第四話 月夜に星を探すような

 先生、と呼ばれる怪獣がいた。私は、彼女の全てを覚えている。

 先生は、私たちに怪獣として大切な事を沢山教えてくれた。生徒も沢山いて、皆友達だったけど、その中に一人だけ家族もいた。私とあの子だけは、事情が特殊だったのだ。先生は、私たち二人の親代わりでもあった。

 でも、沢山の友達と先生は、ある日いなくなった。その日の絶望に満ちた皆の顔も、生臭い血の匂いも、私は全て覚えている。

 あの子が、皆を殺した。私と先生は、それを止める事が出来なかった。私をかばって、先生は死んだ。

 ただ、それだけの話だ。それを覚えているのは私だけで、だから本当にそんな事があったのかも怪しい。そういう風に、私は嘘を吐き続ける。

 あの子に真実を伝えるのは、幸せな事では無い。もう覚えていない級友を自分が全て食べてしまった事を伝えられてもどうしようもないし、先生を自分が殺したなんて知ったら、彼女は深く傷つく。そんなの、当たり前だ。

 先生の理想は、私が叶える。あの日、そう決めた。

 甘い嘘だらけの世界に、悲しみは一つも存在しない。

 それでいい、はずだ。


  *


 予定通りに、怪獣が現れた。演出もバッチリだ。

「じゃあ、私たちは逃げようよ。近くにいると危ないよ」

 私はそう言うと、悠馬くんの手を取った。アカリちゃんにストレスを与えるためだ。妹に意地悪するのは、いつだって楽しい。

 悠馬くんは言った。

「お姉さんだったんですか? それなら早く教えてくださいよ」

 私は即答した。

「違うよ。あの子が一瞬そう呼んでくれた時期があっただけ。怪獣に姉妹がいると思う?」

 そう言い、私は出現した怪獣を目で指した。

 あれ? なんか、でかくない?

「でも、半分は人間なんでしょ?」

「え? ああ、どうだろう。彼女はともかく、私は違うよ。私は、愛とか恋とかを捨て去った怪獣だから。ていうか、早く逃げないと。私、もう今日はガス欠だから、守ってあげられる範囲には限度あるよ」

 私たちは走って怪獣から離れた。


 それなりに安全な所まで走り、怪獣を見上げた。そして、さっきの違和感が正しいと確信した。

「うわ。やっぱり、ちょっとでかいなあ。これ、ほんとに負けちゃうかも」

 私は、思った事が独り言として出るタイプだ。悠馬くんが答えた。

「負けちゃうって、そうなる前に何とかしてくださいよ」

 彼は慌てている。君の役割は、そういうのじゃないんだけどな。

「言われなくてもそうするよ。私は、あの子を失いたくない」

「やっぱり、本当は仲良いんですか?」

「え?」

 彼の言葉に、意表を突かれた。

「失いたくないって、今言いましたよね」

 めんどくさ。

 私は突き放すように言った。

「言ったかもしれないけど、どう見ても仲は良くないでしょ」

 彼は止まらない。マジで鬱陶しい。

「二人とも、本当は素直になれてないだけなんじゃないですか? どっちかがその気になれば、仲直りくらいできるんじゃないんですか?」

「うるさいなあ。君、いつからそんなに偉くなったの?」

 どうせこの会話は、後から奪い取る。だから、私は感情に任せて言った。

「私も怪獣なんだよ? その気になれば、君を殺すことだって、記憶を好き勝手いじることだって出来る。分かったら黙ってて」

「やらないでしょ、貴女はそんな事」

 こいつ、私の何を知ってるんだ。最近ちょっと仲良くしただけで、私が優しい人間だと勘違いしているらしい。

 私は言った。

「あんまり調子乗らないで。君とは、背負ってるものが違うの」

 感情のままに続ける。

「もう、何も分からないの。私にだって時間は残されていない。あの子にも時間は無いけど、それとは種類が違う。何も分からないから、進むしかないの。もう、戻れない所まで来てしまったから」

