美しき故国④

四、


 六月三日、船はようやく港に入った。

 実に二年ぶりの帰国である。


  帰帆を知らせる狼煙を受け取った王府の役人や使節の家族がこぞって埠頭ふとうへ迎えに出向いていた。


  船室の小さな窓から外を覗くと、出迎えでごった返す人出のうしろ、陸の奥には石造りの塀が連なり、その隙間には朱や灰褐色の瓦屋根の屋敷が並んでいる。遠くに見える青々とした緑の高台には板や茅葺きの民家がまばらに顔を出していた。

 命がけの航海に身を固めて耐えていた人々は盛んに動きだし、積荷も外へ運び出されはじめると、船のなかに外の空気が入り込む。重く湿った夏の風は決して爽やかな心地とはいえないが、海では感じることのできない草木の薫りとこの地に染み付いた命のにおいを運んでくる。


 ―――美しき我が敝国弱き小さな国


 頭号船正副使を乗せた船から順に下船がはじまり、二号船に乗っている朝明らが船を降りる頃には、入港から大分時間が経っていた。荷物の入った行李などは船員に運ばせて身の回りの少ない荷物だけを携え、朝明と己煥そして聡伴の三人はようやく故郷の地を踏んだ。 本格的に夏のはじまりを告げる刺すような陽の光をうけて、己煥は人がひしめき合うなかで仕方なく傘を開いて歩く。


「一生帰れなかったらどうしようかと思いましたよ!あぁ早く屋敷まで戻りたい……子供がですねぇ、生まれているはずなんですよ」

「それはめでたいな聡伴。私も旅役に就く直前に娘が生まれたが、どれほど大きく育っていることやら……」

「何人目だ?」

「それが長子なんです。男女の別は知りませんがはじめての子供が己の知らないうちにとっくに妻の腹のなかから出てきていて、もしかするともう四書を諳んじているかもしれないと思うと寂しいものがありますよ」


 もう育つ余地のない大の大人とは違って、幼子の時の流れは実に早くてその成長具合はとてつもなく大きいのだ。


「我が家に着くのが待ち遠しいですよ。ところで己煥殿は本当にその猫をお持ち帰りになられるのですか?」


 船底で暴れまわっていた虎猫は筆のようなしっぽを立て、己煥の足元にぴっちりと寄り添っている。あらためて船の外で見るその姿は、毛も瞳も陽の光を浴びて黄金に輝いていた。此奴が散々積荷を崩しまわったあと、船員に猫の出どころを訊いたが生憎誰も知らず、懐かれてしまった己煥がいつのまにか持ち帰ることになっていたのだ。


「まったく、散々暴れまわった挙句に良い人間に拾われるなんて運のいい奴め。お前が暴れるから俺たちはよくわからない肉なんかを―――……」

「え?肉ってなんですか?」

「いや、なんでもない。それよりお前早く屋敷へ戻らないといけないだろう? 駕籠を使うか?馬でもいいぞ。呼ばせるか?」

「いやいやいやいや、なにをおっしゃっているんですか!屋敷までそこまで離れていませんから、家の者を待って帰りますよ!」


 しかし、あれよあれよという間に、聡伴は朝明が呼び寄せた駕籠に詰め込まれ、彼の住まう四町へと送り出されていった。港の喧騒のなか、聡伴が去ったふたりの周りだけが、妙に寂しく感じられたのはきっと気のせいだろう。


 朝明と己煥はゆっくりと人の流れに合わせながら 連れ立って歩くふたりだが、互いに交わす言葉はなくただ足だけを進めていた。


 それはいつもの慣れ合ったふたりに時たま訪れる呼吸のような沈黙ではなかった。わずかに背の丈に差があることで己煥が差した傘の先が隣の朝明を突くことはないが、今このときだけはむしろ故意に突っつきたい。常日頃は堂々と己の意を主張してみせるこの幼馴染が、眉を八の字にしながらやたらにもごもごと口のなかに言葉を溜め込むのは、余計な気を揉んでいるときの癖だと己煥は知っていた。


 喉の奥で唾液を飲み込んだ数が二十を超えたころ、耐えかねた朝明が先に口を開いた。


「己煥……あの肉は―――」

「あぁ、不味くはなかったな」


 暗い船底でふたりの食指を誘う妖艶な輝きを放っていたあの肉切れは、口に入れた途端、味わう暇もなく一瞬にして蕩け、喉の奥へ消えていったのだ。


「口に入れるべきではなかった、と?」

「お前も感じただろう?あの肉を前にしたときの……」

 あの奇妙な心の騒ぎようを。


「気のせいだ。その前に聡伴が林宗信の話をしていたからじゃないか。薬を買い込んだとかいないとか」

「己煥!」

「今のところ身体の調子はおかしくないし、毒の類ではなかったんだろう。それに、清冊に載っていない品であればこの先咎められることもないだろう」


 女にしても仕事にしても、ことあるたびに要領良く綱渡りをし、たとえ綱から落ちようとも悪びれることもなく平然としている朝明だが、それらに己煥を巻き込むこととなればすこぶる落ち込むのだ。


五良小ぐらーぐぁ、」

 外ではあまり使うことのなくなった童名で朝明を呼んでやる。


「もう船旅は御免だが、今度仙薬でも探しに行こうか」

 味のある、できれば美味で、陸の上で気持ちよく酔えるものが良い。


「……口当たりの優しい良薬を探しておくよ、煥小ふぁんぐぁ


 体よくはぐらかされたことは十分承知だが、まるめ込まれた朝明もこの話を続けるはなくなっていた。


 「父上!」


 雑踏のなかから、甲高い声が己煥を呼ぶ。


 声の先には、幼子と欹髻前元服前の少年の手を引いた女性、己煥の妻と屋敷の者たちがこちらへ合図を送っていた。住まいを異にしている朝明の息子も一緒だった。


「お迎えだな」


 暗い船底で、あの肉を前にしたときの朝明、そして己煥自身も、きっとまっとうではなかった。胃が空になる勢いの船酔いに見舞われていたのだ。絹のように薄くても、とてもじゃあないが肉なんて腹に入れたくはなかったはずだ。それなのに、腹の底から心の底から、己煥はあの肉を欲していた。


 それが、長きに渡った職務と航海の疲れからなのか、はたまたあの肉の仙力なのかはわからない。もしそうであったのなら、己のこの弱き身体を治してくれるというのなら、それは大変喜ばしいことなのではないだろうか。


「あの薬が真の仙薬であれば、お前の身体も少しは楽になるんだろうな」

「さすがにそんな都合の良い話はないだろう、世迷言はよせ」


 こちらへ駆けてきた息子たちのほうへ、歩き出す。

 それ以上、お互いあの肉について口に出すことはなかった。


 死―――大国の帝ですらそれに抗おうとその世迷言に縋るのだ。

 人間の生は短い。

 

 たとえ俗伝だとしても、残酷なほどに過ぎ往く歳月に己を繋ぎとめようと必死になるのだ。


 いつのまにか先へ進んでいた彼らに気づいた猫は、行き交う人間らの足元を上手に縫って、はぐれることなくついていった。

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