すべての渡る鳥たちを

三月ぬー

第一章

第1話 夢の来し方

■ハルディラント・メイ・アトフラスト・エス・イスキュリア(8)


 そっと図書室の扉を押し開けると、友人が既に待っていた。

 同い年の黒髪の少年、シイレイン。難しい書物だらけの図書室で、大人用の大きな卓と大きな椅子の間に挟まるように静かに座っている。


 母の里帰りで一緒についてきたこの国で、母はそのまま病で亡くなってしまった。以来、ずっと帰れずにいる。そんなひとりぼっちの世界で、初めてできた友達だった。その友人が小姓となり居館に住み込むようになってから、毎日一緒にいられてハルディラントは嬉しかった。勉強も共にするようになったが、シイレインは必ず先に来て座っている。早起きは苦手だって言っていたくせに。少しくやしい。けれど、それ以上に待っていてくれることが嬉しかった。


「おはようございます」


 律儀に立ち上がって挨拶してくれる。歩み寄りながら、おはよ、といつも通り挨拶を返したつもりだったが、ほんのわずか声がかすれる。やだな、とハルディラントは思う。調子が悪いのがばれる。


 隣の椅子を引いて座る。シイレインが黙って自分の顔を見ているのが分かる。


「……ハル、眠いんですか?」


 訊かれて振り返れば、友人が心配そうに軽く眉を寄せている。


「なんでそう思うの?」


「目が赤いので。眠れなかったのかな、と」


「……そうだね。嫌な夢見たから」


 教師はまだ来そうにない。ハルディラントは両手で両目をこすり、そのまま顔を覆うと卓の上に肘をついた。


「『前世』の夢。自分がこわい病気になる夢」


 見えていないが、隣でシイレインが息を呑むのが分かった。


「『前世』の夢、ってそんなつらい夢なんですか……?」


「いっつもそういうわけじゃないけど。子供のおれには、なにが起こってるのか分かんないことも多いし。でも死にそうなのは分かった」


 そのまま顔を伏せていると、温かい手がそっと背中をさすってくれた。


「なんでハルだけそんなことを憶えていなければならないんでしょう。……私にも『前世』の記憶があったら、少しは辛さが分け合えるのに」


 それは違うよ、とハルディラントは胸中で思う。こんな記憶、ないならそのほうがいい。シイレインがシイヅカの生まれ変わりでないかもしれないのは寂しいけれど、知らなくたって、こうやって気持ちだけは分け合ってくれている。


「シイは優しいね」


 顔を上げ、ありがと、と微笑む。

 シイレインがなにか応えようと口を開いたところで、扉が開いて教師が入ってきた。シイレインは慌てて自席に座り直し、姿勢を正した。


 魔法と算術の老教師ガーナーは、二人の席の向かいに立った。そして猛禽のような鋭い眼で、それぞれの顔を覗き込むようにして見やった。ふむ、と声を漏らし、少し考え込む様子を見せた。


「魔法は理論と知識の産物だと思われがちだが、それだけでは為し得ない。なぜなら人体を介するからだ。人体から生ずる魔力によって構築され、環境や状況、空間を瞬時に読む頭脳を要求され、瞬発力と出力を維持するには高い集中力と強固な意志の力が必要となる。その大元となるのは健康な肉体だ。しかるにハルディラント殿下、殿下は睡眠不足の顔をしておられる」


「……はい」


 ガーナーの言葉の羅列に圧倒され、小さい声で返事をする。


「本日から魔法実践の基礎をご教授しようと思っておりましたが、体調がすぐれないご様子なので、休講といたします。算術と魔法理論の復習はしっかりやっておくこと。今晩は充分お休みください。分かりましたかな」


「……はい」


 では、と礼をすると、ガーナーは退出していった。

 教師が扉を閉ざすのを確認して、ハルディラントは、やった、と思わず声を上げる。


「休みだって! 午餐まで自由だよ、なにしようか」


 笑顔で問いかければ、シイレインは困った様子で微笑んだ。


「寝たほうがいいのではないですか?」


「やだよ、せっかくの休みだもん。夜早めに寝るから大丈夫。遊ぼう、シイ!」


 シイレインの手を引いて椅子から立ち上がらせる。シイレインは苦笑いしつつ、はい、と嬉しそうに応じた。



■椎塚優雨希(21)


 映像はひどく不鮮明だった。


 アーカイヴに残っているインターネット黎明期の動画みたいだ、と椎塚は思う。事実、現在使える帯域幅はその程度でしかない。通信衛星は上空にいるはずだが、地上側を管理するエンジニアが、おそらくもういない。通信手段が完全に失われる日も、おそらくそう遠くない。


――いつ接続切れるか分かんないから、手短にすませるよ。……見える?