 それを言い終えたとき、怪獣の姿をしたアカリちゃんが現れた。でも、明らかに相手とサイズが違う。

 私は独り言として言った。

「ちょっとこれやばいな。調子乗り過ぎたかも。というよりは、この時代が異質なんだよ。皆どんだけストレスため込んでるわけ?」

 悠馬くんが、すかさず口をはさんでくる。

「なんとかしてくださいよ。貴女が戦えば勝てるんじゃないんですか?」

「うるさいなあ。こっちにも色々あるの。ちょっと計算をミスっちゃったけど、全部計算内だから、黙ってて」

「どっちなんですか。ミスったんなら責任取ってくださいよ」

「ミスった訳じゃない。むしろ予定通り」

 彼は食い下がってくる。

「絶対嘘じゃないですか。これでアカリが負けちゃったらどうするんですか」

「負けたら負けたで別にいいんだよ。私、あの子の敵だから」

「さっきと言ってる事違いません?」

 そうだろうか。私は感情のままに言葉を発していたから、そんなの気づかなかった。

 やっぱり感情のままに続ける。

「大人は色々立場があるの。私、仕事に家庭を持ち込まない主義だから」

「それ、普通は逆でしょ」

「知らないよ、そんなの。ほんとに、ちょっと黙っててくれる? 考えるから」

 私がそう言い終わると同時に、アカリちゃんが怪獣に突っ込んだ。

 でも、一瞬。

 本当に一瞬で、アカリちゃんは地面に転がった。相手は、傷一つついていない。

 これは、本当にやばい。絶対に勝てないやつだ。そうなると、話が変わってくる。実験は中止だ。

 私は大きくため息をつき、左手を怪獣に向けて伸ばした。

 視線の先で手の平と怪獣が重なるように照準を合わせる。

 そして、軽く握りつぶした。

 実際には左手を閉じただけだが、怪獣は苦しみ、叫び、消滅した。

 ふう。こんなの、アカリちゃんは絶対出来ないだろうな。これが、怪獣のあるべき姿なのに。

 私は額の汗を軽く拭った。

 悠馬くんは唖然として言った。

「貴女、そんな事出来るんですか。じゃあ、最初からやってくださいよ」

「簡単に言わないで。私だって自分の道を後悔することくらいある」

「話かみ合ってます?」

「知らないよ。君が怪獣だったら、あるある話になったんだけどね」

 私はそう言うと、指を鳴らした。

 ――プツン。



 久しぶりに失敗した。

 別に失敗した訳ではないけど、上手くいかなかった部分もあった。少し、反省点をまとめよう。

 怪獣を始末し、悠馬くんと別れた後、私は一人で小さな喫茶店に入った。窓際の席に案内される。今は真夏だが、私はホットコーヒーを注文した。コーヒー、というのはこの時代に来て初めて飲んだが、かなり好きだ。苦ければ苦いほど良い。ほのかな酸味があればより良い。

 今日の私の実験は、成功七割、失敗三割、といったところだ。失敗に備えてコツコツ準備をしておかなければ、今頃大変な事になっていただろう。

 成功したのは勿論、意図したタイミング、意図した場所に怪獣を出現させられた事だ。今まで、怪獣出現のタイミングはほとんどランダムだったが、今日の実験ではそれをコントロールすることに成功した。大きな進歩だ。

 失敗点は、その怪獣が強くなり過ぎた事だ。これは、本当に危険だった。悠馬くんの記憶を上手く利用しなければ、数えきれない程の死人が出ていただろう。

 そんな風に考えていると、店員がコーヒーを運んできた。どうやら、年配のご主人が一人で切り盛りしているタイプの喫茶店らしい。レトロな雰囲気が心地よい。

 コーヒーを飲みながら、世界の悲しみについて考える。

 私の計画が完了すれば、世界から悲しみが無くなる。人が悲しいと思った瞬間に、その要因となった記憶を取り除き、代わりの楽しい記憶を与えるからだ。

 私がやっていることは、正しいはずだ。悲しみの無い世界は、きっと幸せで、先生の理想そのものであるはずだ。

 でも、計画が進んで行く度、迷いが生じる。胸の中の誰かが、私を止めようとする。なぜだろう。こんなにも良い事を、私はしているのに。

 胸の中の誰かは、このままでは駄目なのだと、私に言う。その声は、全身を反響し続ける。その理由が、どうしても分からない。

 でも、ただ一つ分かるのは、先生が今の私を見たときに、笑顔にはならないという事だ。先生が生きていたときから、私はこの計画の事を先生に話していた。先生の反応は芳しくなかった。どうして。これが貴女の理想なのに。

