ていた。その理由を想像もしないであろう国王は気がつかなかったようだが、心当たりのある自分には、ハルディラントの心境は目に見えるようだった。
なにか言うかと思っていたが、ハルディラントは沈黙したまま廊下を歩き始める。行きに通りかかった際、ここ、と教えてもらった私室は同じ階、すぐ傍だった。静かについていく。自分からかける言葉を、シイレインは思いつかなかった。
ハルディラントが衝撃を受けているように、シイレイン自身もハルディラントの結婚話がこんなに早く出るとは思っていなかった。全く予期していなかったわけではない。ハルディラントが適齢期になれば妃を迎えるであろうことは、子供のころから理解していた。とっくに覚悟はできていた、はずだった。
覚悟とは関係なく、恋愛感情は募っていったし、抑えきれないところまで来てしまったけれど。
その日が来たら、シイレインは黙って身を引くつもりだった。ハルディラントの傍で護衛として仕えていられればそれでいい。そう思っている――今は。
部屋の前まで来る。落ち着いたら二人のこれからのことを話したい気持ちがあるが、今はまだ無理だろうか。では晩餐に、とだけ声をかけて立ち去ろうとすると、不意に腕を掴まれた。
驚いて振り返る。ハルディラントはまっすぐにシイレインの眼を見つめてくると、一つ瞬きをした。昨日と同じ眼差しだ、とシイレインはそんなことを思う。昨日、想いを伝えたときと同じ表情をしている。正面から受け止める気持ちはあるけれど、まだ自分の中で整理がつかない、そんな真摯さとかすかな動揺を感じる視線だった。
「……やっぱり今夜、おれの部屋に来て」
少しの間ののち、その意味を理解してシイレインは目を見開く。ただ話したいだけかもしれない、とも思ったが、声の密やかさがそれを否定していた。
「絶対に、誰にも見つからないように来て。待ってる」
そう告げて、ハルディラントは手を離す。部屋の扉を開き、返事を待つ気がない様子で素早く入室しようとする。
「ハル」
シイレインは思わず呼び止める。閉まろうとしている扉の隙間から、ほんの一瞬、振り返ったハルディラントの顔が見えた。
まるで泣きそうな表情だった。
■シイレイン・トラン(18)
夜闇に沈む廊下に視線を走らせる。分かる範囲で人の気配がないことを確認し、控えめに扉を叩く。応答はなく、内側から少しだけ開かれた。床に細く光の筋が現れる。シイレインは隙間に身体を滑り込ませる。背後でハルディラントがすぐに扉を閉ざした。シイレインは思わず安堵の息をつく。
薄闇の中、ハルディラントが振り返り、シイレインの顔を見やると笑顔を見せた。
「緊張した顔してる。誰にも見つからなかった?」
「はい。……多分」
「そこで言い切らないあたりが本当に真面目だよね、お前」
軽く笑うと、ハルディラントは歩み寄って両腕を伸ばし、頬に触れてきた。こわばりを解すようにさすられ、シイレインはつい苦笑してしまう。少しかがめば、唇を重ねられた。一度だけ触れ、少し離れて見つめ合う。ハルディラントの淡緑色の瞳は、笑顔とは裏腹に憂いを帯びているように見えた。それが気がかりで、でも今それを指摘するとハルディラントを傷つけてしまいそうで、黙ってシイレインの方から口づけの続きを求める。そっと抱きしめる。衝動に身を任せた昼間とは違い、できるだけ優しく、愛しい思いが伝わってくれればいい、と願いながら。
口づけの終わりに、あっち行こう、とハルディラントがささやく。促されるほうには寝台があって、シイレインは自分の心拍数が上がるのが分かる。そのまま流されてしまいたい欲求はあるけれど。
「まず話しませんか。あなた多分、言いたいことがあるでしょう?」
ないわけがなかった。国王から結婚の話題を持ち出され、それについてなにも反応せずにただ夜の誘いをするなんて。独りで抱え込み、思い詰めた挙げ句のことなのだろう。
ハルディラントは言われて少し戸惑った様子を見せ、目を伏せた。
「……あっちで話すよ」
「それでは私が話に集中できません」
「いいよしなくて」
「ハル」
たしなめるように呼びかける。ハルディラントは顔を上げようとしなかった。
「……話すのがつらいですか?」
問えば、黙って頷いた。
シイレインはため息をつきそうになり、ハルディラントに聞かせたくなくて直前で口許を引き結ぶ。うつむく頬に触れ、前髪をかきあげて額に口づけする。愛しい。同時に覚悟する。ここまで躊躇するということは、自分にとってもつらい話なのだろう。
