レムポイント(8)

 二人三脚を走り終えた乙百と僕は応援席へと向かった。左脚の痙攣が止まっていない乙百に肩を貸してみるものの、彼のほうが体格が良くて不安定。そんな僕たちを見かねたのか、クラスメイトたちが集まってきて、乙百に肩を貸す役目は僕よりも乙百に体格の近い新木田に交代となった。

 席までたどり着くと味吉さんがアイシング用の保冷剤を持ってくる。乙百はそれを受け取って脚を冷やしながら心配そうなクラスメイトを見渡して、それから冗談っぽい笑みを浮かべた。


「どうよ、堂々の一位」


 即座に新木田が「馬鹿野郎」と言って乙百の頭に軽いチョップを入れる。それから彼は乙百の左脚を見ながら「まだリレー残ってるぞ、どうすんだ」と呟いた。


「大丈夫だよ」


 乙百は余裕の笑みを浮かべて言う。


「まだ時間はある。少し休めば走れ――」


「――駄目だよ」


 乙百の言葉を遮る声。クラスメイトの視線が一斉に集まる先に、一人の女子生徒。見覚えがある。……小谷弦(こやつる)だ。乙百と同じく、陸上部の一年生。

 彼女は首を振る。


「大地はウチの、陸部の一年エースだよ。体育祭で無理してほしくない。……大地だって、わかってるでしょ?」


 訴える小谷弦に、乙百の笑みが翳(かげ)る。その様子を見てなお、彼に向かって走ることを強要する人はクラスの中にはいないみたいだ。乙百の隣に立っていた新木田は彼の眼前に手をやり、発言を留めてから口を開く。


「乙百がやる予定だったアンカーは俺が代わりに走る。ただ、俺も元々第一走者で入ってたから、代わりに第一やってくれるやつが必要なんだけど、誰かいない?」


 先程までの騒々しさが嘘だったかのように静かになる一同。お互いがお互いの顔へ目配せを行い、空気が凍っていく数瞬間。立候補する人間はいないとその場の全員が悟り、役目の押し付け合いが始まる時の独特の空気。中心にいる乙百が保冷剤を握る手に力を込めたその瞬間、どこからか、誰かの声が上がった。


「『高橋』の責任払いだな~」


 ワンテンポ遅れて僕の心臓が激しく動き始める。二人三脚を走り終わった時と同じくらいに強く早鐘を打ち始める。


「まあ、乙百が脚いったのって二人三脚だもんな。『高橋』がペアだっけ」


「男子の代走なら女子は不利すぎるしね」


「でも『高橋』って足遅くなかったっけ」


「あー、どうだろ。でもヨウヤ速いから巻き返せるんじゃね」


「足遅くて第一だと晒しもんじゃん? カワイソ」


「しょうがないっしょ。責任払い」


 今、僕に視線が集まっているのを感じる。でも僕はじっと茶色い校庭の砂を見ている。誰がどの言葉をいっているのか分からない。みんなの雑音が同時に起こって聞き分けられない。そうしていたら、「たーかはし」と誰かの声。


「たーかはし! たーかはし!」


 誰かの声に、誰かの声が乗っかって一つになっていく。僕はほとんど何も考えず、自動的に顔をあげる。不思議と口角もあがっていた。

 みんなで楽しそうに手拍子をしている様子が見える。悪意なんて微塵も感じない笑顔、笑顔、笑顔。そう、決してこれは僕をいじめるものでも無いし、誰かが故意に仕組んだことでも無い。ただ、そうなった。ただ、水が上から下へ引っ張られるように落ちて、その水が集まって、流れが生まれて、みんなそれに流されただけなのだ。

 視界の端でみんなと違う動きを見せるものもいた。染石が何か喚いて周囲の女子たちに語りかけているが、そんなものは些末ごとである。一度全体が動いたら止めることは簡単ではない。それこそ、誰かがぶち切れて叫ぶくらいのことをしないとならないだろうが、僕にそんなつもりもない。

