第三章

第一節 これは人質交渉じゃない

第三章

第一節 これは人質交渉じゃない



 京子がパチンコ店『ネクスト・エース』に転がり込んできて四日目になる。


「どうだよ、機嫌なおしたかよ?」


 鼻をじゅるじゅると啜りながら、美香はショートケーキをはむりと頬張った。

 ケーキのフィルムシートの傍らには『やもやもへ』と書かれたメッセージカードが添えられている。


「ゆ、ゆるひゃない。ゆるひゃないんだからっ!」


 ケーキをガブ食いしている美香に「許してやれよ。なんの涙だよ」と次郎はツッコミを入れた。

 事の発端は昨晩の事である。

 冷蔵庫のなかに入っていた美香の大好物だったプリンを京子が無断でぺろりと食ってしまった。それが発覚し、深夜三時であるにもかかわらず『ネクスト・エース』に悲鳴が轟いたのだ。

 襲撃かと飛び起きるぐらいの悲鳴で、美香の猛烈な口撃が京子に浴びせられた。

 次郎や長澤からすれば、これはいつもの事である。すき焼きをやって肉ばっかり食っていたことに腹を立てて、発砲事件に発展したこともあった。特にデザート関連はタブー中のタブーである。

 それを知っている次郎は「あーあー、始まっちまった」と呑気に構えていたのだが……。


「たかがプリンぐらい、なんだって言うのよ! その程度で怒るなんて信じらんない!!!」


 京子も京子である。

 負けん気の強い姫君は「ちゃんと謝ったじゃない!」と謝罪したことを持ち出して「ふん!」と臍を曲げてしまった。

 火に油を注ぐ、とはまさにこのことか。

 美香は顔を真っ赤にして「プリンはあたしの活力源なのっ! 返して!」と食い下がる。


「ゲロでも吐けっていうの! いいわ、わたしのゲロをお食べになればいいじゃない!」

「バカ言わないで! あんたも次郎と似てバカね。ホント、救いようのないバカね!!!」


 なんで引き合いに出されるの?

 そう思っている間にも、パチンッ、と乾いた音が制御室に響いた。

 次郎も、美香も、そして手を挙げてしまった京子自身も、誰もが「あっ……」と思った。

 頬を引っ叩かれた美香はキッと京子を睨んで。


 ――パチンッ!


 頬を叩き返した。

 これだから、負けん気の強い娘が一緒になると収拾がつかなくなるのだ。

 ふたりが取っ組み合いの喧嘩を始めそうになったので、次郎が「おいおい、待て待て!」と仲裁に入った。

 なんとかふたりを引きはがして。


「プリン食った京子が悪いんだぞ」


 姫君を叱責してから、美香に対しても。


「おまえもその程度でカーっとなるなよ。俺や秀樹ならまだしも……」

「ふんっ! 食い物に年齢は関係ない!」


 美香はそう言ってそっぽを向いて配信室へと消えてしまった。

 こうなってしまうと彼女はなかなか機嫌を直さない。

 次郎は美香を連れて深夜の川崎へと繰り出た。

 深夜に食うポテチとプリンは格別だぞ、と消しかけた自分にも責任があると感じていたからだ。

 コンビニへ向かう道中で、京子はわんわんと泣きながら「悪くないもん」「わたし、ちゃんと謝ったし!」「三十前なんだよ。大人なんだよ、美香は!」と絶対に美香の前で口にしてはいけない言葉をいくつも並べ立てた。

 コンビニでプリンを買い直して、それでも美香の機嫌が治らないだろうと踏んで。


「明日、横浜に甘い物でも買いに行くか」

「えっ……?」

「プリン以上に甘いものを買えば、きっと許してくれるよ」


 そう提案すると京子はさらにわんわんと泣きだして「許してくれるかな。美香、許してくれるかな!」と縋りついてきた。

 そうか。

 この子は誰かと喧嘩する事もなかったのか。

 だから、仲直りの仕方も知らないんだ。

 次郎は胸の中でそう思いながら、煌々と光り輝くコンビニの光を背に浴びながら……そっと京子の頭を撫でてやった。

 その日は漫画喫茶の狭い個室に泊まり、翌日の朝一で横浜へバイクで向かった。

 スマートフォンで調べた『有名店』のケーキの詰め合わせを買い――余計な出費だ――京子が「やもやもへ」というメッセージカードを書いて『ネクスト・エース』に戻った。

 京子と目を合わせるのが恥ずかしいのか、すぐに配信室へ入ってしまった美香であるが……。


「あの子ッ、あの子ってば……ううっ、こんな手紙書いてさッ、あんた、なんて……うううっ」


 今度はおまえかよ。

 号泣しながらショートケーキを頬張って「あたしがバカだったよ。心が狭かったよ」と言っておいおい泣いた。

 いつも次郎と長澤が「そうだったね、美香ちゃんの言う通りだね」で片付けてしまっていたせいか、ホンキで誰かに引っ叩かれるような経験をしていない美香は、京子以上に泣いて、食って。