「……行きましょう」
本人がそれを望むのなら、気の済むようにしてあげるべきなのかもしれない。
■ハルディラント・メイ・アトフラスト・エス・イスキュリア(19)
寝台の傍らの蝋燭は灯したままだったが、天蓋の薄布の内側に届く光はほんのわずかだった。シイレインの表情はよく分からないけれど、それは向こうも同じだろうと思えば、少し安心する。
向かい合い、輪郭しか見えないお互いの顔に触れ、口づけをする。
シイレインの手が両頬からゆっくり滑り降りてくる。一方は耳に触れて肩に、もう一方は喉を辿って鎖骨に辿り着く。指の軌跡を追うように唇が降りてきて、顎に触れ、喉に触れ、鎖骨の間のくぼみを舌先で舐められる。
「……ん……っ」
思わず顎が反る、吐息が漏れる。
鎖骨の手は胸へと降りてくる。肩の手は後ろへまわって背骨を辿る。今まで何度も自分をいたわって背中をさすってくれた手だけれど、素肌に触れられるのは初めてで、慣れない感触にぞくりと甘い痺れが走る。
「……あの」
そこまできて、無言だったシイレインが、ためらいがちに口を開いた。
「このままでいいんでしょうか。……その、私が勝手に進めてしまっていますが。あなた、どちらがいいんですか」
ハルディラントは、どちら、とそのまま呟く。意味を理解するのに少しの間が必要だった。分かったところで、思わず笑い声を漏らし、シイレインに抱きついた。
「いいよ、このままで。抱いてほしい。お前に抱かれたい。それとも逆がいい?」
「いえ、このままでいいです。このままが、いいです」
うん、と応えれば、背に回された手で支えるようにして、そっと身体を横たえられる。前髪をかきあげられ、額に唇が落とされる。
大事にされているな、とハルディラントは思う。優しくて、生真面目で。雰囲気でそのまま進められるかと思いきや、律儀にどちらがいいか訊いてきて。
また可笑しくなって、くすりと笑ってしまえば、ハル? と怪訝そうに呼びかけられる。
「好きだよ、シイ。……今、話してもいい?」
愛しさで胸がいっぱいになって、今なら思っていることを話す勇気も出せる気がした。シイレインはしばし動きを止める。
「……今ですか」
「うん」
シイレインは言葉では返事をせず、また額に軽く唇で触れた。そして瞼や頬、鼻先に次々に唇を落としてくる。ハルディラントはくすぐったくてまた笑ってしまう。最後に口づけをし、頬同士を擦り寄せられた。そのまま耳許で熱い吐息をこぼされて、ああそうか、とハルディラントは気づく。その気になっていたのに我慢させてしまったようだった。ごめん、と胸中で思う。
でも、今のこの気持ちのまま話しておきたかったし、抱かれたあとに悲しい気持ちにもなりたくなかった。
冷えないようにお互いの身体に掛布をかけ、向かい合って横になる。シイレインの腕が背に回され、胸元に抱き寄せられるような格好になる。あたってるんだけど、と指摘すれば、一瞬絶句されたあと、おたがいさまでしょう、と返された。こういうとき使う言葉か? くすくす笑う。温かくて幸せだった。またあとでしよう、と言えば、はい、と簡潔な応えと共に、腕の力が強められた。
「……昼間。おれの結婚の話、出ただろ」
気の重い話だったが、シイレインの腕の中でなら、落ち着いて話せそうだった。
「別に今日初めて聞いて動揺してるわけじゃなくて、前から王太子の義務だとは分かってたし、とっくに覚悟できてるつもりだったんだけどさ。……おれたちの、お互いの気持ちを知っちゃったから」
自分だけが役割に殉じればいいのならば、いくらでもそうするつもりだった。結婚相手を愛せるかどうか分からなかったが、その努力はするつもりだった。でも、それがシイレインを傷つけることになると知ってしまった以上、もう耐えられなくなってしまった。
「立太子を辞退しようかとも思ったけど、父上が必死におれのこと取り返してくれたのに、とてもそんなこと言い出せなくて。おれが辞退したら多分、ティルトに回るんだろうけど、まだ赤ん坊の異母弟に責任押しつけるみたいになっちゃうのも嫌だし」
シイレインの手が、そっと頭をなでてくれる。心地いい。
「だから。……王太子にはなろうと思う。おれ自身の責任は果たす。でも、結婚はしない」
「……しないんですか?」