 画素の粗い画面の中で、ハロルドがぎこちなく右手を振ってみせた。そして顔の横で裏返して、甲の側を向ける。


 異物。


 中指の付け根のあたりに、ハロルドの白い皮膚とは明らかに異質な物がある。埋まっている。灰色とも乳白色ともつかない、おそらく珪素質の物。その辺に落ちている白っぽい石ころのような物、椎塚にはそのように見えた。

 返事ができない。喉がつまって言葉が出ない。だって、なんて言えばいいのか。こんな、最悪で恐怖で、一番起きてほしくなかったものを目の前にして。

 自分がひどい顔をしていることが分かる。思わず片手で頬をこする。なにも言わなくてもこの表情で伝わってほしい、という逃げ腰な気持ちが半分、映像が悪くて向こうからはよく見えないであろうことに救われる気持ちが半分だった。

 唾液を飲み下し、どうにか呼吸を整える。


「……身体の不調は?」


――まだなんともないんだよね。この手も、痛みとか特になくて、触ったらなんか硬いのがある、ってそれだけな感じ。


 っていうわけで、と軽い口調でハロルドは続ける。


――ここからまたハードルが上がるよ。おれが動けなくなるまでのタイムリミットもあるし、シイヅカと直接会って作業することもできなくなった。厄介だけど、ま、しょうがない。やれるだけやろう。


 うん、と自分に言い聞かせるかのように、画面の中でハロルドは頷く。風になびく金色の前髪をかき上げる。どこか屋外にいるようだ、と椎塚は今更気づく。背景は打ち放しのコンクリートの壁で、場所の手がかりになるようなものはない。ああそうか、と椎塚は改めて状況を思い知る。どこだろうともうハロルドの傍には行けない。二度と直接会えないのだ。


「……なあ」


 声が震える。さきほどはどうにか平静を装えたのに。


「手、切断処置すれば、……ひょっとしたらまだ……」


――ええー? 嫌だよ、この先の人生、右手なしで生きていけって? めちゃめちゃしんどくない? それ。それともシイヅカが一生介護してくれるの?


 おどけた口調はいままでと変わりないように聞こえるが、あえて話題をそらして返答を避けたのが、椎塚には分かる。かすかに苛立ちを覚えて眉を寄せる。


「そんなものいくらでもしてやる。一生俺がお前の右手の代わりになってやる。それで――」


 言い募ろうとして、画面の中のハロルドが黙って人差し指を唇の前に立てていることに気づいた。


――シイヅカ。君は分かっているだろう。君もおれも分かってる。嫌というほど。こうなってしまうともう手遅れだ。発症部位を切断しても、おれの体内にはすでにナノマシンが巣食ってる。遅かれ早かれまた別のところから症状が出る。おれに関しては、もう処置なしだ。


 穏やかな、駄々をこねる幼児に言って聞かせるようなゆっくりとした口調でハロルドは語り、そしてふわりと笑った。


――パニクるよな。おれが逆の立場だったら、めちゃめちゃ動揺すると思う。自分が感染するより、相手が先に感染する方が怖い。それが分かるから、本当に申し訳ないと思う。

 ……でも、いずれどっちかがこうなるはずだった。それを見越して別行動することにしたんだろ? 一緒にいたら同時に感染するけど、別々なら、どちらか一方が数ヶ月でも数日でも長生きできる。生き残った方が、一歩でも追究を進めるんだ。


 ハロルドは画面のこちらを指差し、口角を上げていたずらっぽい表情を作った。


――貧乏くじ引いたな、シイヅカ。


「……そんなもの、お前が元気なうちにお釣りが来るくらい押しつけてやる」


――いいね、そのくらい強気じゃなきゃお前じゃない。結局さ、やることは変わんないよ。このグレイ・グー、ナノマシンの拡散を止める方法、あるいは無力化する方法を見つける。……引き続き、頼むよ、相棒。


 相棒。


 返事しようと開きかけた口を、椎塚は再び閉じる。画面から視線を外して俯く。強気? 全くそんなことはない。今までずっと自分を抑えつけて押し隠して、おそらく最後までそうなのだろうと思ってきた。自分たちには最優先の目的があって、それは人類を救うためのもので、だから「相棒」として隣にいることを選んで、そして今、隣にさえいられなくなって。


「……ハロルド。ハル」


 めったに呼ばない愛称で呼びかける。返事はない。


「ハル、俺……」


 顔を上げれば、暗い画面に映り込んだ自身と眼が合う。瞠目する自分を凝視する。


 前触れなく通信は途絶えていた。それきり二度とつながらなかった。



■シイレイン・トラン(18)


