レムポイント(7)

 染石と別れて校舎を出ると、すぐに眩しい陽光が降り注いできた。しかし、角度は着実に落ちてきており、昼前の白さと比べれば赤みも帯び始めている。体育祭も後半戦となり、徐々に終わりが見えてきた。

 歓声が聞こえてきて僕は校庭へ目を向ける。複数の生徒のグループが校庭の真ん中で固まって並んでおり、一定のリズムで飛んでいた。ちょうど二年生の大縄跳びが行われているところだ。


「席……戻ろう」


 僕の少ない友人たちの様子に変化がないか、もしくは彼らの周囲に変わった様子の人がいないかを確認してみようと思った僕は応援席へと足を向ける。校庭の端を大回りして戻ろうとしていたところで、向かい側から歩いてくる男が僕をめがけて手を振ってくるのが目に入った。


「九空埜!」


 体育祭で大活躍の乙百だった。肩まで捲くった体操着、額には赤色の鉢巻を巻いている。眩しい笑顔を見せながら近づいてくると、彼は「探したぞ」と言ってから肩をポンと軽く叩いてきた。


「次、準備は万端か?」


「つぎ……」


 と言われて頭の中で『次』を探す。それからワンテンポ遅れて気がつく。大縄跳びの次だった……二人三脚は。

 急にお腹のあたりがギュッと固くなるような感覚を覚える。息をするのが少し浅くなって、心拍数も気持ち早まった気がする。顔に出てしまわないように力が入る。その僕の顔を見てか、乙百は苦笑いをした。


「思ったより緊張してるな」


 隠そうとしたものの全くの図星だ。普通の生徒の例に漏れず、僕は衆目に晒されることに慣れていない。高校一年生がそんなに人目に強いわけがない。でも、それを見抜かれてしまうのも恥ずかしく思い、何とか強がって「大丈夫ですよ」と嘯いてみるものの、やっぱりこれも隠しきれていないのだろう。

 あんまり楽しい話題ではないので、別の話に移れないかと視線を動かす。目に止まったのは乙百の頬を伝う汗。僕は「出ずっぱりですよね。流石に疲れましたか」と聞いてみた。乙百はにこやかな表情を崩さずに「ちょっと疲れたかも」とつぶやく。

 それでも、こんなに複数の種目に出場するというのは周囲の期待の裏返しである。彼の運動能力に対する評価なのだ。陰で彼のことを『体育祭ヒーロー』と呼ぶ人もいるとはどこかで聞いた。


「次の二人三脚の出場者は本部の前に集合してください」


 放送部からの呼び出しだ。スピーカーから出てくる独特のたわんだ音声を聞いて、僕と乙百は目を合わせる。乙百は「よっしゃ」と一つ気合を入れると、僕の背中を叩く。


「いくぞ、九空埜! 練習の成果を見せに行こうぜ!」



 体育祭の二人三脚なんてものは男女ペアで和気あいあいとやるようなものが主だと思っていたのだけど、どうやらここ維目高校の二人三脚は結構本気で行う競技らしい。

 出場を前にして本部の前に集合した生徒たち。特に上級生は何の知見も無いような僕から見ても足の早そうな人たちで構成されていた。ただし、そんな学校の雰囲気など知らない一年生はヘラヘラした雰囲気のコンビも混じっており、少しだけ安堵する。


「結構、陸部の人多いわ……」


 乙百が周囲を見て言う。せっかく安堵したはずの僕はその言葉に怖気づく。自らの言葉の責任を感じたのか、乙百は集合前と同じく、再び僕の背中を叩いた。


「大丈夫だ。自分じゃわかってないのかもしれないけど、九空埜は充分走れるよ。むしろ心配なのは俺だったりして」


「どうしたんですか、急に……」


 言いかけながら改めて乙百を見た僕は、彼の佇まいに違和感を覚える。

 ……あれ、こんなにボロボロだっただろうか。

 汗をかいているのはわかっていたが、体操着の汚れも格別だ。彼の爽やかなイメージと今日の八面六臂の大活躍に埋もれて見えなくなっていただけで、よく見れば彼はかなり消耗しているように見えた。

