第2話
ホテルで何度か吐いた僕は、床を汚してしまったことを従業員に謝った。
ただ、あまりに酷い顔をしていたのだろうか、逆に心配されてしまう。
病気ではない、辛いことがあったのでと断りを入れて、翌日の朝、ホテルを後にした。
家へ帰ると真琴の姿は無かった……。
ベッドは皺だらけで昨日のままだった。ただ、落とした――そしておそらく割れた――ガラスのトロフィーは片付けられていて床には無かった。
「興信所の資料が――」
今思い出して慌てて玄関に戻ると、昨日置いたままの僕の鞄はまだそこにあった。中を確認すると、資料も残っていてほっとする。
これからどうするかは決まっていた。真琴を取り戻すことは考えていなかった。ただそれでも、彼女の弁明だけは聞きたかった。或いは、彼女の必死な言い訳でも聞けば少しは気が晴れていたのかもしれない。けれど彼女は逃げた。逃げてあの男を選んだ。
僕は会社の弁護士から紹介されていた、こういった事案に詳しい弁護士に連絡を入れる。ただ、あいにく土曜日で休日もあったためか、予定が合わず、会うのは月曜日の午後となった。友人と経営している会社には月曜日に休みを取ることを連絡する。友人には何かあったのかと聞かれたが、詳しくは火曜に会って話すとだけ告げた。
土日、家で過ごしたが、真琴からは連絡もなく、家にも帰ってこなかった。僕は水だけ飲んで過ごした。胃が受け付けなかったからだ。
◇◇◇◇◇
そして月曜日。
朝早くにインターフォンが鳴る。
「真琴――」
僕は飛び起きて玄関の戸を開けると、そこにはスーツ姿の男性が二人居た。
彼らは真琴の代理でやってきたと話した。彼らの口から出た言葉は僕にはとても理解のできないものばかりだった。
まず、僕は半年以上前から真琴に暴力を振るっていたと言うのだ。
――なんだそれは? 何を言っている?
そしてそれを相談されていた叔父が彼女を保護していたと。
――保護? ベッドの上で保護ってなんだよ。
彼女は離婚と慰謝料を求めてきていた。
――意味が分からない。
彼らは次に会う日時と場所を告げてきた。証拠もあるという。
彼らは何か書類のようなものを僕に押し付け出ていく。
僕は目の前が真っ暗になって意識を失った。
◇◇◇◇◇
僕が気が付いたのはその日の夕方だった。
いつまで経っても現れない僕に、弁護士が会社に連絡を入れてくれたらしい。
友人の
管理人にドアを開けてもらった大樹が僕を見つけて介抱してくれた。
「真琴さんが? マジかよ」
「マジだよ……」
「だってお前以外の男は苦手だろ? オレなんかあの巨乳ガン見してただけでめっちゃ睨まれたぞ」
「真琴じゃなくても睨まれるだろそれ……生々しい話はやめてくれ」
僕が嘔吐くと大樹が謝ってくる。
「悪い悪い。マジすまん」
大樹を始め、友人たちの真琴を見る目にはちょっと警戒していたこともあるけれど、彼女は僕の友人たちを嫌いこそしないものの、ちゃんと距離は置いてくれていた。
「しばらく会社は休め。役員でもあるんだから毎日勤勉に働かなくてもいいんだぞ。あと、
「ああ、言おうとは思ってたから。よろしく」
◇◇◇◇◇
僕には真琴が何を考えているのか全く分からなくなった。
彼女は少し前までは普通に僕に接していて仲もよかった。
悩み事があれば話してくれたし、こちらに心配事があれば気遣ってくれた。
僕は後日、弁護士と連絡を取って指定の場所へと向かった。
真琴と真琴が雇ったと言う弁護士と先日の二人、それから叔父が居た。
真琴は見たことのない柄のスーツを着ていた。いつもなら凛とした立ち姿に自信が見て取れるのに、今日は体をこわばらせて弱弱しかった。
挨拶も簡単に、弁護士同士が互いの要求を述べる。
こちらの要求は浮気と、偽証による名誉棄損、それに対する謝罪と慰謝料の請求だ。
そして向こうは相変わらず僕のDVを主張している。彼女の体についた痣の写真を見せてくる。
「その前に真琴本人から聞きたい。本当に僕が暴力を振るったと言うのか」
真琴は両手を合わせてぎゅっと握りしめ、震えている。
「真琴ちゃんはお前が怖いんだ。だから怯えてる」
「あんたは黙って」
真琴は嘘をつくのが嫌いだ。特に僕に対しては嘘をつかないし僕がつくのも嫌う。
真琴にもう一度聞いた。
「は……い……」
僕の中の何もかもが崩れ落ちていく瞬間だった。手足が痺れて力が抜け、今この体はこの世に生きているようには感じられなくなった。
「なんでこいつと寝たの」
力を振り絞って弱弱しい声で質問した。
「――これ以上はこちらを通してください。依頼人が怯えています」
叔父が指示して弁護士が間に入ってくる。
真琴は連れられてふらつきながら部屋から出て行く。
「そうかよ」
◇◇◇◇◇
僕はまた一人になった。
一人になるのはそれほど辛くなかった。信じていた真琴という存在が消えてしまったからだろうか。僕自身も別に消えてしまってもいい。心残りなんてない。
少し前までは真琴を取り戻したい。どれだけ体が汚れても構わない。理由なんて話せばわかり合えると思っていた。だけど彼女は心まで汚れてしまっていた。取り戻す意味なんてない。
真琴は中学に入る前に両親を亡くし、父子家庭であるうちの家に引き取られてきた。父の友人の子供だったらしい。初めてうちに来たときは、彼女は泣いてばかりいた。彼女が心を開いてくれるまで時間がかかったが、やがて二人で絵を描く楽しみを見つけた。
彼女は英語が得意で、時間があればネットで海外の知り合いから情報をたくさん仕入れ、勉強していた。何でそんなに熱心なのか聞いたことがある。彼女は早く自立してうちの家に恩返しがしたいのだと言った。
中学の頃、そんな彼女に告白したこともあった。彼女は今の自分には応えられないといい、あっさりと振られた。
高校の頃、二人でデザインコンペに応募した。最優秀賞に選ばれたのはほぼ彼女のおかげで僕には才能も努力も足りなかった。
僕は大学に進学したが、彼女はデザインの道へと進んだ。彼女は高校の頃から実績を積み上げた甲斐もあって、まだ小さな事務所で勉強中ではあるものの、高く評価されていると言うのは聞いていた。
大学に入ってすぐ、父が仕事中の事故で死んだ。彼女は恩返しとばかりに僕を慰めてくれた。そして一人になった僕に、大学を出たら二人で家族になろうと言ってくれた。僕たちは恋人になった。
父の会社は叔父が継いだ。幸い、いくらか財産もあったし、叔父が援助してくれたおかげで無理なバイトもせず、大学を四年で終えることができた。仲間にも恵まれた。僕らはベンチャー企業を立ち上げた。
会社はまだ上手くは行っていなかったが、僕は真琴と約束通り結婚した。真琴とのことは会社の仲間にも羨ましがられた。見た目もスタイルもいいから僕には勿体ないと事あるたびに言われたが、彼女は逆に自分にこそ勿体ないと怒っていた。
今となっては夢の中の経験のようだった。
「もうどうでもいいや」
僕は緑の紙に名前を書いて判を押し、付箋をつけ、ダイニングテーブルの上に置いた。
そして弁護士に電話を入れる。
相手の条件をすべて飲むといい、財産の管理も会社の弁護士に任せた。
ただし――。
「あいつとの再婚は認めない」
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