後悔はないよ
ある日のこと。湊のお迎えに行くと、子供達の言い争う声が聞こえてきた。
「何かあったんですか?」
「あ、お父さん。実は……」
保育士によると、どうやら
妻の仕事について、湊にはお酒を作る仕事だと説明している。湊がその説明をそのまま彼に話したところ、彼はお酒を作る=えっちな仕事だと解釈してしまい、自分の考えは正しいと思ってしまったらしい。見かねた和希が代わりに説明しようとしたが、部外者が口を出すなと怒鳴られ、仲裁に入れなくなってしまい、泣き出してしまった。それを見た子供達が大我くんを一斉に責め、大我くんも泣き出してしまったようだ。
とりあえず気になるのは大我くんの「女が普通に働いて子供を養えるわけがない」という偏見。この酷い偏見はどこからきているのか。親だとするなら、一度彼の親と話す必要があるだろうか。それは出来れば避けたいなぁとため息を吐くと、ちょうどお迎えにきたと思われる女性が大我くんの名前を呼びながら彼に駆け寄った。保育士が事情を説明すると女性はうちの息子がすみませんと頭を下げ、俺たちにも頭を下げる。そして大我くんにも謝るように促すが、彼はそっぽを向いて無視をする。この感じだと、彼の偏見の元は母親ではなさそうだ。彼の代わりに何度も頭を下げる姿は疲れているようにも見える。他人の家庭事情を邪推するのはどうかとも思いつつ、気になってしまう。このお母さん、大丈夫だろうか。
「……大我くんさ、恥ずかしくないの? お母さんに謝らせて」
しゃがんで、大我くんと目を視線を合わせてそう声をかける。彼は俺を睨みつけて「うるせぇバーカ」と精一杯の罵倒で返す。俺が動じないでいると、ムキになってさらに罵倒の言葉を投げつける。お母さんはすぐにやめさせようとしたが、俺は黙って彼の気が済むまで待ってみる。やがて彼の口からぽろりと「ごめんなさい」と謝罪の言葉が溢れた。
「……うん。いいよ。でも、ごめんなさいしなきゃいけないのは俺だけかな。他にも謝らなきゃいけない人がいるんじゃない?」
そう諭すと、彼はまず湊に謝りにいった。続いて和希に、そして保育士の先生たちに謝り、最後に母親に謝罪した。母親は目を丸くして、どこかホッとしたように笑って彼を抱きしめた。しかしハッとして、慌てて俺に何度も頭を下げる。
「良いですよ別に。俺は気にしてないので」
俺がそう言うと、彼の母親は意を決したように拳を握って、俺を見て、上擦った声で言った。「あの、奥様に会わせていただけませんか」と。
「え、な、何故?」
思わず聞き返してしまった。息子に妻のことを悪く言われたとはいえ、妻はこの場にはいない。彼女に謝罪にいく必要はないはずだ。
「ご相談したいことがあるんです」
「相談? 俺の妻に?」
「はい」
もう夫に養われないと生きていけない人間のままでは、いたくないんです。俯いた彼女から絞り出るように溢れた言葉を拾ったのは恐らく俺だけだろう。
「……ちょっと、妻に相談しますね」
この件は一度持ち帰ることにして、和希を家に送ってから湊を連れて帰る。リビングにつながるドアを開けると「おう、お帰り」とベビーベッドの前で膝立ちになっていた妻がこちらを振り向く。ベッドの上では海菜が幸せそうに眠っていた。
「おかー」
「ん。どうした?」
「おかーのおしごとって、わるいことなの? わるいことして、おかねかせいでるの?」
「あ?」
「実は幼稚園でね……」
幼稚園での出来事を俺から妻に説明する。妻はなるほどねぇと苦笑すると、キッチンに入って行った。戻ってきた彼女の手にはカクテルグラスとシェイカー。それをテーブルに置くと、冷蔵庫を探り始めた。
「あー……しょうがねえなぁ。麗音、おつかい」
「え、あ、うん。何が要る?」
「パイナップルジュースと、レモンとオレンジ一個ずつ」
「パイナップルジュース、レモン、オレンジね。了解」
「急ぎで」