 でも、そんな事、もうどうでもいいんだ。私の、何よりも絶対的な計画は、もうほとんど最終段階だ。本当に、全世界から悲しみも苦しみも迷いも傷も葛藤も全て消し去ってしまえる。全ての人間にとっての楽園を、私は創造する。

 計画が完了すれば、私のこの悩みもなくなる。楽になれるはずだ。そこにあの子はいないかもしれないけど、それで悲しむわけではないから別にいい。

 私はため息をついた。

 いつからこんな風になっちゃったんだろう。三人で過ごしていた頃は、本当に幸せだった。私たちは家族みたいだった。あの子は私をお姉ちゃんと呼んでくれたし、先生は本当の親みたいだった。でも、そんなの、今はもう無い。

 だから、私はもう止まれない。このまま、全てを終わらせる。

 ホットコーヒーを飲み終えた私は、席を立ち会計に向かった。店員が一人しかいないのは、手間が省けて助かる。

「四百円になります」

 そう言ったご主人の目を見て、指を鳴らす。別に指を鳴らす必要はないのだが、合図があった方がやりやすい。掛け声みたいなものだ。いち、にの、さん。

 彼は一瞬頭を振った後、営業スマイルをくれた。

「いらっしゃいませ。お一人ですか?」

「はい。お一人でした。コーヒー、美味しかったです」

「え?」

 困惑する店員を背に店を出た。怪獣人間の少ない利点は、無銭飲食が出来る所だ。店員の記憶も頂けるから、一石二鳥。あの子はせっせとアルバイトをしてるらしいけど、私からすれば馬鹿げている。怪獣は気苦労が多いのだ。仕事も多い。アルバイトなんてやってられない。

