ある人間の刹那の輝き、そして死

 ミーンミンミンミン……

 ジジジジ……


 蝉の声が鳴り響く。

 かったるい暑さの中で重たい瞼をようやく開ける。

「んぅ……」

 身体にかけてあったはずの薄い毛布は、既に足元で塊になっている。

「あ…?」

 テレビがなく、エアコンもないこぢんまりとした部屋のリビング。


『さぁ、始まりました。ラジオcoon。今日のゲストは…』

 蒸し暑い部屋の中、ノイズの混ざったラジオ番組が流れ始める。


 眠い目を擦って、充電されているスマホを掴む。

 通知バナーが一つもないホーム画面を睨み、


「暇だなぁ…」

 と呟いてスマホを投げ出す。


 この少年の名は立神ケント。都内で一人暮らし中の高2である。


 それが彼の現状だった。

 (たまには冒険みたいな事してぇなぁ)

 高校生にもなって幼稚な事を考えてしまうのも、無理はない。ドラ◯もんぐらいいないければ、そんな大仰な事は叶わないのもとうに知っている。


 扇風機の風がとりあえず頭を冷やせと言わんばかりに顔に当たる。しかし生温いばかりで一向に涼しくならない。


 ふとケントは何かを閃いたかの様に(或いは渋々思い至って仕方なく)身体を持ち上げた。


『現在の東京の気温は33℃。お出かけの際は水分と日焼け止めクリームが必須です。熱中症予防をしっかりと……』

 そこでケントはスマホに次ぐ情報源のラジオを切る。

「分かってるよ」


 誰もいない空間の中、一人で呟きながら、開けっ放しの袋から生の食パンを取り出し、齧る。


 鏡で自分の顔を見てみる。

 ボサボサした普通の黒い髪と黒い瞳、よく“真面目だね”と言われる何の変哲のない顔……

 至って普通だった。あまりにも普通すぎた。


 普通のはずのままなのに、今日は何故か気になっていた。


 タンスに入った白シャツとジーパンに着替えると、そのタンスの上に置いてある写真立ての中の家族を眺め、食パンを咥えたまま優しく微笑む。


 ケントは最後のパンの欠片を無理やり口の中へ押しこんで玄関の扉をいっぱいに開く。


 ギラギラと太陽が無遠慮に街を照らす。


 彼は、そのまま都心の方へと向かった。


 *


 8年前、あの時から、日本は変わってしまった。

 東京23区と呼ばれた場所は次元衝突の後、ほぼ壊滅した。


 東京の象徴と言われていた都市景観は、大半が異世界に蝕まれてしまった。

 

 大方、異世界と東京が融合した感じなのだろうが、実際はそれよりもっと雑で適当な感じで異世界が入り込んだという感じだった。


 見慣れた街の景色はビル群と中世ヨーロッパのような建造物と交わって鉄骨が曝け出したビルのような何かとなり、アスファルトの道路に沿って石造りの壁が現れる。


 ビルの横に素朴な教会があり、ビルの中にも素朴な教会が埋め込まれている。

 一番ひどいところだと半分教会、半分雑居ビルといったとてつもなく中途半端な姿になっていたのを見た事がある。


 見事なまでに雑だった。 


 まるで、合理的だった都市を辱めるような気味の悪い感覚。

 だが、それも今となっては慣れた。


 スクランブル交差点周りはまだ、東京としての景観が保たれているが、それでも石造りの建物が点々と存在している。


 かの東京都庁は都市的な造形の半分が、ファンタジーでよく見る巨大な石城という粗雑さ。


 中途半端に異世界の混ざった東京という世界で彼らは生きていかなければならないのだ。


『政府が公開した資料によりますと…日本の異世界侵蝕度は約60%と世界最高ということです…』


 街頭ビジョンからはファンタジーの混ざり具合のニュースが大音量で響く。

 さも当然の状況かの様に皆、聞き流している。

 立神ケントも例外なく、その中の1人だった。

 

「あの…」

 ケントが変わり果てた新宿を何の目的も無しに彷徨っていると、後ろから声をかけられる。振り返るとずんぐりとした人がいた。


 夏だというのに厚手のオレンジのダウンジャケットにニット帽。

 見てるだけで暑苦しい。


 しかもサングラスとマスクのせいで顔があまり見えない。警察に通報すれば十分逮捕される程の不審者感丸出しの格好。


 だが、その不信感を掻き消すようなはっきりとした日本語で地図を見せながら、

国立競技場駅コクリツキョーギジョーエキって…どこですか?」

 と尋ねた。


 地図を覗くケント。

 チラリと衣服の隙間から緑色の肌が見える。

 確実に人間の肌ではない。

 

(ゴブリン、か)

