湊の入園式(前編)
海菜が産まれて約半年。星野家に第二子の男の子が、少し遅れて月島家に第一子の女の子が誕生した。そしてそこから約一ヶ月。今日は湊の入園式だ。幼稚園が楽しみらしく、朝から「にゅーえんいつ?」と数秒置きに聞いてくる。
「あの時計の長い針が六のところに、短い方の針が八のところにきたらお家出ようか」
「ながいのがろく、みじかいのがはち」
「うん。そうだよ。針は一から順番に回っていくからね。それまでに、お出かけする準備しようね」
「じゅんび、なにする?」
「まずはご飯を食べましょう」
「ごはんたべたらじゅんびおわり?」
「ううん。まだだよ。歯磨きして、お着替えして、持ち物チェックもするよ」
「やることいっぱい……じかんある? はちじはんならない?」
「あるから。大丈夫。とりあえずご飯作るから席について……あー……時間あるし、やっぱりお手伝いしてもらおうかな」
「おてつだい! なにする?」
「ここに卵割ってほしいんだけど、1人で出来るかな」
「えー……たまごむずかしい……」
「お父さんと一緒にやる?」
「ううん。ひとりでやる」
「お。挑戦してみるか。よし、じゃあ頑張れ。はい、卵」
ボウルの前で卵を持って緊張するように息を吐く湊を見守っていると、リビングの方から泣き声が聞こえてきた。港はびっくりしたのか、卵をボウルの中に落としてしまう。
「ああー! おちちゃった……」
「あらら。あ、でもまだ潰れてないよ湊。ほら、このまま持って、パカしてごらん」
ボウルに落ちた卵を拾い上げ、ヒビが入った方を下に向けて湊に持たせる。
「ぱかできた!」
「やったじゃん。よし、じゃあちょっと待っててね。俺は海菜の様子見てくるから」
「ぼく、みるくつくるね」
「えっ!? うわっ! ダメダメ! それはあぶないから一人でやらな「もう母乳あげたから良いよ」
一人でミルクを作ろうとする湊を制止していると、海菜を抱いた海が台所に入ってくる。入園式には起きれたら行くと言っていたが、まだ時間には余裕がある。しかし、二度寝するには微妙な時間だ。
「大丈夫?」
「それはこっちの台詞。海菜のことは僕が見ておくから。ちゃっちゃと朝ごはん作って」
「う、うん。ごめん」
「そこはありがとうだろ。アホ」
「……ありがとう」
「ん。湊も、手伝おうとしてくれてありがとな」
「……だめじゃない?」
泣きそうな顔で海を見上げる湊。怒られたと思っているのだろう。
「駄目って言ったのは一人でやると危ないからだよ。別に怒ってるわけじゃない。大きい声出してごめんな。びっくりしちゃったね。手伝おうとしてくれてありがとう」
目線を合わせて頭を撫でてやるが、湊はまだ暗い顔をしている。どうしたものか。
「あ、そうだ」
湊がボウルに割ってくれた卵を海に見せる。
「あ? なに? 卵?」
「これ、湊が割ってくれたんだよ。綺麗に割れてるでしょ」
湊の功績を海にアピールする。すると彼女はふっと笑って「やるじゃん」と俺の頭を撫でた。
「違う違う! 俺じゃなくて湊の方褒めてあげてよ!」
「悪い悪い。凄いじゃん湊。綺麗に割れたね」
「ぼくすごい?」
「凄いよ。成長してる」
注意されてしょんぼりとしていた湊だったが、海に褒められるとパッと顔を輝かせた。どうやら機嫌は治ったようだ。
「さて湊くん、卵はまだあと二個割らなきゃいけないんだ。頼んでも良いかね?」
「やる!」
「よし。じゃあお願いね」
「僕は向こうにいるよ。居ても邪魔でしょ」
「ん。ありがとう」
湊に卵を割らせている間にウィンナーとアスパラを切る。
「おとー、みてー!」
「お。上手上手。じゃあ次はこれをお母さんのところまで持って行ってください。落とさないようにね」
「うん」
炒めたウィンナーとアスパラを皿に盛り、湊に託す。ウィンナーを炒めたフライパンは洗わずにそのまま卵を乗せ目玉焼きにし、塩コショウを振って皿に盛る。あとは昨日の味噌汁を温め直して完成だ。
「はい。どうぞ」
「ん。ご苦労」
「味噌汁温めてるからちょっと待ってね」
「てつだう?」
「いや、手伝うようなことはもうないよ」
「やだ! てつだう!」
「そう言われてもなぁ……」
なんでも手伝いたがるのは嬉しいが正直困ることの方が多い。料理は特に。包丁や火を使うから危険が多い。赤ちゃんの頃は成長してコミュニケーションが取れるようになったら少しは楽になるのだろうかと思っていたが、行動範囲が広くなった分今の方が大変かもしれない。
「やだー! てつだうのー!!」
癇癪を起こす湊に困ってしまっていると、見かねたのか海が戻ってきて、やだやだと泣き噦る湊を軽々と抱き上げる。湊は急に身体が浮いたことに驚いたのか泣き止み、海の方を見る。
「お手伝いしたいなら、こっち来て海菜のお世話を手伝ってくれ」
「おてつだい?」
「そう。こっちおいで」
