統合失調症の独り言
ケンタ
第1話 姉の家族がやってきた
今日甥っ子が遊びに来た。
姉とその旦那さんもやってきて、毎日当たり前の日々だったのが夏休みの花火を打ち上げたかのように明るくなった。
甥っ子は遊んでほしたがりで、さっそくクイズの本を広げて、私と父と母にクイズを出していた。
よくポイントをつけて私達を競わすのだが、明らかな点差がついてくると、答えもしてないものにも点を与えて、完全に負ける人がいなくならないようにしたがるのだ。
大人なので私も父も母も気にはしないのだが、子供なりに気を使ってるのだろう。優しいのだうちの甥っ子は。
旦那さんが甥っ子をお風呂に連れていくと、父は「明日仕事あるんでしょ?もう寝たら」と私を2階にそくした。
旦那さんも父も管理職をやり、父である身、二人で話したいことがあるのだろう。
ただそこに入れないことに寂しさを感じる自分もおり、またそりゃそうかと納得している自分もいた。
不思議だし、厄介なのはどこからその寂しさが来るかということである。
ビル・ゲイツのようにいくつもの会社を経営するのが夢なのか、ナイチンゲールのようにどんな困難にもめげず沢山の人を救って生きていきたいのか、明石家さんまみたいにずっと喋り倒してみんなを笑わせていきたいのか、など様々な生き方があり、みんな独自の哲学をもっている。
私にはそれがないのである。
おぼろげにはある。25歳から儒教を学び、それから哲学、リベラリズム、仏教と点々としながらも、自分の中では常に人格形成を課題にしてきた。
より優しく、より思いやりのある、という抽象的な目標。
それは持っていると自分では信じているが、それが自分にとって本心なのか、誰かや社会から押し付けられたものなのか、未だに判断がつかないのだ。
また抽象的な故に、はっきりと自分の理想像が描かれておらず、やはり悩み続ける問題なのだ。
それ故に父にはじかれた事実がもたらされる寂しさが、何故寂しいのか?
一体この寂しさの心の根源は一体何なのか?
大人と認められてないからなのか。
子供を持ってないし、おそらく持てず、大人として成長できないだろうという悲しみなのか。
息子より旦那さんのほうが信頼できるということが自分の自信を喪失させているのか…
それはわからない。
ただ優しさを目標にもつとしたら、それら3つがたとえ解消されなくても、意味をもたらさないのだ。
なぜなら優しさというものは父母という枠を超えて人々を愛することであり、父母にどう思われているかということは余り関係がないことだ、と私は考えている。
というより、誰かが困っているときに手助けができるかということが大事なのであって、
それは父母だろうが誰だろうが同じことであり、
またその人たちが私に何を感じているかということは全く関係のない話なのだ。
であるのに、今回の父の私への扱いに寂しさを感じてしまう私は、本当に優しさを手に入れたい人間なのであろうか?
他の何かを手に入れたい人間なのではないだろうか?
そう思ってしまうのである。
その答えはいつか手に入れるものだろうか、はたまた永遠に手に入らないものなのだろうか?
答えは漆黒の中なのである。
長々と長文失礼しました。
読んでいただき本当にありがとうございました。
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