人を操る天才

 湊が二歳になる少し前。


「麗音。僕ちょっとしばらく仕事休むかも」


 突如妻からそんなことを言われた。もしやと思い理由を聞くと「まだ分からないけど」と前置きして「湊に弟か妹ができるかも」と自分の腹を摩った。


「とりあえず、今から病院行ってくるね」


「う、うん。行ってらっしゃい」


 病院という単語を聞いた湊が「おかー、おねちゅ?」と不安そうに俺と妻を交互に見る。


「ううん。違うよ。湊、お兄ちゃんになるかもしれないって」


「おにいちゃ?」


「お兄ちゃん。楽しみだね」


 湊はよく分からないと言わんばかりに首を傾げたが、俺の喜びは伝わったらしく「たのちみ」と笑った。

 しばらくして、妻から『まだ性別は分からん。とりあえず古市さんに話してから帰る』とメールが来た。


「みなちょ、おにいちゃ?」


「うん。そうだよ。女の子かなぁ。男の子かなぁ」


「ただいまー」


「! 帰ってきた!」


「かえっちぇたた!」


 湊と一緒に妻を玄関まで迎えに行くと「久しぶり」と古市さんが手を挙げて笑う。


「お久しぶりです」


「こーじ!」


「やあ湊くん。幸治おじさんだよー。元気してた?」


「今お茶出しますね」


「ありがとー」


 古市さんを家にあげて、お茶を用意するためにキッチンへ。「てちゅだう」と着いてきた湊に人数分のカップを用意させ、お湯が沸くのを待つ。


「湊。あとはお父さんがやるから、お母さんのところ行きな」


「や! てちゅだう!」


 大人の真似事をしたい年頃なのだろう。極力やれることはやらせてやりたいが、お湯を扱うのはまだ危険だ。どうしたものか。


「あっ。そうだ。よし。湊よ。ならばお主に重要任務を授けようではないか」


「じゅーよーにんむ?」


「うむ」


 棚から豆菓子を取り出して、湊に渡す。


「これをお母さんと幸治おじちゃんのところに持っていくのだ。いい? これは幸治おじちゃんと、お母さんのだからね。途中であけて食べちゃ駄目だぞ」


「うい」


「よし。行っておいで」


 素直に豆菓子の袋を抱えてキッチンを出ていく湊を見送る。後は妻と古市さんがなんとか気を紛らわせてくれるだろう。戻ってこないことを祈りながら紅茶を淹れて、人数分の紅茶と湊用の柔らかいせんべいを乗せたお盆を持ってリビングに戻る。ちょうど妻にお菓子を渡し終えた湊が俺の方を見てやり遂げた顔をする。


「湊よ。任務ご苦労だったな。報酬を授けよう」


 お茶をそれぞれの席の前に置いて、湊にはせいべいを渡す。


「こえ、しゅき!」


「座って食べるんだぞ」


「ありあとー」


「お茶、溢さないように気をつけてな」


「うい」


 椅子によじ登ってせんべいを両手で持って食べ始める湊。古市さんがそれを微笑ましそうに見ながら「俺にも最近姪っ子が産まれてさぁ」と語り始めた。


「可愛いよねぇ……自分の子供持つのは俺にはちょっとハードル高いけど。色々と」


 遠い目をしながらそう言う古市さんに恋人は居ない。彼はアロマンティックアセクシャル——他者に対して恋愛感情も性的な欲求も抱かない人らしいのだが、この当時はまだそういう言葉もほとんど広まっていなかった。


「あ、そう。それで、本題なんだけどね麗音くん」


「俺に話があって来たんですか?」


「うん。そう。海くんが明日から産休育休に入るでしょ? 湊くんもいるし、無理にとは言わないんだけど、代わりに出てくれないかなと」


「代わりに……俺がですか!?」


「週一三時間とかでも全然良いから。夜勤辛いなら日中に仕込みしてもらうだけでも助かるよ」


「仕込み……掃除とかですか?」


「うん。掃除とか、氷とかフルーツの仕込みね」


「氷……」


 家で酒を飲む時、たまに妻がアイスピックで氷を削ってボール状にしていることがある。わざわざボールにするのは溶けにくいかららしいが、あれを作れと言われるとできる気がしない。