「うん。お前がすぐ傍にいるのに他の人と結婚なんてできないよ。おれ自身が耐えられない。だから、とにかくなにか理由をつけて結婚はしない」
目の前のシイレインの胸に額を寄せる。
「……追及されても、絶対にお前の名前は出さない。おれが結婚しない理由は、お前と恋仲だからじゃない。お前のことは、絶対に守る。――だから」
そこでどうしても言い淀んでしまう。ためらっているのを察したのか、抱かれている腕が強められた。
大丈夫、と胸中で自分を鼓舞する。言える。
「恋人なのは、今日だけにしよう。明日からはまた、友達に、相棒に戻ろう、シイ」
どうすればお互いの気持ちとシイレインの立場を守れるか、考えた上での結論だった。恋仲のままでいれば、なにかのきっかけで周りに知られてしまったとき、自分が結婚を拒む原因だとされてシイレインを引き離されるかもしれない。シイレインの立場は、血縁のいないこの国では父王の不興一つで消し飛ぶ。昨日今日の会話で冷酷な人ではないとは感じているが、そうと言いきれるほど父のことをまだよく知らない。
ならば、恋仲である事実がなければいい。
自分が結婚しない理由は、シイレインという恋人がいるためではない。
シイレインは誠実な友人であり、それ以上でも以下でもない。
内心のことまで詮索される謂れはない。
この考えをただ会って話して、それで終わりにすることもできたけれど。無理をしてこうして夜に来てもらって、一晩幸せに過ごせれば、きっとその思い出を宝物にこれから生きていける。
シイレインはすぐには言葉を発さず、またハルディラントの頭をなでた。どう返事をするか考えている様子だった。
「……私はあなたの傍にいて、いいのですか」
「いいに決まってるだろ。いられるようにするために、相棒に戻ろう、って話」
「私のことは二の次でいいんです。あなたの心が一番楽になる選択をしてほしい。結婚しないとして、その理由を、本心を語らずにお父上を欺き続けるのは、つらくはないですか」
「本心を話した結果起こるかもしれないことのほうが、ずっとつらいよ」
「……結婚されてもいいんですよ。お父上との間に無用な確執を生むことはないでしょう」
「それはおれもお前もつらい上に、嫁いできてくれる人に失礼だし、多分不幸にしてしまう」
「それは、……そうですね……」
ハルディラントの頭を撫でたまま、シイレインは小さくため息をついた。
「……国に帰れと言われるかと思っていました」
「なんで? おれから言うわけないだろ、そんなこと」
「結婚する姿を、私に見られたくないかと」
「……うん、見られたくない。だから、しない。……ねえ、お前がおれを大事にしてくれてるのと同じように、おれはお前のことが大事なんだよ、シイ。二の次でいい、とか言ってほしくない。おれの都合でお前のことをオーダリアに追い返すようなこと、するような奴だと思われたくないんだ」
責めるのではなく、分かってほしくて、できるだけ語気を柔らかくしてハルディラントは訴える。シイレインは撫でる手を止め、少しの間ののち、ごめんなさい、と小さい声で謝った。幼いころに戻ったようで、ハルディラントは笑ってしまう。
それでも、これからしようとしていることは、大人になったからこそしたいことで。
顔を寄せていたシイレインの胸に、そっと唇で触れる。
「好きだよ。これからもずっと好き。……だから」
そこで言葉を止めたが、意図は伝わったようだった。シイレインは静かに身体を起こし、両手と両膝をついて覆いかぶさるような体勢になった。
「今日が、最初で最後なんですね」
暗くてよく見えない相手の顔を下から見上げる。
「……十五年後」
ハルディラントが唐突に口にした数字に、シイレインはすぐには反応を示さなかった。見えないが、おそらく怪訝な顔をしている。ハルディラントは腕を伸ばし、両頬に触れる。
「十五年経てば、ティルトも事情を話せば理解できる歳になる。理解して納得してもらえれば、おれは王太子の席をティルトに譲ろうと思う。……そうしたら、また恋人に戻ろう」
シイレインが息を呑む気配が伝わる。
「……長いですね……」
長いな、とハルディラントも思う。だって自分たちはまだ十九年そこそこしか生きていない。
「でも、永遠じゃない。きっと最後じゃないよ」
両頬の手を首に回し、引き寄せる。十五年分の口づけをする。
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