「ねえ、姫様怒ってない? あたし、どうしたらいい? 姫様ッ、顔出さないかな?」

「いや、だからまず食うのをやめろ」


 そんな調子だった。

 孤高の情報員として世界中の通信網とリンクする美香であり『やもやも』であるが、彼女はいつも孤独だった。だからこそ、次郎と長澤が「一緒にやるか?」と提案したとき、声が出なくなるのではないかと思うほど泣き叫んだのだ。

 金とリスナーが彼女の精神安定剤。

 誰もが知り得ない情報が彼女の支え――。

 でも、美香が最も知りたいのは他人の心……。それはマトリクスの海をどれだけくまなく探し回っても、きっと知る事は出来ない。

 そういう美香の弱い部分を京子は直撃したのだ。

 美香が泣きながら「じろぅーッ、どーやって謝ったらいいいいーー?」と聞いてきたとき、モニターの一角が激しい警告を吐き始めた。

 それまでぐずぐずだった美香の表情が一瞬のうちに引き締まって、手にしていたケーキをあむあむと口の中に押し込んだ。


「どした、これ? ゴトか?」

「ひはう」

「あっ……?」


 むぐむぐむぐむぐ……ごっくん。


「違うッ……これって」


 カタカタカタ……と美香はキーを叩いて画面を切り替えていく。

 一瞬、パチンコ店の照明がチカチカと明滅した。

 美香が疑義を差し挟むように嘆く。


「……ハッキング? 違う」


 通信網の地図に切り替えて、各通信会社の状況を注視する。

 千代田区を中心に水の波紋のようにラグが発生しては、回復している。


「なんだ、これ? わかるか、美香?」

「衝撃波だ」

「……衝撃波?」

「千代田区を震源地としたネット干渉の波紋……? 通信域が詰まって起こる衝撃波……って、これ逆走してる!」

「えっ、逆走?」

「逆走型の多重検索ッッッ!!! こっちを探してるんだ」


 悲鳴のように美香が叫び、次郎は緊張の度合いを一気に高めた。

 スマートフォンをポケットに突っ込み、防弾ベストを着込む。腰に刃物がある事を確認しつつ、画面に目を向けて。


「どれぐらい持つ!」

「国家情報偵察網……ビッグ・ブラザーを国内に向けて稼働させたっていうのッ!? 狂ってる!」

「だから、どれぐらい持つ!?」

「いま、計算してるッ! ……ええっと、カメラ、通話と通信ログも逆走してるから……!」

「三十分ぐらいは持つか……!?」

「えぇっと……そうね、三十分ッ、いえっ、待って違うッ! 三分以内に特定される。推定値だと、もう十五分前には大枠のポイントが割れて――」


 ――ズズンッ、という鈍い音とともに地響きが鳴り、パチンコ店の電気がチカチカと瞬いた。


 一階で稼働しているパチンコ台から異常を知らせる警告が画面上に表示される。

 美香は叫んだ。


「逃げてッ! あの子連れて、逃げてッ!」


 彼女はキーを差し込んで厳重な引出しを開ける。そしてアクリルケースに収まっていたボタンの防護を引っぺがして、赤いボタンを強く押した。

 パチンコ店に非常ベルが鳴り響き、一瞬にして建物が停電し、消火装置が作動した。

 猛烈な水しぶきが建物全体を襲った。


「次郎ッ、必ず京子を連れて逃げ切って! あの子、捕まったら絶対に殺される! これは人質交渉じゃない。消去命令だから交渉の余地がない!」

「わかってる! あとはこっちに任せとけ!」

「わたしもやれるだけのことはやる。ケーキの分、返せてないから!」


 もうもうと立ち込める水しぶきの中で次郎はグーサインを作り、仮眠室へと駆けこんだ。

 そこでは異常事態に驚いて、頭を抱えて震えている京子の姿があった。

 彼女の身体を抱えて「大丈夫だ。よし、逃げるぞ」と次郎は言い聞かせながら非常階段へと向かった。

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