さんシャンてん!
サトスガ
第1話 黒い子猫が好きだった
◆
黒い子猫が好きだった。
部屋の窓より視線を落とした先に、私はその子を見つけた。春の陽差しを浴びながら通りを悠々と歩く姿に、不思議と私は心躍るものを覚えた。
もしも。
私が今すぐ部屋を出て、メイドの咎めをかいくぐり、屋敷の門を駆け抜けたとき、なおも通りを歩く黒い子猫を見つけられたなら。
私は、その子に付いて行こうと思った。そうすれば、ここではないどこか、想像もつかない素敵な街角へ私を連れて行ってくれるのではないか――そんな期待と幻想があった。
神様。私と子猫に祝福を。
幸い、めいめいが出払っていて、屋敷に人が少ないことを私は心得ていた。礼儀作法もおろそかに、私は早足で邸内を過ぎ去る。心臓が幾重にも早鐘を打っていた。
門の鉄扉に手をかけ、思いきり開け放つ。ああ、ついに。
通りに飛び出した私が見つけたのは、遠くに揺れる優美な黒の尻尾。
私はそれを、祝福と感じた。最初で最後の私のわがままを、神様は認めてくださった。そんな風にさえ思えて、目元に涙が滲む。
迷いはなかった。私は足を踏み出した。
次に視界に入ったのは、荒れ狂う荷馬車だった。
「……あれ」
どうしてこんな近くまで来てようやく気づくのだろう。きっと、心臓。私の心臓が、嵐を閉じ込めたみたいに騒がしいせい。
荷馬車はすぐ目の前、私に向かって走っていた。瞳孔が開ききり、我を忘れて暴走する二頭の馬の荒い鼻息が、まるで私を吹き飛ばすかのよう。御者の方は気を失っていて、荷台に合わせて激しく身体を揺さぶられているばかり。かろうじて握る手綱に、もはや意味はなかった。
死は突然の来訪者と言う。
私、フウロ・ナルメリアは死んだ。
○
はてさて、馬車に撥ねられ亡くなってしまったはずのその少女。
今は地球という星、日本という国にある学舎にて、身を縮こませていました。
学生らしく指定の制服を着用しています。風貌こそ日本人離れしていますが、それは本人以外の感知するところではありません。何故って、とにかくそういう仕組みなのです。
少女は、目の前に立つ同級生の背中を見上げていました。教室中の方々と同じように、その人の言葉に耳を傾けます。
日本語は、理解できます。けれど、頭に入りません。同級生の言葉よりも声高に、彼女自身の心臓が激しく鼓動し、緊張を主張していたからです。
気づいたときには、丁寧なお辞儀の後に同級生が座席に腰を下ろしていました。
教室に拍手が鳴り渡ります。つられて少女も両手をぱちぱちと合わせます。少し湿って震える手は、思うように音を出すことができませんでした。
教壇に立つ担任教師が、次の生徒を指名します。
「じゃあ、次。
「っはい」
成宮。それが少女の現世での姓でした。
成宮は席を立ちます。
教室を占める、クラスメイトたちの規則的な並びの中に、彼女ひとりだけがぽつんと浮かび上がります。みなの期待と関心の入り混じった視線を四方八方から一身に浴びます。緊張は最高潮です。
何をやっているかというと、新入生の自己紹介でした。入学初日、これから同じ学び舎で過ごすにあたり、クラスメイトたちとお互いを認知し合う最初の機会として設けられたもの。
「……どど、どうも初めまして。こ、こんにちはっ!」
初めまして、だけで十分でしたね。こんにちは、は不要です。それより先に名前を名乗るべきでしょう。
成宮自身も気づいたのか、顔をみるみる赤くさせました。
けれど不思議なことに、
「「「こんにちはー」」」
ややあってから、色とりどりな幾人もの挨拶が成宮の元に返ってきました。こういうのを優しい世界と言います。
優しさに掬い上げられるように、成宮は自己紹介を続けます。と言っても視線はおろおろ。
「わ、私、フゥロ・ナ……ではなくて、成宮、です。成宮、フーロ」
「ふーろ?」
隣の席に座る女の子が、首を傾げます。
「よよよよよ、よろしくお願いいたしますっ」
恥ずかしさに顔から火が出そうになりながら、成宮はささっとお辞儀をして着席しました。
皆さんから拍手を捧げられるも、彼女にしてみれば分不相応なものに他なりません。ますます萎縮してしまいます。思い返すと、名前の他に付け加えるべき趣味や好きな食べ物や興味ある部活やエトセトラだって言えていないのでした。
何はともあれ。
フゥロ・ナルメリア改め、成宮。
異なる世界、日本という国、天つ星女子高等学校にて、今日から高校一年生になります。
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