 誰かが言っていた『晒しもん』。およそ僕の一番嫌なことだけれど。僕は多分、これまでと同じく流されることしかできない。


「え、と……それじゃあ、僕が――」


「――『高橋』じゃねえ!」


 びっくりするくらいの大声が響く。あれだけ大きなうねりになっていた『高橋』コールも止まり、凪ぐ。その中で、再度「『高橋』じゃねえよ」とつぶやくように言ったのは……乙百だった。


「『高橋』じゃなくて、『九空埜』だ。……な、そうだろ」


「あ……。えっと……」


 先ほどの大声で急に視界が開ける。さっきまで流されることしか考えられなかったのに、思考が立ち止まる。開けた視界の端に染石の姿を見つけた。彼女も驚いたような顔をしていたが、僕と目が合うと、口の端を結んで頷いた。

 ふと、自然と思った。……そうか、今なんだ、と。

 改めて乙百の顔を見ると、彼もいつもの柔和な笑みではなく、真剣な表情で僕を見ていた。

 僕はそれに応えてゆっくり頷いた。


「……うん。九空埜だ。僕は」


 それから、僕は一度周囲を見渡して、小さく息を吐いた。


「……僕は『高橋』では無いですが、もし誰も走らないのでしたら、僕が走ります」


 即座に乙百は驚いた顔をする。そして椅子から立ち上がる。


「いや、無理する必要は……」


 しかし、そんな乙百の肩を押さえ、無理やり座らせた新木田は手を叩く。


「おっけ。大丈夫。お前に代走頼むわ、『九空埜』」


 そして新木田はクラスメイトたちにも視線をやって続けた。


「誰もいないんだろ? じゃ、代走は九空埜で文句ないね?」


 顔を見合わせるクラスメイトたち。遅れて拍手と囃し立てる声。何人かの男子が調子良く僕の背中を叩いてくる。そしてひとしきりの盛り上がりの後、僕は乙百のところへ行った。

 乙百は僕に気がつくと照れくさそうに笑いながら手を振ってくる。


「乙百くん。……気遣ってくれたのに、ゴメン」


 乙百が止めてくれようとしたというのに、結局僕は代走者として走ることを選択してしまった。彼の思惑とは真逆だろう。しかし乙百は「いや……。九空埜が良ければ良いんだ」と朗らかに言う。それから、視線を下げる。


「それに、これは半分俺のためでもあるからさ」


「『俺のため』って、どういうこと?」


 左脚を悪くしたことを省みての言葉だろうか。でも、それだって原因をたどれば、そもそもクラス全体が乙百に競技を沢山お願いした結果なんだ。彼が罪悪感を抱く必要はない。


「ん、いや……。というか、あれ。敬語」


 乙百がぽろりとこぼした違和感。僕もそれを聞いて、ようやく気がつく。


「え、あ……」


 あれ、いつの間にか敬語が外れている。いつからだろう。気をつけているつもりだったのに。

 僕が自分の発した言葉を思い出そうとしていると「はは」と乙百が笑った。


「良いじゃん。話しやすいよ。ナシで行こうぜ、な」


 言われて僕は考える。敬語をやめて良いのか。

 良いだろう、と思った。

 僕は彼と話をするのに、敬語は必要ないと思った。


「……うん。そうする」


 さっきの作ったものとは違う。自然と口元が緩む。乙百もにっこりと笑った。

 すると、「いーねえ、青春ですなあ」と軽口が後ろから聞こえる。乙百が僕の背後に視線をずらしながら言う。


「お、染石。どうした、おっさんみたいなセリフ吐いて」


「おっさ……失礼な。じゃなくて、九空埜が第一になるでしょ。私が第二だからさ」


 染石がバトンを僕に向けて差し出してくる。


「軽くバトンタッチの練習しよ」


 僕はそのバトンを受け取って、小さく頭を下げた。


「……よろしくお願いします」


「敬語に戻ってる! まあいいや。九空埜はのびのび走ってよ。順位がどうだろうと私が一着で次に回すからさ。じゃ、ちょっと離れるからバトン渡してみて」


 彼女はそう言うと駆け足で距離をとっていく。それを眺めながら乙百は小さく笑った。


「随分と男前なやつだな。九空埜、大丈夫そうか?」


 僕は頷いてみせる。


「うん。……やってみるよ」


 渡されたバトンをしっかりと握り、僕は染石のいるところへ駆け出した。

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