第12話 体育教師、請け負う


 義理の母親。

 西園寺さん、その人と上手くいっていない――のか?


 十年前、西園寺さんのお父さんと会ったときは好印象だったのを覚えている。

 じゃあ、あのとき彼女がひどく落ち込んでいたのは……。


「礼哉さん。これだけは言っておきたいんです」


 扉に添えた手に力を込め、西園寺さんは振り向いた。


「私と四故槍君はっ、何ッの関係もありません、ので!」

「お、おう」

「それでは、失礼します!」


 そう言い残し、西園寺さんは用務員室を後にした。


 俺は椅子に腰掛け、しばらく天井を見上げる。食べ終わったおにぎりの包装を手でいじる。

 授業開始のチャイムを遠く聞く。


 ……すごい時間だったな。さっきは。


「家庭の事情、か。ただ事じゃないと思っていたが、思ったより根は深そうだ。大丈夫かな、西園寺さん」


 退散していった四故槍少年を思い出す。

 今回はビビって向こうの方から逃げてくれたが……あの剣幕。あの態度。とてもこれだけで終わりそうな気がしない。


 それに、西園寺さんの義理の母親という人。

 いまどき、親の一存で娘を婚約者として差し出すだろうか。西園寺さんの様子を見るに、きっと娘本人には一切話をしていなかった感じだ。


 一方的に、「お前はあの男の妻になれ」と。

 政略結婚なんて、いつの時代のことか。


 それに乗り気になって、たった一日で呼び名まで変える四故槍少年も大概だが……。

 このこと、西園寺さんのお父さんたちは知っているのだろうか。


 腕を組んで、「うーん」と唸る。

 俺が悩んだからと言って状況が好転するとは限らない。なにせ家庭のことだ。それはわかっている。

 けれど――。


『私もそんな礼哉さんが大好きですから』


 思い出して、口元を押さえる。

 自分でも赤面しているのがわかった。


「……放っては、おけないよな」


 誰にともなくつぶやく。

 我ながら単純だ。学校の生徒たちは、皆こんな風に西園寺さんに惹かれるのだろうか。


「……」


 おにぎりの包装をゴミ箱に捨てる。

 軒先から雨が滴る様子を見つめる。


「確かに西園寺さんは魅力的な子だ」


 言葉が漏れる。


「彼女が望まぬ交際を迫られているとしたら、何とかしたいと思っている」


 そこに誰かがいる気持ちになって、吐露する。


「だがその先……俺は、どうする? どうしたいと思っている?」

「……なにをブツブツ言ってんだ?」


 返事があった。

 俺は目を丸くして振り返る。

 用務員室の戸口に、呆れた表情の岸島が立っていた。


「こんなところで独り言は気持ち悪いぞ、中里」

「まさか本当に返事があるとは思わなかったよ」

「え、待って。もしかしてマジでそこに誰かいるの?」


 途端に不安げな表情で用務員室を見回す岸島。相変わらずの姿に、少しだけ肩の荷が下りた。


「独り言です、岸島先生。それで、何か用かい?」

「ちょっと道具を借りに来た。入るぞ。……入ってもいいよな? 呪われないよな?」

「そんな風に警戒したら、皆が可哀想ですよ」

「皆ってなんだよぅ」


 キリッとした美人が台無しである。いやすまん。

 怯えた様子の岸島だったが、テーブルの上を見て少し眉を傾けた。そういえば、ぼーっとしていて昼食のゴミが片付け切れていない。


「珍しいな。あんたがこんな時間までグダグダしてるの」

「まあ、ちょっとな」

「もしかして西園寺のことか?」

「……なんでわかる?」

「そりゃあんた、あたしはあの子の担任だっつの。ついでに言うと、四故槍よこやりもウチのクラスだ。知ってるか、あのボンボン」

「さっき来たよ。すごい剣幕でね」


 俺が答えると、岸島は表情を改めた。近くの椅子に勝手に座る。


「授業はいいのか、先生」

「今は空きコマだ。外もあんなだしな。……で」


 身を乗り出す。