「あ、大丈夫だよ。丸氷は作らなくて良いから。氷を砕くだけで良い」


「あ、そうですか。良かった……」


「怖いもんねえ。アイスピック。分かる分かる。まぁ、出来る範囲で良いからさ。ちょっと手伝ってくれるとありがたいな」


「おてちゅだい?」


「お。湊くんもおじさんのお仕事手伝ってくれるの? ありがたいねぇ。けど残念。君に出来るようなことはないんだよねぇ……」


「湊はお家でお母さんのお手伝いだな」




 そんなわけで、海が復帰するまでの間、古市さんの手伝いをすることに。開店時間の午後七時まではフルーツや氷の仕込みと店内の掃除、開店したら古市さんのサポートに回る。六時から十時までの一日四時間、週五日。サラリーマンだった頃より勤務時間は短いが、やることが多い。


「古市さんは、海が来るまでずっと一人でこれを?」


 氷を削りながら、古市さんに問う。


「うん。俺も元々はサラリーマンだったんだけど……会社員向いてなくてねぇ。上司にキャバクラに無理矢理連れて行かれたり、普通のキャバクラならまだ良いけど、セクキャバだったこともあって」


「あー……分かります。俺もそういうの苦手です」


「俺さ、男子のノリみたいなの苦手なんだよね。男なら女が好きで、エロいことが好きで当たり前って風潮が嫌で。かといって女性と仲良くすると勘違いされるし」


「分かります……」


「麗音くんもモテそうだもんねぇ……」


「海ほどじゃないです」


「そうかなぁ。どっちもどっちだし、なんなら計算じゃなくて天然でやってる君の方がタチが悪いよ。ママ友には気をつけなよ? 世の中には人の恋人を寝取るのが趣味みたいな人もいるからねぇ」


「その辺は大丈夫です。俺は海しか興味ないんで」


「まぁ、そうだろうね君は。あ、そろそろ開店時間だ。看板ひっくり返してきて」


「はい」


 店の外に出て、"CLOSED"と書かれた看板をひっくり返す。"OPEN"と書かれた面を正面にすると「あら?」と中性的な声が聞こえてきた。振り返るとそこに居たのは体格の良い女性。いや、女装した男性だろうか。


「あなた……見ない顔ね。新入りさん?」


「えっ。あ、こんばんは。お店、今開店したので中にどうぞ」


「……ありがとう。お邪魔します」


「はい。いらっしゃいませ」


 お客様を店内に招いて自分も店内に戻る。彼——もとい、は古市さんの古い知り合いだという愛美あいみさん。本名ではないようだが、本名はあまり言いたくないらしい。


「へぇ。貴方が海くんの夫ねぇ」


「はい。妻が復帰するまでの代わりです。といっても、十時までなんですけど」


 理由は、昼夜逆転の生活に慣れてしまうと後々大変だから。そんな甘えたことを言っても許してくれる妻と古市さんには感謝しかない。


「いいなぁ。あたしもそれくらい緩い働き方したーい。大体、一日八時間、週五勤務が当たり前の社会がおかしいのよね」


「だよねぇ」


「幸治はそれ以上働いてるじゃない」


「俺は好きでやってるから。趣味で金稼いでるみたいなもんよ。リーマン自体は八時間で残業はほとんどなかったけど、人間関係がねぇ……一人は気楽で良いよ」


「アタシもバー開こうかしら」


「猫カフェとかどう? 君、好きでしょ。動物」


「そうねぇ……猫カフェか……」


「今は何されてるんですか?」


「獣医よ」


「へぇ……カッコいいですね」


「……」


 何故か目を丸くして黙りこくってしまう愛美さん。どうしたのかと問うと「海くんから聞いていた通りの人ね」と優しく笑った。


「……ちなみに、妻は俺のことをなんと?」


「擬人化した犬」


「擬人化した犬……」


「レオンって名前も犬っぽいよね。海外の犬感ある」


「分かる。シェパードっぽいわよね」


「シェパード……」


 その後、続々とやってきた客達からも「ああー……」と納得するような反応をされた。一体彼女は俺のことをどう話していたのやら。それにしても——


「えぇー! 海様しばらく居ないの!? せっかく海様に会いに来たのに……」


「そんな……明日からどうやって生きていけば良いのよぉ……」


「ねぇ幸治さん、海様はいつ帰ってくるの?」


 この店の客、妻のファンばかりだ。そのほとんどが女性。中には俺のことをあからさまに敵視する人も居て、居た堪れない。早く十時にならないかと思いながら仕事をしていると、新たな客がやってくる。