彼女はそう言って俺に千円札を一枚渡すと、どこかに電話をかけ始めた。恐らく職場だ。時刻は午後五時。普段ならそろそろ出勤の時間だが、今からすることは仕事よりも優先すべきことだと判断したのだろう。
自転車を飛ばしてスーパーへ行き、言われた通りレモンとオレンジを一つずつ、それからパイナップルジュースを一本カゴに入れてレジに向かっていると、近所の奥様に声をかけられてしまった。話始めると長くなりそうなので、急いでるのでと頭を下げて逃げる。
「はぁ……はぁ……買ってきたよ……」
「ん。ご苦労。じゃあ、買ってきたレモンとオレンジを絞ってくれ」
「ええー……」
「あ、レモンは一切れ残しといてね。薄めのくし切りにしてくれると助かる。グラスに引っ掛けられるようにちょっと皮剥いて」
おねがいと語尾にハートマークがつくような媚びた声で頼まれ、仕方なくオレンジとレモンを半分に切り、絞って渡すと彼女は湊に「見ててね」と言って、俺が絞った果汁を砂時計のような形をした計りに注いでから、シェイカーに移す。パイナップルジュースも動揺に計って移すと、蓋をしっかりと閉めて両手で持って振り混ぜて、カクテルグラスに移す。そして最後に薄めに切ったレモンをカクテルグラスに挿した。
「こんな風に、材料を混ぜ合わせて飲み物を作るのが僕の仕事。これを売って、お金を稼いでるんだよ」
「これがおさけ?」
「いつも作るのはお酒だけど、今作ったのはお酒入ってないから湊でも飲めるよ。飲んで良いよ」
「れもんは?」
「飾り。皮以外なら食べれるけど、酸っぱいよ」
と、妻が言ってる側からレモンを口に入れて「しゅっぱい!」と顔を顰める湊。
「だからそう言ってるだろ。で? どういう仕事してるか分かった?」
「おいしいのみものつくってうってる」
「そう。それだけだよ。何も悪いことはしてない」
「……からだは? うってない?」
「売ってないよ。てか、意味わかってんの?」
「わかんない……えっちなことだっていってた。えっちってなに? わるいこと?」
「うーん……説明が難しいな」
悩んだ末に「よし、頼んだ」と妻は俺の肩を叩いた。バトンタッチされたところで、俺もどう話したら良いか分からない。
「えっと……そうだなぁ……相手の身体を触りたいって思ったり、見たいって思うこと……かな? それ自体は悪いことではないんだけど……例えば湊、知らない人から急に、湊くんの裸が見たいから服脱いでって言われたらどう思う?」
「えー……なんか、やだっておもう」
「そうだよね。嫌だよね。でもその人はどうしても見たいから、湊の服を無理矢理脱がせようとしてきました。どうする?」
「にげる!」
実践するように走り出す湊。
「そうだね。逃げた方がいい。相手が大人なら尚更ね。湊はまだ子供で力も弱いから、すぐに捕まっちゃう」
話をしながら湊を追いかけて、こんな風にと捕まえて抱き上げてやる。湊は「離せー!」とじたばたとしばらく暴れていたが、降りられないことを悟ったのかぜえぜえと息を吐きながら「おのれのむりょくさをつうかんした」と落ち込むように俯いた。どこで覚えたんだそんな日本語と苦笑しながら湊を降ろす。
「相手の身体が見たいって思うのは、悪いことじゃないんだよ。でも、相手が嫌がってるのに無理矢理見たり触ったりするのは駄目。良い? 相手がどうしてもって言っても、自分が嫌なら見せなくても良いし、自分が見たいからって相手が嫌がることをしちゃいけないよ」
「おいしゃさんは?」
「あー……なるほど。お医者さんが裸を見るのは病気が無いか調べるためだから。それは我慢しなきゃいけないかな」
「そっかぁ……」
残念ながら、立場を悪用して患者に性的なことをする医者は稀に居る。しかしその稀な例を全面に押し出してしまえば、医者という職業の人間を信用出来なくなってしまうかもしれない。属性と個人を分けて考えるというのは大人でも難しい。子供なら尚更だ。あまり悪いイメージは与えない方が良いだろう。