「あのクソガキ、西園寺にまた何かやったのか」

「岸島……曲がりなりにもお前んとこの生徒だろ。クソガキとか」

「ホームルーム中にもかかわらず西園寺を口説きまくってる色ボケにはちょうど良い呼称だろ」


 辛辣。だが、そうか。やはり教室でもあんな感じなのか、彼は。


 岸島は少し声を落とした。雨の音で、用務員室の外の会話が漏れることはない。


「あたしは以前、担任として西園寺の保護者と話したことがある。あの子の父親、惚れ惚れするほどのイケオジだな」

「岸島」

「ま、あたしの旦那には劣るが」

「……岸島、ときどきお前の明け透けなところが羨ましくなる」

「旦那はやらんぞ」

「そのまま幸せに過ごしてください」


 岸島は笑った。だが、すぐに厳しい表情に戻る。


「直接話をしたのは父親。だがその後、西園寺の母を名乗る女性から学校に電話があった」

「西園寺さんの、義母」

「そこは知ってんのな。あたしは西園寺父から聞いた」


 西園寺さんの義母は電話口で、かなりキツイ物言いをしたらしい。どうやら西園寺さんがこちらの学校に通うことそのものに反対していたようだ。学校側の対応をたいそうなじったという。

「まあ右から左に聞き流したけどな」と岸島先生。やっぱすげえ。


「義母は、昔から西園寺への当たりがキツかったらしい。普通のご家庭なら離婚を考えるとこだが、まあそこはデカイ家のしがらみってもんだろう。今は別居して、距離を取っているそうだ。まったく、これだから名家ってのは厄介なんだ」

「実感こもってんなあ。そういえば岸島の実家も――」

「じゃかあしい。あたしんとこはいいんだよ、あたしんとこは」


 拳で小突かれた。結構痛い。鍛えているのか場数を踏んでいるのか、拳がやけに硬かった。


「西園寺のお父様からは、学校に迷惑をかけてしまうことを繰り返し詫びておられたよ。あの父親がいれば、めったなことは起こらないと思っていたが……中里、なにがあったんだ」

「……」

「あたしはあいつらの担任だ。情報は知っておきたい」


 天を仰ぐ。

 岸島なら信頼できると、俺は判断した。


「実は、西園寺さんの義母が、勝手に四故槍少年との縁談話を進めているらしい。四故槍少年も乗り気になっていて、もう彼女を下の名前で呼び始めている」

「マジかよ。くそっ、それを言ったら戦争だろうが」

「……いちおう確認するけど、モノのたとえだよな、岸島?」

「あーん? どうだろなァ」


 不穏すぎる。


「だが、それで得心がいった。昨日は大人しくしていたあのバカが、いきなり調子こき始めたのもそういう事情があったんだな。おおかた、冷遇する夫への意趣返しってとこか……嫌だねえ女の嫉妬は」

「岸島」

「あん?」

「西園寺さんの助けになってやってくれ。俺じゃ、学校のことはフォローしきれない」

「中里よぉ」


 岸島は口の端をつり上げた。


「てめぇ、やっぱロリコンか?」

「ロリコンじゃない。だが、西園寺さんの気持ちは大事にしたい」


 真正面から岸島の顔を見返し、告げる。

 狐につままれたような顔をした後、岸島は派手に笑い始めた。


「よしわかった! この桐花きりかさんに任せときな。その代わり、あんたも気張れよ中里。西園寺があんたを頼りにしているのは間違いのない事実なんだからよ」

「ああ。わかってる」

「へっ。いい顔するじゃないか。ま、あたしの旦那には劣るがな! ……あー、ところで」


 立ち上がった岸島が、また辺りを見渡す。


「マジで、本当に、ここはあたしらだけだったんだよな? な?」


 俺はふいと視線を逸らした。雨音が心地よい用務員室の中、静かに保管された備品を見つめる。


「少し前は賑やかだったけど、今は静かだよ――って、岸島?」


 振り返ったときには、勝ち気な体育教師の姿は消えていた。

 


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