 ただ、記憶を食べるのは疲れる。人があんなにすぐ何かを忘れることは無い。それを無理矢理忘れさせているから、ちょっと疲れる。乱用はできない方法だ。

 さあ、計画完了までもう少し、頑張っていこう。


  *


 帰りの電車でアカリが僕に聞いた。

「そういえば、あの人とどんな話をするの?」

「ん?」

「あの人、悠馬に頻繁に会いに来てるんでしょ? どんな話をするの?」

「何の話? あの人って、アカリのお姉さんの事? 会ったのは今日が久しぶりの事だったよ?」

 アカリは少し考えてから独り言のように言った。

「やっぱりそうだよね」

「どういう事? 何がやっぱりなの?」

「悠馬、本当はあの人に何回も会ってるんだよ。君がそう言ってた」

「いや、そんな事言った覚えないけど」

 アカリは少し迷ってから言った。

「んー。ちょっと難しいというか、複雑な話するけど、いい?」

「どうぞ」

「怪獣は、記憶を食べるの。沢山記憶を食べると強くなるし、食べる記憶の種類も強さに影響する。単なる物忘れとかも、怪獣に食べられるよ」

「うん」

「それで、記憶と怪獣の本来の結びつきっていうのが、大事になってくるんだよ」

「なるほど。ちょっとよくわからないな」

「うん。だと思った。つまりは早い話、自分自身についての記憶が、怪獣を最も強くするの」

「はあ」

「あの人は、悠馬に何度も会って、悠馬に自分の事を覚えさせた。そして、その記憶を一瞬で全て使い切る事で、今日の怪獣を倒したんだよ」

「なるほど。それ、僕以外でやってくれないかな」

 なんとなく、自分の記憶は大切にしたい。

 アカリは言った。

「それじゃ駄目だよ。あの人が怪獣だって知ってるのは、きっと悠馬だけだから。より濃い記憶の弾を作ろうと思ったら、悠馬を利用するしかない」

「なるほどね。よく分からないけど、これからは、あんまりあの人に会わない方が良いのかな? 君のためには」

「うん。でも、もう手遅れだと思う。どっちにしろ、もう私はあの人には勝てないよ」

 僕はまた生意気な事を言った。

「じゃあ、やっぱり話し合うべきだよ。あの人、アカリの事を大切に思ってるみたいだった。君もそうでしょ? だったら、喧嘩する必要はないよ」

「そう、だよね」

 返事にキレが無い。単純な問題ではないだろうし、二人のすれ違いを解くことは難しい。関係修復が正しい事なのかも分からない。

「まあ、ゆっくり考えようよ」

「うん」

 しばらく沈黙が続いた。電車は海沿いを走っている。次の駅では潮の匂いを感じることが出来る。夕日と潮の匂いの取り合わせは、結構好きだ。

 僕はさっきの話について、ある考えに思い当った。

 アカリは、どんな記憶を食べているのだろう。

 きっと、彼女にとって最も濃い記憶の弾を作れるのは僕の記憶だ。でも、多分アカリは僕の記憶を食べるような事はしていない。それに、彼女は、誰にも何も忘れて欲しくないらしい。それなら、一体どんな記憶を食べて戦っているのだろう。

 そんな風に考えると、隣に座るアカリが、急に愛おしく感じた。なんとなく、抱きしめたくなった。

 でも、流石に自制した。

 アカリは、何か考えているようだった。落ち着きが無い。ひっきりなしに姿勢を変えたり表情を変えたりしている。コミカルな動きで可愛らしい。

 なんだか笑いそうになって、僕は聞いてみた。

「アカリ、何を考えてるの?」

「君の事だよ」

 彼女は真顔で答えた。コミカルなのは動きだけで、真面目な事を考えていたらしい。

「僕の事なら、僕に聞いてくれればいい」

「悠馬、個人的な事は答えようとしないでしょ。秘密主義だから」

「そうかな」

「そうだよ」

 ちょっと反省した方が良いかもしれない。

 アカリは少し怒ったように言った。

「私の言いたい事、分かる?」

「分かります。はい」

「それならいいけど」

 僕もなんとなく思い当たっていた事だった。つまりは、秘密主義をやめろ、という事だと思う。僕が今日言った事の裏返しだ。

 僕は「君の傷が知りたい」と言った。アカリも僕に対して、同じ事を言っているのだと思う。

 思えば、彼女は僕の家庭環境について聞いてくることがやけに多い。正直めんどくさくて、僕はいつもそれをはぐらかしている。弱みを見せるのは恥ずかしい気がするから。

 でも、いつだったか僕は「君に吐き出したい事が沢山ある」みたいな事を言った気がする。そろそろ、素直になった方がいいかもしれない。実際あの時は、彼女に思いをぶつけて心が楽になった。

 それに、僕は彼女に「好きだ」とまで言ってしまった。あれは勿論本心だ。それなら、もう何を隠しても無駄な気がする。

 あ。でも。

 僕は気づいた。僕がアカリを知りたいと思うのは、彼女が好きだからだ。好きだから、もっと知りたい。

 でも、アカリは?

 あれ。別に、彼女は僕に好きだとは言っていない。ただ、友達として、僕の隣に居てくれているだけかもしれない。

 あれ。どうなんだ? これって、一体、どうなってるんだ?

 そんな事を考えていると、いつのまにか海は見えなくなっていた。


 駅からの帰り道も、僕は同じ事を考えていた。つまりは、アカリが僕をどう思っているのかについて。

 彼女は僕の前を歩いている。空はオレンジ色に染まり、僕らの影は長くなっていた。夕日は正面から照り付けており、とても眩しい。

 だから、僕は聞かなければよかった。アカリが振り返ったとき、彼女の顔が逆光でよく見えない。反対に僕の顔は彼女からよく見えているはずだ。だから、こんな、自分の全てをさらけ出すような言葉、言わなければよかった。

 でも、今日を逃すともうタイミングが無い気がして、僕は言った。アカリは振り返った。

「ねえ、アカリ。あれは、嘘じゃないよ」

 彼女は何も言わない。はっきり言わないと認めないつもりだろうか。

 やっぱり彼女の表情は分からなくて、どんな嘘をついても見透かされるような気がして、だから一番素直な言葉を、もう一度選んだ。

「僕は君が好きだ」

 その先は、考えていなかった。えーっと。だから、その。なんていうか。

 やっぱり言わなければ良かった。気まずい。ていうか、そっちも何か言って欲しい。いや、それは酷か。こちらがなんとか話をまとめなければならない。付き合ってください、とか言えばいいのか?