海はそのまま湊を連れ出してくれた。静かになり、ホッと一息つくが、味噌汁の火をつけていたことを思い出し、慌ててかき混ぜる。
「おかー、おてつだいなにする?」
「海菜の抱っこ代わってくれ。疲れた」
そんな会話が聞こえてきて、大丈夫だろうかと思い味噌汁をかき混ぜながら台所からリビングを覗く。疲れたから代わってくれといいながらも、湊を膝の上に乗せて一緒に海菜を抱っこする海の姿があった。二人の子供を愛おしそうに見つめるその眼差しにときめいていると、目が合ってしまった。咄嗟に台所に引っ込み、味噌汁を温めていた火を消す。自分と妻の分はそのまま器によそい、湊の分は水を入れて少し薄めて冷ます。
「はい。ご飯と味噌汁お待たせ」
「ありがと。海菜、お母さん達ご飯食べるからちょっとここで待っててな」
そう言って海が海菜をベビーベッドに置く。しかし、離れた途端、一人にしないでくれと言わんばかりに泣き出した。
「交代で抱っこするしかないね」
「そうだな」
「海ちゃん先食べてて。ずっと抱っこしてて疲れたでしょ」
「ああ。湊、いただきますするよ。おいで」
「だっこは?」
「お父さんが代わってくれた。あったかいうちに食べよ」
「やだ。だっこする」
「分かったよ。お母さんは先食べるからね」
海から海菜を預かり席を立つ。お母さんがいいと言わんばかりにぐずっていた海菜だが、湊と一緒にしばらくあやしているとすぐに泣き止んだ。
「うみなはいつおにいちゃんになる?」
「え? 海菜はお兄ちゃんにはならないよ」
「ならないの?」
「ならないよ。女の子だから、なるとしたらお姉ちゃんだよ。といっても、うちにはもう赤ちゃんは来ないと思うけど」
「こないの? なんで?」
「うーん……赤ちゃんがいっぱいいるとお世話が大変だからねぇ」
「ぼく、いっぱいおてつだいする」
「ええ? 湊、まだ妹か弟がほしいの?」
「おとうとがいい!」
「そうかぁ……だってさ、海ちゃん」
一応海に話を振ってみるが彼女はこちらをみることもせず「無理」と即答する。
「無理だって」
「なんで?」と湊が不満そうに問うと、海はこちらを振り返り「死ぬほど痛いからやだ」と答える。
「おとななのにいたいのいやなの?」
「そうだよ。大人でも痛いのは嫌だよ」
「どれくらいいたい?」
「そうだなぁ……もう嫌だーって泣いちゃうくらいかな」
「そっかぁ……じゃああきらめる……」
「意外と諦めいいな」
「ないちゃうのかわいそうだから……」
いやいやとわがままが増えてきたと思ったが、優しい性格は変わらないらしい。海も「そうか」と愛おしそうに笑う。子供が生まれてからそういう優しい表情が増えた気がする。
「助かる……」
「あ? 何が助かるんだよ。抱っこ代わるから飯食え」
「はい。湊、ご飯食べるよー」
「や」
「ご飯食べない人は幼稚園行けないよー」
「うー……じゃあたべる……」
「はい。じゃあ席ついてくださーい」
「はぁい」
食事を済ませ、湊に歯を磨かせて着替えさせて家を出る。湊は「にゅーえん、にゅーえん」とご機嫌で歩いていたが、一旦実家に寄って海菜を預けると「うみな、にゅーえんしないの?」と寂しそうな顔をした。どうやら一人で入園するとは思っていなかったらしい。これはもしや、俺と海と離れるということも理解していないかもしれない。改めて、入園するのは湊一人だということを説明してやると、案の定俺達と離れることを想定していなかったようで「にゅーえんしない! かえる!」とくずり始めてしまった。どうしたものかと困っていると「麗音くん、海くん、おはよう」と声をかけられた。和奏さんだ。隣には空さんの姿もあった。わざわざ半休を取ったらしい。一緒に居た和希は泣いている湊に気づくと駆け寄ってきて「どうしたの」と話を聞いてくれた。
「おかあさんたちはいっしょじゃないけど、ぼくはいっしょだよ」
「かずくん、いっしょ?」
「いっしょだよ。あのね、ようちえんいかないとね、おとなになれないんだって。だからね、いっしょにがんばろう」
「……うん」
湊の手を引いて歩き始める和希。「流石兄貴の子。人たらし」と海が苦笑いしながら呟くと、どこからかまた「やだー!」と幼児のぐずる声。声のした方を見ると、湊と和希と同じ制服を着た子供が歩道で座り込んでいた。困っている母親はおそらく滝さんだ。となると、あの子供は蓮太くんだろう。和希と湊もそれに気づいたのか、二人で手を繋いで駆け寄っていく。和希がしてくれたように、今度は湊が蓮太くんに「いっしょにいこう」と手を差し伸べる。蓮太くんは涙を袖で拭って湊の手を取って立ち上がり、一緒に歩き始めた。ふと隣を見ると、和奏さんがその様子をビデオカメラに収めていた。「その映像、後でもらえますか」と小声で問う滝さんに、和奏さんは無言で親指を立てた。
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