「いらっしゃいま——うぇぇ!? なんで!? 湊は!?」


「和奏さんに預けてきた」


 やって来たのは妻だった。その瞬間、海様海様と騒いでいた女性客達が一瞬にして静かになり、妻に視線が集まる。


「な、なんで来たの?」


「なんでって……君の様子を見に来たに決まってるだろ」


「……ファンの様子じゃなくて?」


「それもある。奥、詰めてもらっても良いですか?」


 営業スマイルでそう言って入り口付近に座わっていたファン達を奥に詰めさせて座る妻。ファンの女性達は彼女の隣を一席分開けて座り直した。


「あれ。隣誰も来てくれないの? 寂しいなぁ」


「と、隣なんて恐れ多くて……」


「そんなこと言わずにおいでよ。避けられてるみたいで悲しいじゃないですか。何もしないから。ね?」


 妻がとんとんと自分の隣の席を叩きながらそう訴えると、ファンの女性達は空けた席をもう一度詰めた。「いつもより近いですね」と微笑みかけられると「そうですね」と緊張した様子で返事をする。『君の様子を見に来た』とか言いながら何をしてるんだこの人はと、呆れてため息を漏らす。


「あ、麗音。レモネード作って」


「……はぁい。ホットでいいですか?」


「うん」


 冷蔵庫からレモンシロップをとり出し、妻の指示に従ってカップで測って、グラスに入れてお湯で割り、バースプーンという柄の長いスプーンで下から持ち上げるようにして混ぜる。渡すと、彼女は指先を温めるようにグラスを両手で包み込んだ。季節は冬。店内は暖かいとはいえ、客が出入りするたびに冷気が入ってくる。入り口付近に座っている彼女はその冷気を毎回浴びることになる。


「奥空いてますけど、移動しなくて良いですか? 寒いでしょそこ」


「君が仕事終わったらすぐ帰るから良いよ。奥入っちゃうと出るの大変だもん。通路狭いから」


「……なら、せめてこれをどうぞ」


 ジャケットを脱ぎ、カウンターを出て彼女の肩にかけて戻る。


「それだと君が寒くない?」


「俺は平気ですよ。寒さには強いから。それより、明日は家で大人しく湊の面倒見ててくださいね」


「心配しなくてももう来ないよ。明日からは大人しくしてる。だから今日一日くらい許してよ。ね?」


 そう言って彼女は寂しそうに笑う。明らかに芝居掛かってるが、ファンの女性達は気づいていないらしく、海様に寂しい思いさせてんじゃねぇよと言わんばかりに俺を睨む。妻はその様子をチラッと見て、俺の方を見て胡散臭い微笑みを浮かべながら言った。「麗音、いつもありがとね」と。


「な、なんですか急に。酔ってる? え? ふ、古市さん、あのレモンシロップお酒入ったりしてないですよね!?」


「酷いなぁ。酔ってる時しかこういうこと言わないみたいじゃん。てか、一杯で酔うわけないだろ」


 こういうことを急に言い出すのは酔っている時か、あるいは何か狙いがあって人を操ろうとしている時か、もしくはただ単に揶揄いたいだけか。恐らく今回は揶揄い目的だろう。


「麗音、レモネードおかわり」


「……お金持ってきてるよね?」


「そりゃもちろん。代金は君の給料から差し引いてなんて言わないよ」


 全く。一体何を企んでいるのやら。ホットレモネードを作りながらため息を吐くと、彼女は芝居掛かった声で「本当に、彼には感謝してもしきれないんです」と、自分のファンに俺のことを語り始める。なんなんだ。本当になんなんだ。身体が熱くなる。ホットレモネードが注がれたグラスの温かさを感じないくらいに。


「も、もう! 揶揄いに来たなら帰ってよ!」


「揶揄いに来たわけじゃないよ。みんなに知っておいてほしかったんだ。僕にとって君がどれだけ大切な存在なのか」


「それ、俺が居ない時でも良くない!? なんでわざわざ俺が居るところでそんなこと言うの!? 恥ずかしいんだけど!」


「君のその顔をみんなにも見せてやりたかったから。ね? うちの夫、可愛いでしょって」


 妻がそう言うと、なんでこんな奴が海様の夫なんだと言わんばかりに俺を敵視していたファンの女性達の俺を見る目が、微笑ましいものを見る目に変わる。すると妻は満足そうに笑って立ち上がり「ごちそうさま」とお金を置いて去り際に「僕はしばらくここに来れないので、うちの可愛いわんこに悪い虫が付かないように、皆さんちゃんと見張っておいてくださいね」と、王子様スマイルでそう言い残して帰っていった。

 やっと帰ってくれたかとため息を吐く。しかし、おかげさまで俺のことを敵視していたファン達はすっかり俺を受け入れてくれた。恐らく妻は俺を揶揄うついでに自分のファンを牽制しに来てくれたのだろう。やり方は少しムカつくが、おかげでそれ以降、居た堪れない空気になることはなかった。

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