 悲鳴を上げた気がした。シイレインは椅子を蹴倒して飛び起き、抱えていた剣を掴み直す。目覚める直前まで見ていた夢は、反動できれいに忘れてしまった。やるせなさのような強い感情の残滓が、苦みのように喉の奥に残っている。


 手にした剣を剣帯に佩き直しながら、自身の置かれている状況を把握する。狭く飾り気のない、納戸のような部屋。天窓から入るぼんやりとした光と湿った空気が、早朝、日の出前であることを示している。旅の途中、宿泊に寄った村の商家、提供された離れで護るべき人が休んでおり、ここはその前室だった。扉の脇に控えていたが、うっかり居眠りをして、なにか妙な夢を見て動揺してしまったようだ。


 気配に振り返れば、寝室の扉が開いていて、その人が顔を覗かせていた。


「……なにしてんの?」


 自分と同年、先日先に誕生日を迎えて十九になったハルディラントは、線の細い容姿も相まって、寝起きの今はいつもよりずいぶんと幼く見えた。眠そうな声で問いかけられる。一応服は着ているが、こんな無防備な姿で人前に出てこないでほしい、と思いつつ、シイレインは向き直って頭を下げる。


「騒がしくして申し訳ありません。起こしてしまいましたか」


「いや、そうじゃなくて。なんでこんなところいるの、護衛の当番?」


「はい。すみません、つい気を抜いてしまったようです。以後気をつけます」


「いいよ、無理しなくて。お前ちゃんと寝ないと動けない質だろ。護衛の役割でついてきてるわけじゃないんだし、他の人達に任せればいいのに」


「いえ、そういうわけには」


 ハルディラントが寝癖のついた金色の髪をかき上げる。淡緑色の双眸を相変わらず眠そうにすがめていたが、言葉はもうはっきりしていた。


「いいんだよ。うちの国から見ればシイは客人扱いになる。『第一王子のご友人』てやつ。まあ、身分はオーダリアの騎士のまんまだけど。オーダリア側のおれの護衛はお前以外にもいるし、イスキュリアとの国境で改めてあっちの人たちが着くし、そこまで神経質にならなくていいって。ちゃんと寝られるときに寝ておかないと、身体持たないよ?」


「一昨晩は休ませていただきましたし、しっかり仮眠はできております。ご心配にはおよびません」


 そうじゃなくて、と更に言葉を続けようとして、やはり諦めたのか、ハルディラントは肩を落とす。そして天窓の方へ視線をやり、もう朝だね、と呟くように言った。


「住む国は変わっても、おれとシイの関係は変わらない。肩の力抜けよ、――相棒」


 相棒。

 シイレインはなぜか、消えてしまった先ほどの夢の感触を思い出す。内容は記憶に残っていないのに、後味だけがよみがえる。


「殿下」


「ん」


「その呼び方はおやめください、と再三申しております」


 隣国の王子と、直接の主従関係にない騎士、身分を考えればそんな呼ばれ方をされるべきではない。ハルディラントは軽口のつもりなのだろうが、シイレインの方が毎度反応に困る。


「……融通きかないね、お前。今ここで他に聞いている人もいないんだから、ちょっと気ぃ抜いて話したっていいだろ。……俺も、二人のときくらい、殿下って呼ぶのやめて対等に話してほしいんだけど」


 そういうわけには、と首を振ろうとして、シイレインは思い直す。

 ハルディラントはイスキュリアの第一王子でありながら、宗主国オーダリアで「人質」として育ってきた。心を許せる数少ない人間の一人が、物心がつくかつかないかのころ「友人」としてあてがわれ、以来傍にいる自分であることは自覚している。だが、甘える気持ちでこんなことを言っているわけではないのも分かっている。「人質」の役割を終え、これから自国へ、居るべき場所へ戻る一方で、今度は随行するシイレインの方が、居場所のない思いをするであろうことを見越して、手を差し伸べてくれているのだ――おれとシイの関係は変わらない、と。


「ありがとうございます。……ハル」


 意識して幼少のころからの愛称で呼びかければ、ハルディラントはよほど予想外だったのか、シイレインが逆に驚くほど眼を見開いてみせた。


「どうかしましたか?」


 怪訝に思い問いかければ、ハルディラントはシイレインの表情を確認するようにしばらく見つめた後、ふと目を伏せて寂しげに笑った。


「久しぶりだね、その呼ばれ方。また呼んでよ。好きだから」


 周囲を気にしないでいいときなら、とシイレインが応じれば、うん、と俯いたまま幼い子供のように頷いてみせた。

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