北町夜話
うろこ道
一
夜の
夏の日は高けれども、ひとたび傾けば夕闇の足は速い。いつのまにやら座敷の隅に蹲る
ねっとりとした昏暗の中――江戸八丁堀の町方同心、
宗右衛門は明日早朝に江戸を
普段の宗右衛門ならば、
都の
化野は小倉山麓一帯に広がる京洛の西の無常所であった。東の無常所である
つまり腐乱したり
怖い。
そんなところに行くのはとても怖い。
宗右衛門は凍えるように、無骨な両手で己の肩を抱いた。都の華やかな雰囲気や京美人のしっとりとした
しかし、元来宗右衛門は臆病でもなんでもなかった。
むしろ誰よりも肝っ玉は据わっていたといえる。
死体が怖くて江戸の
怖くなったのはほんの最近――去年の夏のおわりのことだった。
※
あれは昼間のうだるような暑さの残る、夕刻であった。
その横で家の者が泣きすがり、また一心不乱に念仏を唱えていた。
「殺しか」
「へぇ。わかりません。初めに見つけた男によると、横手の細道で叫び声がして、駆けつけた時にゃあ、女は血を流して息絶えていたそうでやす」
そうか――と、宗右衛門は眉根を寄せた。内心はけろりとしたものだったが、遺族や小物の手前、神妙な顔をしないわけにはいかなかった。そのとたん、腹がぐうと鳴った。亡骸を見て食欲が
小物が家の者を下がらせるのを待って、宗右衛門は筵をめくった。途端、強い白粉のにおいと、
血走った
さらされた喉が一文字に引き裂かれていた。
小物が、女は家の
「なんにせよ、むごいことです。花も恥じらう小町でも、こうなっちゃあ、お
まったくだ、と宗右衛門は死に顔に目を落とす。
――生前はさぞやいい女だったのだろう。
宗右衛門は、自分は死体を人ではなく物として見ることができるから女の器量を冷静に計れると自負している。例のごとく、頭の中で苦悶に歪んだ
ぽっかりとうろのごとく開いた口も本来なら上品なおちょぼ口であったのだろうし、飛び出さんばかりに見開かれた目もきっと涼しげな切れ長であったはずだ。死んだ
その時、女の目が――ぎょろりと宗右衛門を見た。
宗右衛門はぎくりと身を強張らせた。
「――なんだ、生きておるではないか」
宗右衛門の掠れた呟きに、小物は驚いたように目を上げた。
「ありゃあ、どこをどう見ても死んでまさぁ。あの薄膜が張ったような目ぇが、なによりの
「何を言っておるのだ、あの目こそが……」
その時、宗右衛門は今更のように気がついた。あんなふうに喉笛を引き裂かれ、生きているわけがない。
とたん皮膚が粟立ち毛が太り――頭の芯が痺れたようになった。
「どうかなさったんでぇ」
小物が不審げな顔で見上げてくる。
宗右衛門は口を
――おれの
恐る恐る女に目を遣る。
女は
場所を動いても視線はついてきた。目玉が宗右衛門の動きを追うのである。
他は死んでいるのに、目だけが生きているのだ。
その日を皮切りに宗右衛門は
死体検分のみならず、辻の行き倒れや、玉川上水に浮かぶ土左衛門でさえ宗右衛門を見た。ただし見てくるのは女の死体のみだった。だからどんなに崩れていても性別だけは検分せずとも一目瞭然である。
戦々恐々の毎日であった。
江戸の町は物騒である。怨みある人殺しのみならず、辻斬り、仇討ち、情死、自害と
その度にあの目で見られる。
暗く深い闇の
怖かった。
怖い怖いといいながらも、実のところ宗右衛門が怖がっているのはあの目ではなかった。
宗右衛門が本当に怖れているのは――あの目に魅せられつつある己自身であった。
宗右衛門はあのような目で女に見られたことなどなかった。女に縁がなかったわけではない。むしろ
宗右衛門は、
もう、絡め取られて逃げられそうもない。
そんな矢先、奉行所から上京の達しがあったのだった。
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