 今だって彼は笑っているようだけれど、目がついてきていない。無理やり笑おうとしているだけで目は据わっている。その目が僕の視線に気づく。隠れるように細められていく。


「ははは! なんてな! まだ対抗リレーだって残ってるんだ。全然余裕」


「大丈夫ですか。冗談に見えないですけど」


「大丈夫さ……。それとも、リレー、九空埜が代わりに走ってくれたりするのか?」


 急に矛先を向けてくる乙百。完璧に作られている笑顔の下で、本当はどう思っているんだろう。……本当に、僕に代わって欲しいと思っているのだろうか。

 だとしても、情けないけれど……走れるわけがない。『大丈夫ですか』だなんて、助けられる覚悟もないのに調子のいいことを言ってしまった。いつも流されて人の顔色ばかり伺っている僕だからこそこんなことを言ってしまったんだろう。不甲斐なさに自己嫌悪だ。

 自省していると、「冗談だよ」と乙百がつぶやいた。


「ちゃんとやるさ。……みんなに任された役割だからな」


 彼は額の鉢巻をきつく結び直し、観客席のクラスメイトたちを見据える。どうしてか、その彼の台詞は既視感のある言葉に――自分のすぐ身近にあるような言葉に――思えた。彼は僕とは真反対のような人間なのに。

 そうこうしているうちに、出順が迫ってきた。乙百と足を固定し、それから練習がてら軽く動く。彼と目を合わせ、大丈夫そうだ、と頷きあったあたりで順番が来て、僕たちはスタートラインへ着く。

 僕は先程鉢巻を巻き直していた乙百が見ていた観客席の方を眺めて、それから乙百の放った既視感のある言葉を思い出す。『みんなに任された役割』。その『みんな』というのは概して本人が思うほどに真剣じゃない。現に、さっきまでの僕はサボっていたし、サボりに行った先には僕みたいな人間が何人もいた。

 それでも、光の当たる『この場所』に立つと思う。一つ一つの各人の気持ちは小さくても、まとまることで充分な重圧になる。その重圧は、目立つのが嫌な僕はもちろん避けたいものなのだけど、もしかしたら乙百もそんな風に思っているのかもしれない。……それが、さっきの言葉に対して感じた既視感だとしたら。

 ――突然、乾いた破裂音が鼓膜を震わせた。


「あっ」


 右足がもつれかける。破裂音はレーススタートの合図となる空砲だ。最悪だ。どうでもいいことに気を取られてしまった。

 僕は慌てて足を動かす。若干、乙百の動きを追いかける形にはなったものの、何とか転ばずに進み始めた。前を向くと他の走者は前に出てきてしまっている。急がなければ最下位だ。


「うっ」


 僕は足に力を込めてギアを上げる。いつもの練習ではもう少し早く走っていた。その時は、乙百のスピードにどれだけついていけるかが課題になっていたので、僕はなるべく全力で走って、乙百が僕に速度を合わせて走るというのが作戦であった。

 今も同じだ。僕は全力で走る。乙百が速度を調整する。

 地面を叩く衝撃、風を切る感触。振り抜いた腕の荷重移動。……頭の中で自分の走りがイメージできる。乙百主催の体力づくりの効果に加えて、共有夢での体験が影響しているようにも思えてくる。

 自身に対するイメージ、認識。そういったものが夢の中での動きに影響すると染石は言っていた。だから共有夢での訓練によってその認識が強化された分、目が覚めてからの動きにも良い影響が出たのかもしれない。

 一組、二組を抜いていく。最下位だったはずの僕たちは徐々に順位を上げていく。二人三脚とは思えないほど無駄に力を入れて練習してきたのだ。負ける気がしない。

 僕たちは最後のコンビも抜き去り、一位へと躍り出る。

 眼前には茶色い地面の上にまっすぐ伸びる白いラインのみ。視界を邪魔するものはいない。誰もいないその光景。一位の光景。人生ではじめて見たような気がする。……悪くない景色だ。

 ゴールテープがぐんぐんと近づいてくる。身体を包む高揚感を味わい始めたところで、急に足が重くなった。


「くそ……」


 隣から苦しそうな息の漏れる音。視線を乙百に送ると、彼は歯を食いしばっている。足が更に重くなる。明らかなペースダウン。それに、気のせいじゃなければ……彼の左足が震えている。

 ゴールまではもう数メートルもない。だけど、このまま続けるのは……。


「止まるな、九空埜」


 小さな声で、乙百が言う。僕は頷いて必死な彼の足運びにあわせる。そうして僕たちはゴールテープまで辿り着いた。

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