保健室

「なるほど、この数学はなんとなくわかりますわ。国語も文章の理解力があればなんとかなりますね。困ったのは歴史、地理、社会関係ですわね。当たり前ですが、こちらの国や、歴史などまったく知りませんもの」


 科目別のプリントを一枚一枚めくり、グレイシーはその内容を確認した。

 教室に置かれているのと同じ机と椅子。その一式が、純に与えられたスペースだった。保健室に来る生徒の邪魔にならないように、ぐるりと完全にカーテンで遮断されている。

 窓の一部と接しているので、それほど閉塞感がないのが救いである。


『……俺も大して知らないから安心しろ』

「あら、むしろ安心できませんわ。どうしてこちらの世界のことを、貴方が知らないのですか。少なくとも、世界情勢はちゃんと頭に入れておかなければ、あっという間に他国に侵略されたり、いいように利用されたり……」

『そんなのはお偉いさんが気にすることで、俺たちが気にすることじゃねえ』

「まあ、呆れた人。ですが、ともかく問題を解くためには、ある程度は勉強しなければなりませんわ」

『メンドクサイ』


 グレイシーは、プリントを机に置いた。


「言っておきますが、プリントは基本的にご自分の力でどうぞ。わたくし、そこまで面倒みきれませんわ」

『な、なんだと、おま……この身体を貸してやってる恩を忘れて』

「この身体? このぶよぶよな身体のことですの?」


 そう言って、グレイシーは弾力豊かな頬を思いっきり抓った。自分も痛いが、当然ながら純もめちゃくちゃ痛い。


『あっ、たたっ、痛い! やめろっ、身体を張った仕返しやめろ!」

「わたくしも痛いのは嫌ですが、こういうことはビシッとケジメなければなりませんわ」


 グレイシーはこう見えて、厳しいお妃教育プラス、暗殺や毒殺を想定した護身技術を幼少の頃から叩き込まれてきた。与えられた義務や責任を、怠けてサボるなどという甘えた考えは、微塵も許されなかったのだ。

 ちなみに後者の護身術の方は、王家の意向ではなく、飽くまで公爵家の家訓に基づくものである。

 なにしろ国家予算よりも裕福な公爵家である。金銭目的での誘拐、商売上のトラブル、筋違いの妬みを買って襲撃など、身分というより、その経済力のせいで狙われることが多かったのだ。


「ともかく、勉強は自分の為ですわ。将来、それが必要になるかならないなど、議論の余地などございません。なぜなら、今現在こうして必要なのですから」

『……まあ、そうだな。さっさと終わらせるか』


 正論過ぎて毒気を抜かれた純は、無駄な屁理屈をこねるをやめた。ともかくはっきりしていることは、これが終わらないと単位がもらえないという、純然たる事実があるだけなのだ。

 丸め込まれた気がしないでもないが、考えてみたらグレイシーにしてみれば、こちらの社会情勢など、純以上にどうでもいいはずだ。

 それでも、先ほどから教科書の内容を一緒に熟読し、手助けはしないと言っていたのに、純に協力して答えを埋めようと努力している。ずっと一人で勉強してきた純からすれば、この状況が少しだけ楽しく感じて、いつもの半分ほどの時間でプリントを終えることができた。


「先生、できました……あら?」


 報告のために机を囲むカーテンを開けると、いるはずの教員の姿がなかった。

 集中していて気が付かなかったが、実は、少し前にこちらに声を掛けて席を空けていたのだ。

 少し待つことにして、プリントを机に戻しカーテンを閉めようとした時、小さなノックの音がした。


「すみません、先生。よろしいでしょうか……」


 こちらの返事がなかったため、引き戸の扉がゆっくり遠慮気味に開き、一人の少女が顔を覗かせた。

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