第6話 ラザニア
あの人と結婚するのかな。
すっかり夕暮れの街を、そんなことを考えながら歩いていた。先の細いパンプスに押し込めた足が痛い。シンプルだけどラインが可愛い感じのベージュのワンピースにゆるいまとめ髪。好印象を与えそうな服装、と選んだものを身につけると自分がいかにも婚活中、という見た目になるのが、当たり前だけれど面白かった。
好印象、与えたみたいだし。
ほっとした。相手は白いゆったりとしたシャツに紺のパンツだった。黒い縁の眼鏡。ほどほどにカジュアルだけれど崩しすぎていない。フリーランスのイラストレーターという仕事から想像していた雰囲気と一致していた。
三十を過ぎて、そろそろ結婚も考えていて、婚活でもしてみようかなと思っていたところで、職場の同僚に紹介された相手だった。同い年でもう二人子供がいる男性の同僚の、高校時代の同級生なのだと言う。
在宅の仕事で、家事が得意で、穏やかな性格。収入はそこまで望まないが、家事を多めに負担してくれる人がいい。私の漠然とした条件にぴったりだった。メッセージのやり取りを何度かして、電話で一回話して、今日初めて会った。ホテルのカフェで待ち合わせて、二時間ぐらい話した。二人ともアイスコーヒー、私はショートケーキ、彼はチョコレートムース。ケーキの食べ方がきれいだった。結婚相手として紹介されたのに、結婚の話は出なかった。出ないけれど、結婚の雰囲気、というものが漂っていた。これまでの人生で感じたことがないものだったので、こういうことか、と思った。次は夜に会おうと約束した。好きな食べ物の話もした。相手が和食が好きでよく作ると言っていた。私も和食が好きだと話した。煮物が得意なのでそのうち食べてほしい、と言われて、頷いた。
何もかもが急で、ぼんやりしてしまう。多分、悩んでいる。悩むことが久しぶりで、頭が疲れる。仕事のことなら悩まない。多少複雑なタスクがあったとしても、目指すべきものは明確だ。でも結婚のことは、そもそも何を目標とすべきかわからない。
あの人と結婚するのかな。
あの人と結婚しても、うまくいくのかな。
条件ぴったりの相手だった。これ以上ぴったりの相手は多分見つからないだろう。でも、それなのに前のめりになれない。ひっかかる。
足が止まったところで、看板を見つけた。『喫茶もかもか』。目立たないその看板に書かれた営業時間が妙に気になって、入ってみることにする。少し、いつもと違う場所でゆっくり考えてみよう。このまま家に帰っても変な気分になるだけだし。
「いらっしゃいませ」
想像以上に若い男性と、毛玉が出てきた。ふわふわとしたそれは、犬だった。可愛い。
ゆったりとしたカウンターに座り、メニューを見る。お茶だけのつもりが、本日のごはんのところに目が留まった。
ラザニア。
夕飯には少し早いけれど、思いがけない文字に、急に食べたくなった。
「ラザニアを」
「はい」
お冷やを持ってきてくれた店員さんにお願いして、背もたれに凭れかかった。いい椅子だ。カウンターもしっかりしている。お店はこぢんまりとしていて、華美ではないけれど隅々まで整っていて居心地がいい。ガラスケースの中のお菓子も美味しそうだ。私はときどきお菓子を焼く。クッキーとか、パウンドケーキとか、スコーンとか。簡単なものを焼いて、一人でお茶を淹れて毎日少しずつ食べる。買った方が安く済むし美味しい、というのもわかるけれど、バターやお砂糖や小麦粉というありふれたものが、私の手を介してお菓子になるのが嬉しいし、焼き立てのバターでふにゃふにゃのクッキーや、まだ味がなじんでいないほかほかで新鮮なパウンドケーキは、純粋に美味しくできたお菓子よりも、楽しい。でも人に話したことはほとんどない。料理はほとんど冷凍のお弁当か外食で済ませるのに、お菓子だけ作っている、というのは言いにくかった。オーブンを自分の楽しみのためだけに使っているというよりは、オーブンを触る暇もないほど忙しい、というほうがまだ通りがいい。
今日もお菓子を作るとは言わなかった。
考えるためにお店に来たのに、考えるのが嫌になる。視界の隅でふわふわ揺れる尻尾につられて、犬をおっかなびっくり撫でてみた。
「ふわふわだね」
そうでしょうとも、というふうに真ん丸の黒い目がこっちを見ている。可愛い。気を抜くとめろめろになってしまいそうな可愛さだ。
