北町夜話

うろこ道

 夜のとばりが畳の上を音もなく忍び寄り、だだぴろい座敷をずぶずぶと侵食していった。

 夏の日は高けれども、ひとたび傾けば夕闇の足は速い。いつのまにやら座敷の隅に蹲るさむらいまでも闇に漬かっていた。

 ねっとりとした昏暗の中――江戸八丁堀の町方同心、山崎やまざき宗右衛門そうえもんは、ひとり震えていた。

 宗右衛門は明日早朝に江戸をで、上方かみがたにまでゆかねばならなかった。上役うわやくからの命である。

 普段の宗右衛門ならば、都遊みやこあそびの大義名分を貰ったと喜び勇んで京にのぼるのだが、今回は事情が違った。


 都の風靡ふうびの地――嵯峨さが化野あだしのに立ち寄らねばならなかった。


 化野は小倉山麓一帯に広がる京洛の西の無常所であった。東の無常所である鳥辺野とりべのと同様、無縁仏が散乱する風葬の地である。

 つまり腐乱したり糜爛びらんしたり禽獣がろうていたりするしかばねがごろごろしているのだ。

 怖い。

 そんなところに行くのはとても怖い。

 宗右衛門は凍えるように、無骨な両手で己の肩を抱いた。都の華やかな雰囲気や京美人のしっとりとした柔肌やわはだへの想いなど、一瞬にして吹き飛ぶくらいに怖かった。

 しかし、元来宗右衛門は臆病でもなんでもなかった。

 むしろ誰よりも肝っ玉は据わっていたといえる。

 したきがひるむほどひどいでも、まったく怖くなかった。信心が欠如しているせいか、嫌でもなかった。

 死体が怖くて江戸の同心どうしんなどやってはいられぬ。

 怖くなったのはほんの最近――去年の夏のおわりのことだった。



   ※



 あれは昼間のうだるような暑さの残る、夕刻であった。

 通報しらせを受けた宗右衛門は、神田かんだくんだりの小さな商家におっとり刀で駆けつけた。

 小物こものに案内されて屋敷の敷居を跨ぐと、土間の中央に茣蓙が敷かれており、その上にこんもりと膨らんだ筵があった。筵からは白い二本の足が覗いている。

 その横で家の者が泣きすがり、また一心不乱に念仏を唱えていた。

「殺しか」

「へぇ。わかりません。初めに見つけた男によると、横手の細道で叫び声がして、駆けつけた時にゃあ、女は血を流して息絶えていたそうでやす」

 そうか――と、宗右衛門は眉根を寄せた。内心はけろりとしたものだったが、遺族や小物の手前、神妙な顔をしないわけにはいかなかった。そのとたん、腹がぐうと鳴った。亡骸を見て食欲が増進すすむ奇人ではないが、神妙な顔をすると決まって腹が減るのだ。

 小物が家の者を下がらせるのを待って、宗右衛門は筵をめくった。途端、強い白粉のにおいと、金臭かなくささが鼻をついた。

 しかばねは女だった。

 血走ったまなこをかっと見開き、叫んだままの口の端から乾いた血筋がつうと伝っていた。塗られたべにがそのままこぼれたかのようだった。

 さらされた喉が一文字に引き裂かれていた。ぜた柘榴ざくろのようである。

 小物が、女は家のあるじの一人娘で歳のころは十七だとった。

「なんにせよ、むごいことです。花も恥じらう小町でも、こうなっちゃあ、おしめえでござんすねぇ」

 まったくだ、と宗右衛門は死に顔に目を落とす。

 ――生前はさぞやいい女だったのだろう。

 宗右衛門は、自分は死体を人ではなく物として見ることができるから女の器量を冷静に計れると自負している。例のごとく、頭の中で苦悶に歪んだおもて修正なおしを加えてゆく。仏を仏とも思わない宗右衛門の悪趣味だった。

 ぽっかりとうろのごとく開いた口も本来なら上品なおちょぼ口であったのだろうし、飛び出さんばかりに見開かれた目もきっと涼しげな切れ長であったはずだ。死んだうおを思わせる濁ったまなこは、濡れ光る青みがかったぬばたまの――。

 その時、女の目が――ぎょろりと宗右衛門を見た。

 宗右衛門はぎくりと身を強張らせた。

「――なんだ、生きておるではないか」

 宗右衛門の掠れた呟きに、小物は驚いたように目を上げた。

「ありゃあ、どこをどう見ても死んでまさぁ。あの薄膜が張ったような目ぇが、なによりのあかしでありやしょう」

「何を言っておるのだ、あの目こそが……」

 その時、宗右衛門は今更のように気がついた。あんなふうに喉笛を引き裂かれ、生きているわけがない。

 とたん皮膚が粟立ち毛が太り――頭の芯が痺れたようになった。

「どうかなさったんでぇ」

 小物が不審げな顔で見上げてくる。

 宗右衛門は口をつぐんだ。

 ――おれのほかには見えていないのか。

 恐る恐る女に目を遣る。

 女はしっかりと宗右衛門を見ていた。

 場所を動いても視線はついてきた。目玉が宗右衛門の動きを追うのである。

 他は死んでいるのに、が生きているのだ。




 その日を皮切りに宗右衛門は数多あまたの死体にこととなった。

 死体検分のみならず、辻の行き倒れや、玉川上水に浮かぶ土左衛門でさえ宗右衛門を見た。ただし見てくるのは女の死体のみだった。だからどんなに崩れていても性別だけは検分せずとも一目瞭然である。

 戦々恐々の毎日であった。

 江戸の町は物騒である。怨みある人殺しのみならず、辻斬り、仇討ち、情死、自害と無惨むざん流行ばやりである。さらに宗右衛門は同心なれば、わぬ死体にもいにゆかねばならない。

 その度にで見られる。

 暗く深い闇のこごった目――。

 怖かった。

 怖い怖いといいながらも、実のところ宗右衛門が怖がっているのはあの目ではなかった。

 宗右衛門が本当に怖れているのは――であった。

 宗右衛門はあのような目で女に見られたことなどなかった。女に縁がなかったわけではない。むしろ一端いっぱしに遊んできたからこそあの目は脳裏に焼きついた。

 しかばねの眼差しは果てしなくくらく、とろりと濃密で純粋な闇だった。それに比べれば生きている女の目など薄っぺらくて、生臭くて、浅ましい底が見えて――本当にいやになる。あんな厭な目をした女たちと今まで平気で情を交わしていたことがまったく信じられない程だった。

 宗右衛門は、しかばねひとみの黒さに死そのものを見ていた。

 もう、絡め取られて逃げられそうもない。

 そんな矢先、奉行所から上京の達しがあったのだった。

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