第9話 ことり、添い遂げるための第一歩【ことり視点】
――ここが、礼哉さんのご自宅。
礼哉さんが育った場所。
私はコーヒーをいただきながら、ちらちらと室内を観察する。
ぜったいに、はしたなく映らないように。こっそりと。
年季の入った壁紙。きっと古い家具を整理したためであろう、フローリングの色味の違い。ベランダに繋がる大きな窓から差し込む、夕暮れ時の日差し。
コーヒーの甘さが、もの凄くこの空間に馴染んだ。
広いか狭いかで言えば、決して広いとは言えないお部屋なのだろう。
実家に比べたら――と言われれば、私は否定の言葉を持たない。
けれど、ここは心地よい狭さだ。温かい空間だ。
私は知っている。
大きな屋敷にだって、片隅には窓もない数畳の空間がある。そこで数日を過ごす孤独と不安を知っている。
だから、狭さは気にならない。
むしろここは天国だ。
だって――。
「西園寺さん、おかわりいるかい?」
「はい。いただきます」
ここには礼哉さんがいる。
十年、ずっと待ち望んできた時間が、空間が、ここにはある。
そのことを、お付きのおふたりも十分に理解してくださっていた。
私の表情に気づいていたおふたり、今もずっと涙を流している。
私は本当に、よい家族に恵まれたと思う。
そうだ。今度お菓子を作りましょう。おふたりにはお子さんがいたはず。日頃の苦労を少しでも労ってあげたい。
……十年前は、とてもそんな心の余裕はなかった。
これもすべて、礼哉さんと出会えたおかげ。
私は静かに呼吸を整える。
礼哉さんは、私の無茶な要望を聞き入れてくれた。その上、さりげない気配りをみせてくれる。玄関前では、思わず強く抱きしめてしまいたくなった。
ただ、礼哉さんも話題には少しお困りのようだ。
当たり障りのない近況報告とか、十年前と今との街の違いとか。うん、近いうちに絶対二人でデートします。小目標設定。
今日、ここにお邪魔したのは大目標へ向けての第一歩のため。
「礼哉さん」
私は切り出した。
「私の転居日はいつにしましょうか?」
「一回深呼吸しようか」
私は素直に深呼吸する。
甘いコーヒーの力もあって、すごくリラックスした気持ちになる。
礼哉さんが言った。
「……えー、じゃあもう一度お願いします」
「私の転居日はいつにしましょうか?」
寸分違わず同じ台詞で伝える。
市役所への手続きやアパートの管理人様へのご連絡がある。周辺住民の方々へのご挨拶は済んでいるものの、引っ越しに当たって色々ご迷惑がかかることもあるだろう。
なにより、4月も始まったばかりのこの時期。礼哉さんもお忙しいはず。
家主の状況が落ち着くまで待つべきだ。
「礼哉さんのご都合に合わせます」
それはもう、何もかも合わせます。どんな希望でも。
そんな強い決意をもって礼哉さんを見つめる。
すると礼哉さんは、私の向かいにやってきて、フローリングの上に座った。なんてこと。どうぞソファーにかけていただいて。座るなら私がそちらに――。
「西園寺さん。落ち着いて話をしよう。君はまだ高校一年生だ。そして俺は、君の通う学校に勤める、いち用務員。いっしょに暮らすことはできないよ。俺にとっても、君にとっても、良くないことだ」
真っ直ぐな視線だった。
ああ、やっぱり礼哉さんだなあと私は思った。
十年前から変わっていない。他人を思いやって、それをきちんと言葉にできる方だ。
だからこそ、私はあなたと一緒に居たい。
「わかりました」
「わかってくれたか」
「これから毎日通い妻をさせていただきますね。素敵な響きです」
「わかってくれてなかったか」
「ふふ。冗談です」
むつかしい顔をされる礼哉さん。私は笑った。
「卒業すれば私も成人。それまでは、常識的な範囲で親交を深めさせていただきたいと思っています。あなたを心から慕うひとりの女性として」
「む、う……」
「もちろん、お心が変わればいつでも本気でお付き合いいたしますから」
「……ここに来る前から感じていたが、西園寺さん。強くなったね本当に」
「父の影響でしょうか」
また、笑みが湧いてきた。
「『大事なものを決して手放さない』……礼哉さんと出会ってから、私と父が心に決めたことですわ」
「……?」
「私も父も、礼哉さんが大好きということです。いつか父ともお会いいただければと。きっと喜びます」
天を仰いでさらに難しい顔をする礼哉さん。
これ以上困らせるのは本意ではない。
礼哉さんに私の気持ちと決意を伝えること――それが大目標への第一歩だ。
本当はもの凄く名残惜しいけれど……礼哉さんのベッド、見てみたかった。
私は連れのおふたりに目配せする。
「今日のところは、これで失礼しますね。コーヒー、ありがとうございました。とても美味しかったです」
「……気をつけてね」
「はい。礼哉さん、明日はお昼、一緒に食べましょうね」
終始笑顔の私に、礼哉さん頬を緩めてくれた。
玄関先で改めて挨拶をして、踵を返す。隣近所の方と目が合ったときは、丁寧に黙礼を返した。
車に乗り込んだ私は、運転手さんにひとつ、我が儘を言った。
「すみません。もう一度、神社へ行っても構いませんか? ルリに、今日のことを報告したいんです」
「わかりました」
目尻をハンカチで拭いて、運転手さんが車を発進させる。
周囲が暗くなってくる。
神社に到着した私たちは、灯りを手に、手短にルリの元へと向かった。
黄昏に薄らと浮かび上がる鳥居に手を合わせようとしたそのとき。
私の携帯電話が鳴った。
見知らぬ番号だった。
「はい。西園寺です……お
私は、電話に出たことを激しく後悔した。
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