【完結】太陽の拳

月待 紫雲

エピソード1

隻腕の女

「おいおい、マジかよ」


 思わず、呟いてしまっていた。

 スケートの競技場……というのは昔の話で、今では全く別の用途で使われる場所。その観客席で、ブレイドは観戦をしていた。

 氷の張られていないアイスリンク。楕円形をした広いステージで、『ハンズ』は行われている。

 ハンズは格闘競技だ。一対一での勝負であれば何をしても許される。

 ブレイドが観客席から見下ろしているのも、そのハンズの勝負だ。


 ひとりは男。

 もうひとりは女。


 明らかに女のほうが不利に思えた。


 男のほうは背が高く、さらけだされた上半身には力強い筋肉がある。


 対して女は、身長も平均より少し高い程度だ。長い茶髪は後ろで束ねられていた。白いTシャツにジーンズといった単純な格好をしている。何よりも目を引くのが左腕……いや、左腕があるはずの場所だ。シャツの左袖から先は何もない。


 左腕がないのである。


 その両者を見れば、どちらが有利かなど子供にでもわかることだった。

 男に比べ、どうしても非力な女だ。加えて今回、女には左腕もない。女というだけでも十分なハンデだというのに、左腕がないために更なるハンデを背負ってしまっている。

 だが。

 現実は、奇妙だった。


「やるじゃねえか、あの女」


 にも関わらず、ハンズで物事を有利に進めているのは女のほうであった。


 男が力まかせに突進する。


 女と男の距離は数メートル。助走によって突進の威力が増すには十分な距離だった。

 女は立ち止まったまま、動こうともしない。


 そうして、男が女へ接触する直前、女は右へステップを踏んで突進をかわしてみせた。

 一秒でさえ遅れは許されない、ギリギリのところで女は攻撃を避けていた。

 突進を避けられた男は急いで立ち止まろうとして勢いを殺し、女に振り返る。女と男の距離はまた数メートル開いていた。


 これで、何度目だろうか。


 まるで闘牛のようなやりとりを、女と男は何度も繰り返していた。

 男が攻撃を繰り出し、女はそれをすべて避ける。闘いが始まってそれほど経っていないが、それにしても女の動きは異常だった。

 反応速度、ステップの円滑さが並みではない。


「アンタ、賭けしないかい?」


 ブレイドが観戦していると、隣から声を掛けられた。

 視線を向けた先には意地の悪そうな顔をした老人がいた。白いひげをたくわえ、顔に深く皺が刻まれている。


 ハンズでは客同士の賭けが行われる。どちらが勝つか、金を賭けるのだ。うまくいけば一攫千金、下手をすれば借金まみれだが、これもハンズの楽しみの一つであった。


「あん? 何で俺と賭けやるんだよ。ほかとやりゃいいだろ」


 ブレイドの返答に、老人は下品な笑みを浮かべた。


「ワシはあの男に賭ける」


 老人はブレイドの話など聞いていないようだった。

 ブレイドは少し思考をめぐらせ、あることに気づく。


 おそらく老人は女が勝つなどとこれっぽっちも考えていないのだろう。攻撃は避けられていても所詮そこまで、女の体力が尽きれば男に叩きのめされるであろう、と。


 先ほど、ブレイドは女に感心していた。癖である独り言を聞き取った老人が、ブレイドから金を巻き上げるために賭け合いを申し込んできたのだろう。


 ブレイドは笑った。まるで、悪魔のように。


「いい度胸じゃねえか、じいさん。いいぜ。俺は女に全額賭けてやるよ」


 ブレイドが高らかに宣言すると、老人は嘲笑う。


「随分自信があるなぁ。あとで後悔しても遅いからのう」

「オーケー。上等だ」


 ブレイドはそれきり老人から視線をはずし、闘いへ意識を向けた。

 女は涼しい顔で男の攻撃を避けている。避けるたびに、後ろでまとめられた茶髪が、馬の尾のように揺れた。


 男が女と距離をつめ、拳を振るった。女の頭を狙った、容赦のないパンチ。

 女はそれに臆することなく、パンチが当たるか当たらないかスレスレのタイミングで首をひねった。女の顔のすぐ横を、男の拳が通りすぎていく。


「いいねえ、いいねえ」


 ブレイドは胸の鼓動が早くなるのを抑えられなかった。久しぶりの興奮が、ブレイドの身体を震わせる。


 隻腕の女。


 今、闘いをしている女を、ブレイドは噂で耳にしたことがあった。素早いステップで相手を翻弄し、一つしかない拳を叩き込んで男を打ち倒していく女。


 ハンズにおいては、男女の区別などない。一対一で、素手の勝負がルールであり、それ以外はルールではない。服装もバトルスタイルも自由だ。


 ゆえに女でハンズを勝ち続ける人間は少ないのである。よほどの実力者でなければ生き残れない。


 それに。


 このハンズでは対戦相手に何を行っても構わない。つまり、勝者が敗者を殺しても、欲望のはけ口にしても文句は言われない。

 殺してもいい。殺さなくてもいい。ただ、殺さない場合でも敗者には地獄が待っている可能性が高い。


 その中で女が勝利を続けていることは奇跡といってもいいかもしれない。


 突然、歓声が沸き起こる。


 女が、攻撃に出たのだ。女は男の拳を避けた瞬間、一歩前に踏み込んで懐に入り込んだ。そして、男の顎目掛けて拳を振り上げたのである。

 溜めとスピードのついたアッパーが、男の顎をとらえて突き上げる。男は体を宙に浮かされ、そのまま仰向けに倒れた。


「ヒュー」


 ブレイドは手をたたく。

 女のアッパーはそう易々とできるものではない。男の体重は決して軽くない。むしろ重い。

 その男を、たった右腕から放った一撃で。一瞬とはいえ体を浮かせたのである。


 並外れた腕力と柔軟な足腰、抜群の戦闘センスがなければ難しいであろう。いや、それがあったとしてもできるかどうか曖昧だ。


 ブレイドが女であったならばアッパーはしない。体格差を考えるとリスクが大きすぎる。

 やってのけた女に、心から打ち震えた。


「じいさん、俺の勝ちみたいだぜ」


 ブレイドは老人に向かって勝ち誇る。


「ふん、女の一撃でやられちまう男ではなかろうよ」


 男は立ち上がらない。いや、おそらく立ち上がれないのだろう。

 強烈な一撃をもらってしまったのだ。そう簡単に立ち上がれるはずがない。


「もしかしたら、気絶してるかもしれないな」


 男は倒れたまま、ぴくりとも動かない。呼吸はしているようだが、意識はないようだった。

 女は男の様子を伺うように近づいてから、ステージの外にいた進行役になにやら話しかける。

 ハンズにおいて審判はいない。止める必要がないからだ。殺すまで拳を交え、闘ってもいい。だが、競技という以上、進行を勤める人たちはいる。


「彼は気絶している、もう終わりにしてくれ」


 かろうじて聞こえた女の言葉に、ブレイドは口の端がつりあがった。


「じいさん。あの男、やられちまったらしいぜ。気絶してるってよ」

「アンタ、あそこの会話が聞こえたのか?」


 ブレイドは答えず、代わりに肩をすくめてみせた。

 進行役の男はマイクを手に取り、口を開く。


『勝者、カレジ・ローレル』


 進行役の言葉を聞いて、老人は絶句した。


「だとよ。な、じいさん。自分から仕掛けた勝負だ。いさぎよく負けを認めろよ?」


 嫌味たらしく、ブレイドは老人の肩を軽く叩いた。

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