苦い記憶
湖国は湖上にいる人たちを保護するためにさらに進んでいた。タブレットの情報からゴムボートに乗ったゲームの参加者の位置は特定されているが、彼らは湖国を見て逃げていた。捕まると厄介なことになると思ったのだろう。それに一般の釣り客は何の情報もないためどこにいるのかはわからない。ブリッジから署員が双眼鏡で探し出すしかない。
「これではどうにもならんな・・・」
大橋署長はつぶやいた。こういう事態は想定していなかったが、湖上のすべて事件に対応するために、あらゆる場所の状況を把握する情報センターを湖国に設置するつもりだった。それが今年度、ようやく予算が下りてその設備を整えている最中だった。
「それが完成していたら、効率よく動けるのにな。」
それが機能すれば多くのドローンを各所に飛ばして湖を監視できるはずだった。湖国ではもう2か月前から工事に入っていた。船体中央部の巨大な倉庫の一部に管制室のような情報ステーションを作ろうというのだ。県内のレイク電工がそれを担当する。普段、下請けも入れて十数名の工事業者を湖国に乗せて、日中の任務についていた。ただし土日曜日は休みなので、今日は誰も乗っていない。完成まであと少しというところまで来ていた。
「今回も間に合わなかった。あの時も・・・」
大橋署長には2年前の事故のことが頭に浮かんでいた。それは湖国改装前、大橋署長が県知事から請われて、海上保安庁から滋賀県警に移ってきた頃だった。その時、あの事故は起こったのだ。
――――――――――――――――――――――
その日、連絡船第11おうみ丸は長浜港を出港した。霧で視界が悪い中、冬のピンと冷えた空気と凍るような湖面を切り裂くように琵琶湖に出て行ったのだ。この船は竹生島、沖島を経由して大津港に向かう。
この天候の悪い時期、湖の旅をしようというのは、ある旅行会社のパックツアーの客だった。もうすでに客室はいっぱいになっていた。そこに急遽、出航を取りやめた別の船の振り替えとして、別のツアーの客が加わった。そのツアーは比較的若い男性が多く、彼らは客室に入れずに寒い中をデッキに出ていた。
しばらくして小さな女の子を連れた親子連れがデッキに出てきた。満員で息が詰まる客室から出て、少し風に当たるつもりだったのだろう。だがそこに悲劇が生まれてしまった。第11おうみ丸が急に座礁してしまったのだ。その衝撃で女の子が海に落ちた。
隣にいた父親がすぐに飛び込んだ。そして娘を助けようとして必死に泳いだ。
「誰か助けてください! 娘と夫が落ちたんです!」
母親が周りの人に訴えかけた。だがデッキにいる乗客は見て見ぬふりをした。それで母親はすぐ近くにあったロープのついた浮輪を湖に投げた。それに父親がつかまったが、母親の力では引き上げられない。そのうち父親は力尽きて浮き輪を放して湖に消えていった。娘だけは何とか浮き輪にしがみついていたが、大きな波が来て流されていった。
そこに駆け付けた船長が衛星電話で110番通報した。だが救助までに時間がかかりすぎた。警備艇は間に合わなかった。数日後、父親と娘の遺体が引き上げられた・・・。
母親は娘と夫を失い、自殺してしまった。取り調べを受けた船会社も船長も起訴されることはなかった。両者とも責任を問われなかったのだ。その後、自殺した母親の父が両者を相手に民事裁判を起こしたが、敗訴してしまった・・・。
――――――――――――――――
それを思い出すたびに大橋署長はため息が出た。
「悲惨な出来事だった。確か、裁判を起こしたのは村岡さんだったか・・・かなり無念な思いをされただろう。この湖国と湖上署ができたからには、あんな思いをさせる人をなくさねばならない」
彼はその思いで湖上署の署長と湖国の船長を務めていた。
外の霧を眺めながら物思いにふけっていると、荒木警部がブリッジに入って来た。
「署長。お呼びでしょうか?」
「ああ。荒木君。大変なことになった。警備艇『こほく』があの怪物と戦って損傷した。浸水したらしく救出作戦を中止して長浜港に帰った」
「まさか! 水中銃の攻撃では警備艇の船体に損傷は出ないはず。一体どういうわけなのです?」
「詳しくはわからないが、あの怪物が体当たり攻撃を仕掛けてきたようだ」
確かにそれなら警備艇の船体に穴をあけられるかもしれない・・・荒木警部は納得した。
「それで他の警備艇はどうなのです?」
「少しは救助できたらしいが、やはり怪物が襲ってきた。警備艇では被害が及ぶ。だからすべて引き上げさせた。損傷した艇もあるらしいが、警備艇のスピードで怪物からは逃げきれているそうだ」
「では湖にいる人の救助は終わっていないのですか?」
「ああ、そうだ。後はこの湖国しかない。この船なら怪物の体当たりに耐えられると思う」
「わかりました。しかしこの船の速度、小回りが利かないので難航しています。ここからモーターボートを出して救出するのはどうでしょうか?」
確かに今の作業状況を見ると湖国での救出はやりにくい。小型の船の方がいい。
「しかしモーターボートも警備艇のように襲われるのではないかね」
「確かにそうですが・・・。その点は考えてみます。追われてもモーターボートは逃げきれますから。では早速取り掛かります。」
荒木警部は敬礼してブリッジを後にした。
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