初恋 ~夏に見た雪の話~
ヌン
第1話
塾の帰り道。
残暑のおかげで日が完全に落ちても、体にまとわりつく嫌な暑さの夜だった。
ただ歩いているだけでも汗が頬を流れていく。
そんな夜、—————俺は出会ってしまった。
大きくまんまるな月から降りてきた月の妖精に。
長くきれいな黒髪が月光に照らされて、青い水晶のような瞳が煌めいていた。
出会いはほんの一瞬。
だが、出会った瞬間に感じた、うなじがシンときしむような冷たい感覚は、今でも忘れられそうにない。
***
九月二週目。季節は夏が終わり、秋に入ろうとしていた。のはずなのだが、今年は例年よりも残暑が厳しく、個人的には秋はまだ遠かった。
窓の外を見てみれば、絵の具でもこぼしたみたいな青い空に、これまた真っ白で分厚い雲達が地平線の向こうから顔を出している。これにまだまだ元気なセミの大合唱が加わるのだから、もう実質夏といっても過言ではないだろう。
「はぁ……」
「なんだ?グレン、ため息なんてついて」
俺のあまりにも大きなため息に、右隣の席の……田中?中田?……いや清水だったかもしれない。が反応してきた。
正直、この憂鬱な気分の時に田中(仮)の相手をする気も出ないのだが、それでもやつの言葉には反応せざるを得なかった。なぜなら
「俺は、グレンじゃなくて、
そう、俺のコンプレックスの一つでもある名前についての訂正をしなくてはいけないからだ。
苗字は紅、下の名前は蓮。並べるとグレンと読めてしまうこの名前は、年齢を経るごとにこっぱずかしさを加速させていった。
漢字が読めないくらいの年齢なら気にならなかったのだが、年齢が上がるにつれて、どんどん俺のことをグレンと呼ぶやつが増えて行って、しまいには俺の名前をグレンだと思っているやつまで出てくる始末だ。
親に何を考えて、蓮なんて名前を付けたかと問い詰めると、『だって、カッコよくない?』なんて頭が痛くなる返事が返ってきた。中二病かなにかですか、チクショウめ!
おかげで俺は毎日名前の訂正をし続ける日々。しかも一部のやつからはうらやましがられるという気の重い学校生活を送っている。
「そんな怒るなよ。いいじゃん、グレン。カッコよくて」
田中(仮)は俺の強めの訂正も気にすることはない。向こうも訂正されるのにもう慣れてしまっているからだ。
中学二年の二学期、みんなそこそこ同学年や同じクラスの人間のことが分かってきている時期だ。それゆえに、俺みたいな変な意味で目立つやつのことはすぐに周知されてしまう。席が隣である田中(仮)などなおさらだろう。
「そういえばさぁ、聞いたかよ、また出たらしいよ、————氷結鬼」
「氷結鬼って……、あの都市伝説もどきの誘拐犯だろ」
聞き半分、適当半分くらいの返事で返す。
田中(仮)の話にさして興味はなかったが、変な話をしているよりは気がまぎれると思ったからだ。
氷結鬼というのは、ここ数年でできたこの街の都市伝説のことだ。文字通り、氷結させる鬼で、かわいい女の子を見つけては氷漬けにして連れ去ってしまうというタイプのやつらしい。
元々は本当に都市伝説だったのだが、ここ一年くらいで本物らしき事件が数回起きているそうで、この前も八月上旬なのに道路が凍結しているところが発見され、それと同じ日に二つ隣のクラスの女子が行方不明になったそうだ。
正直、俺は全く信じていなかった。そんなよくわからない都市伝説など信じる奴のほうが珍しい。
だが、現に自分の近くで起きてしまっていることなので、眉唾ではあるものの完全には否定しきれないそんな微妙な心境になっているのが現状だ。
「で、今度は誰が誘拐されたんだよ」
特に聞きたくもなかったのだが、あまりにも田中(仮)が聞いてほしそうな目でこちらを見てくるものだから、聞いてやることにした。
「それがな、誘拐されなかったんだよ」
「……はぁ?」
思いもよらない返答に、思わず変な声が出てしまった。氷結鬼の話の流れ的に、てっきり誰かしらが誘拐されたと思ったが、そうではないらしい。
じゃあなんで氷結鬼につながるのだろうか、と不思議に思っていると、田中(仮)が嬉々として話をつづけた。
「襲われたのは三年の月島っていう元女テニの先輩なんだが、なんでも襲われたけど誰かに助けられたらしいんだよ」
「助けられたって、誰にだよ」
「それがよくわかんないんだよ。聞いた話によると、きれいな黒髪の女を見たらしいんだが、それが氷結鬼なのか、助けてくれた人なのか、記憶があいまいなんだとよ」
「黒髪の女!?……ちなみにそれっていつの話だ!」
さっきまで適当に聞いていた俺が急に前のめりで聞くものだから、田中(仮)はちょっと引いた様子で
「詳しくは知らないが、九月になってからだよ。……詳細を聞こうにも月島先輩、まだ学校には来てなかったからな」
さすがの野次馬根性で田中(仮)は本人に突撃しようとしたらしい。九月に入ってから被害に遭ったそうなので、まださすがに登校はしてきていなかったみたいだが。
正直、そっちには興味がなかったから聞けてなくて助かった。それでまた無駄に長い話をされるのもストレスがたまるだけだ。俺が興味があるのは黒髪の女の話だけだ。
あれは、夏休みの最終日のむし暑い夜だった。
塾の帰り道、俺はその女に出会った。
濡れたようなきれいな黒髪、月明りよりも美しい青い瞳。
ほとんどすれ違っただけだったのに、彼女の姿は俺の中に鮮明に刻み込まれてしまった。
あれは本当に現実だったのか、それとも夢だったのかもしれない。それくらいに彼女は現実離れしていた。
次の日から二学期が始まったが、学校でもどこでも彼女の姿を探してしまっている自分がいる。
「おーい、グレン大丈夫か?」
「んっ、ああ。……って、俺はグレンじゃない」
田中(仮)が不思議そうな顔をして俺を見ていた。
俺はどうにもまだ夏の魔力に引きずられてしまっているらしい。彼女のことを考えるとすぐに意識が散漫になってしまう。
「なら、いいや。……そういえば、さっきほかのクラスのやつが言ってたけど、転校生が来るらしいぜ」
それを言い終えると同時に、キーンコーンカーンコーンというチャイムが学校中に響き渡った。
「おーい、全員席につけー。ホームルーム始めるぞー」
チャイムが鳴り終えたと同時に担任が教室に入ってきた。
その声を聞いてクラス全員がバタバタと席に戻っていく。
「起立、礼」
委員長の号令に合わせていつも通り礼をすると、席に座りなおす。
「えーと、今日から転校生がうちのクラスに入るから紹介するぞ。ほら、入ってきなさい」
担任が教壇から教室の入り口に呼びかけると、扉に隠れていた影が姿を現した。そして、次の瞬間にクラス中の全員が息をのんだ。
「————柊 詩音です」
思春期のものとは思えないほどその肌は白くきめ細やかで、にきびなど存在すら許されないだろう。切れ長な青い瞳には長いまつげが添えられ、すっと通った鼻筋に、桜色の唇。きれいな黒髪はポニーテールでまとめられていた。
身を包んでいる制服は、俺たちと同じ学校指定のもののはずなのに、まるで彼女のために仕立てられた衣裳のように、バッチリと嵌っている。
クラスの全員が彼女の美しさに驚く中、俺だけは別の衝撃に見舞われていた。
彼女が、そう————俺が探していたあの夏の夜の女だったから。
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