撫で繰り回していると、「そろそろできます」と店員さんに言われたので、きれいに手を洗った。接客に疲れたのか、犬はこてんとベッドに転がった。可愛い。
「ラザニアです」
プレートの上に、丸いグラタン皿に入ったラザニアと、グリーンサラダとバゲットが載っていた。
「美味しそう」
「ごゆっくり」
目元を緩ませて、店員さんはすっと去って行った。
グラタン皿の端っこはまだくつくつと波打っている。焦げたチーズを狙うようにしてスプーンを突き刺す。端っこだけかりっと乾いて固くなったパスタ生地の手ごたえ。ふうふう息を吹きかけて食べる。野菜の甘さとひき肉の旨みと歯ごたえ。ぺらりと薄いパスタ生地に優しい味のホワイトソース。そして香ばしくよく伸びるチーズ。
ラザニア、大好きだ。こんがりとしたオーブン料理はみんな好きだけれど、その中でも特に、ラザニアが好きだ。外食でも食べる機会があまりなく、人に好き、という機会もない。というか、普段は私も好きなことを忘れている。でも、見かけるとつい頼んでしまうし、食べるとその度好きだなあ、と思う。二種類のソースに、ラザニアにしか使えない平べったいパスタ。作ったことはないけれど、作るのは面倒くさそうだ。軽食というには重いし、メインにするには満足感がない。でも美味しい。贅沢だ。かりっとしたバゲットにソースを載せて口に運ぶ。つめたいサラダも、新鮮でおいしい。美味しい夕ご飯だ。好きなものしかなくて。一人で。気楽。
ケーキだって食べたのに、慣れないことをしてお腹が空いていたのかもしれない。私はあっという間にプレートを空にしていた。未練がましくバゲットでグラタン皿を拭い、本当にご馳走様だ。
ふう、と息をつくと、おいしかった? と聞くように、犬がぱたぱたとしっぽを振っていた。手をしっかり拭って撫でてやる。どこもかしこもふわふわだ。
あの人は犬とか、好きかな。
そんなことを考えた自分に驚いた。カウンターに置いたスマホがぶーっと重たく震えた。大きい音に慌てて手に取ると、ちょうど考えていた人からのメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました
またお会いしたいです』
簡単な文面を、何度も読む。またお会いしたいです。また。
この人と結婚するかもしれない。
今日初めて会ったのに、そう思った。それは条件が合っていたとか、うまく行きそうとか、そういうこと、にしてもよかったけど、本当はそうではなかった。条件なんか関係ない。目が合った瞬間に小さく笑って、笑ったことを恥じるように真面目な顔をしたこととか、ケーキが来た瞬間に嬉しそうな顔をしたとか、そういうときに、そう思ったのだ。結婚するかもしれない。でも、ちょっと違う気もしていた。家事をしてもらって、お金を稼いで、煮物を作ってもらって。そういう生活って今の私に都合がいい。でも、結局のところうまくいくのかわからないのだ。想像は私一人でできるけれど、生活は人間二人でやるのだ。私と全然違うことをする男の人と。目の前に現れた人は、条件で出来ているのじゃなく、ただ生きている男の人だった。知らないところで生きてきた人。この人と結婚したって、うまく行くとは限らない。でも。ただ。
この人と結婚したい。
ああ、そうだ。ただ、そう思ったのだった。うまくいくのかどうかはともかく、この人がよかった。もっと突き詰めると、本当は、結婚したいのかもわからない。ただ、また会ったり、もっとお互いのことを知ったり、したかった。都合に合うかどうかじゃなく、あなたがどういう人なのかを。
返事を送らなきゃ、と思って、文字を打ち込む。
『私もまたお会いしたいです
ラザニアと犬はお好きですか?』
自分で見て、唐突な質問だな、と笑う。婚活なら、もっと聞くべきことはたくさんあるんだろう。いきなりこんなこと聞かれたってきっと困る。
でも、今の私がこの人に聞きたいことは、これなんだからしょうがない。送ってみる。どうしたの、とでも言いたげに、犬が私を見上げている。なんでもないよ、と頭を撫でた。
返信はすぐに来た。
『ラザニアも犬も好きですよ』
嬉しい。
『私も好きです』
と、すぐに返した。
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