「この銀座線ってとこで青山一丁目まで行ったら、そこで乗り換えするんです」

 ケントは見なかったフリをして丁寧に路線を教えた。


「どの路線に乗り換えするのですか?」

「大江戸線ってとこですね。

 それで二つ行けば着きますよ」

 笑顔で答えるケント。


 幸いゴブリンは知能が高く、日本語も喋るのが上手い。理解も早いから海外の人より扱うのが簡単であると、テレビでも言っていた。


「ありがとうございます」と、ゴブリンは丁寧にお辞儀をして去っていった。

 ケントも静かに手を振って見送った。

(割と真面目なヤツなんだな……)


 おそらく新たな就職先でも見つけたのだろう。ゴブリンの持っていた地図の裏側にチラシが透けて見えていた。


 ———この世界の事を語ると、次元衝突の影響を受けたのは街並みだけではない。


 さっきのゴブリンのようにこの世界に迷い込んだモンスターは数多くいる。

 モンスター達の適応は早いものの、彼みたいに人間に迫害される事を恐れる者は自分の容姿を見せない。


 人間は、本来あるゲームやら小説やらのエンタメの中で存在している"人型モンスターはずる賢く凶暴なもの"という固定観念ステロタイプにとらわれている。


 それ故に、モンスター達に対して差別的な感情を持っている人間も少なくない。


 おそらく、あのゴブリンも迫害を恐れながら東京の中で生きているのだろう。

 そうでもなければ、こんな真夏に分厚いダウンジャケットなんて着たりしない。


 ゴブリンの背中を見送って再び歩き出そうとしたその時、

 甲高いサイレンがけたたましく鳴った。

『非常警報。非常警報———直ちに避難して下さい———繰り返します……』

 街頭ビジョンに"警報発令中"と赤い文字が点滅する。

 機械音声が一帯に響くと同時に、街中の人々が一斉に逃げ始める。


 逃げ惑う人々の、その一番後ろ。

 駅の前で何かが暴れていた。


 目を凝らして見ると、黒い体躯に無数の足が見えた。巨大な……ムカデだった。


 ムカデを視認したケントは踵を返して群衆と同じ方向に逃げていく。


 そして、ある程度走ったところで足が止まる。

(あのゴブリンって駅に向かってたよな?)

 道を聞いてきたゴブリンは確かムカデのいた方向に行ってたハズだ。

 嫌な予感が脳裏をよぎってしまう。

 考えたくない事が頭の中で余計に回っていた。


 背後を見るとムカデのモンスターは見境なく車や街灯を食らっている。


 ケントの視界に見覚えのある人影が入ってくる。


 緑色の肌が見える。

 泥だらけのオレンジのダウンジャケット、男の手には地図が。確実にさっきのゴブリンだった。


 完全に逃げ遅れていた。

 足をやられてしまったのか、地面に身体を這いつくばらせながら逃げようと必死にもがいてている。


(まずい……助けるか?いや、その前に俺が死ぬ……でも、助けなくないと)


 決断をするより前に、彼の体は動いていた。


 ケントは逃げている人々の流れを遡り始める。

 段々と走るペースが早くなる。


 人混みを抜けて全速力で走り出す。

 身体全体が震えている。それでも彼は走るのをやめなかった。

 自分の命を投げ出してでも、ゴブリンを助けようしているのだ。

(急げ、間に合え!)

 


 雑踏を通り終えた後には、既に大ムカデがゴブリンに狙いを定めている。

 ゴブリンは竦んでしまって、動けない。


 ムカデの大牙がゴブリンを襲う。

「あぁ。助け…」咄嗟に目を瞑る。

 グシャッ。


 しかし、大ムカデの一撃はゴブリンの身体に掠りもしなかった。

 ゴブリンがおもむろに瞼を上げると、

 視界の前に人間がいた。


 ケントがムカデの牙を肩に受けていた。

 ボタボタと肩口から流れ出る血が彼のTシャツを赤く染めている。


「大丈夫…か?おっさん」

「あ、ありがとうございます…」

「礼はいいから……!!逃げ、てくれ…!」


 そしてケントはゴブリンの服を掴んで目いっぱいに遠くへ飛ばす。


 乱暴に、歩道の上に転がったゴブリンは必死に向こうへと走っている。


「良かっ、た……」


 その後ろ姿を見てケントは安堵する。

 最後の力が抜けて、膝をつく。

 身体が震えが止まる。致命傷らしい。

 苦しみながらよりかはマシかと1人安堵する。

 こういう時は走馬灯が見えるはずだが、一切映像が流れない。それほど内容が薄っぺらいのだろう。


 あぁ短かった、俺の人生。

 やりたい事はまだあるが……。


(死んだら、異世界にでも転生したりすんのかな)

 刹那にそう思いながら、彼は瞼を閉じた。












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