「でも、これは本当に治療に必要なことなのかなって不安になることもあるかもしれない。そういう時はお医者さんに聞いても良いからね」
「うん」
「よし。俺からのお話はこれで終わりだけど、湊からまだ何か聞きたいこととか話したいことはあるかな」
「うんと……あ!」
「お。何かある?」
「なんでみんな、おとーさんがおしごとしてるのかな」
「あー。なるほど」
それに関しては俺の代わりに妻が「男は赤ちゃん産まなくて良いからじゃないかな」と答える。
「赤ちゃんが出来るとお腹が大きくなって、働くのが大変になるからね。その間仕事を抜けなきゃいけなくなる人間より、抜けずに働き続けられる人間の方が会社としては使いやすいんだろう。妊娠出産がなくても生理で体調崩しやすいし」
「せーり?」
「女の子の身体の中には子宮って言って、赤ちゃんを育てる特別な部屋があってね。その部屋の掃除をする時期のことを生理っていうんだ」
「あかちゃんのおへや?」
「そう。湊と海菜が僕の中から出てくるまで育った部屋。覚えてない?」
「うーん……おぼえてないかも……」
「まぁそうだよな。でも、海菜がここに居たのは覚えてるだろ?」
「うん。いっぱいけってた」
「その時海菜が居た部屋を、身体の中に居る生き物達が定期的に掃除してくれてるんだ」
「からだのなかにいきものがいるの?」
「そう。細胞っていう生き物がね。その生き物達が、僕らが食べたご飯の栄養を使って身体を作ってくれてるんだよ」
「おぉ……」
正確には細胞は生き物ではないことは妻も分かっているとは思うが、子供に説明するにはその方が分かりやすいと判断したのだろう。
ちなみに俺が学生の頃は生理——つまり月経についてここまで詳しく学んだことはなかった。むしろ、男性は知らなくて良いものとされていて、女子だけ集められて教育を受けている間、俺たち男子は校庭でサッカーをしていた気がする。湊が思春期になる頃は分からないが、恐らく今もその風潮は変わらない。そんな中、母は個人的に俺に生理について教えてくれた。女性の身体の中には赤ちゃんの部屋があって、定期的にその部屋を掃除する期間があると。妻が今、湊にした説明と大体似たような感じだったと思う。おかげで元カノからは姉や妹が居るわけでもないのに理解がありすぎないかと引かれたこともあったが、それ以外で損をしたことはない。
「うみなも、おとなになったらおかあさんになるの?」
ベビーベッドを覗きながら呟いた湊に「さぁ、どうだろうね」と妻は曖昧な返事をする。「ならないの?」と湊。妻は娘を見つめたまま「身体はお母さんになるための準備をするけど、親になるかならないかはこの子自身が決めることだから」と答える。娘を見つめるその瞳は何を想うかはわからないが、彼女はたびたび言ってくれる。『君と結婚して母親になったことに後悔はない』と。俺はその言葉を疑ったことはない。いずれは男性と番って母親になる。その女性としての当たり前を求められることが、彼女にとってどれほど苦痛だったか、俺には計り知れないが、これだけはわかる。かつて愛した女性への想いは、思春期特有の一過性の感情などではなかったと。そんな恋はまやかしだと否定させないほどに眩しいあの笑顔が、愛しみに満ちた、あの子を見つめる優しい横顔が、今も脳内に焼き付いて離れないから。自分に向けられるものがあれと同じものだと思える自信は正直ない。それでも後悔はないという言葉を信じられるのは、娘や息子に向ける優しさを側で見てきているから。いつか子供達が彼女がレズビアンだと知ってもきっと、世間体のために仕方なく母親になったなんて疑いはしないだろう。
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