 でも、その必要は無かった。アカリは一言だけ言った。

「私も」

 相変わらず彼女の表情は見えないけど、微かな笑い声が聞こえた。

 それで、僕も笑った。顔が熱くなるのを感じる。それが、アカリにはよく見えているはずだ。それでより一層顔から火が出る。

 僕らは笑い合って、そしてまた歩き始めた。今度は僕はアカリの隣を歩いた。彼女の顔をよく見たいと思った。

 天に上るような感じだった。浮かれている。物理的にも自分がフワフワしている気がした。

 そうならないように、アカリが手を繋いでくれた。でも、逆効果だったかもしれない。


  *


 正直言ってやる事が無い。本当に、エネルギーを使い果たしてしまった。放っておいても人は勝手に何かを忘れるから、エネルギーが完全に枯渇してしまう事は無い。でも、一般的な物忘れによるエネルギーは、雑魚怪獣にほとんど吸い取られる。その割合は、雑魚怪獣八割、私一割、アカリちゃん一割、といった所だ。正直、私には全く足りない。だから、歩いて稼がなければならない。

 でも、おそらく、アカリちゃんはそれを全くしていない。

 あの子、変な拘りあるからなー。だから時間なくなっちゃうんだよ。

 悠馬くんから記憶を奪えば、一瞬で前回の怪獣も私も倒せるのに、彼女は絶対にそれをしない。恋は盲目とはよく言ったものだ。

 私も、暇だし悠馬くんに会っとこうかな。貯金はいくらあってもいい。それに、話題には事欠かない。彼は全て忘れているから、とびきりのジョークを何度も食らわせる事が出来る。まあ、基本的には退屈だけど。

 よし。動こう。なんでも、まずは行動してみるのが大事だ。先生もそう言っていた気がする。


 しかし、悠馬くんに会うために夏の道を歩いていると、小さな女の子に声を掛けられた。

「お姉ちゃんがいなくなったの」

「え?」

 小学校低学年くらいだろうか。肩に下げたピンクの水筒がいい味を出している。

 女の子は、私に声を掛けた訳では無かったのかもしれない。私に見られた彼女は、小さく顔をひきつらせた。そんなに怖い顔をしていただろうか。

 怯えた声で女の子は言った。

「おばさん、誰?」

 おばさんはないだろう。実年齢は露知らず、見た目はまだ二十五とかその辺りだ。それに、昔から私はべっぴんさんで有名だった。その私をおばさんだなんて。

「お姉さん、ね。おばさんじゃなくて」

「ごめんなさい」

「いや、別にいいんだけどね。それで、どうしたの? 何か困った事でもあった?」

「お姉ちゃんがいなくなったんです」

「迷子ってこと?」

「ううん。本当にいなくなっちゃったの」

 私は頭を掻いた。夏は暑い。この話は長くなりそうだから、木陰にでも入りたい気分だ。

 それに、これは多分、申し訳ない事をしたパターンだ。運命というやつか、これが。

 念のため、もう少しだけ話を聞いてみることにした。

「本当にいなくなったって、どういう事? いつからいないの?」

「一週間くらい前」

 やっぱりそうだ。一週間前というと、劇場に怪獣が出た日だ。私が失敗して強すぎる怪獣が出た日。

「あー。ご両親はなんて言ってるの?」

「いじわるする」

「意地悪?」

「うん。あおいは元々一人っ子でしょって言う」

 あおい、というのはこの子の名前だろう。

「なるほど。あおいちゃんはいくつ?」

「七さい。二年生です」

 じゃあ、なんとかなるか。別に何歳でもなんとかなるけど。

「そっか。お姉ちゃんは、何歳?」

「多分、十一さい。五年生だと思う」

「お姉ちゃんの名前は?」

「分からない。思い出せないの」

 だよね。予想通りだ。

 これは、どうしたものか。実験失敗の影響がこんなところに来ているとは。

 これ、この子以外のところでも起きてたら、大変だな。この暑さだというのに私は身震いした。

「一週間前は覚えてた?」

「多分。最近まで覚えてたと思います」

 なるほど。じゃあ、放っておけばその姉の事は完全に忘れるだろう。私が医者なら「軽い夏風邪ですねー」って言って栄養剤だけ処方するところだ。

 でも、見るとあおいちゃんはほとんど泣きそうな顔を浮かべていた。口がへの字になり、眉もへの字になっている。

 なら、放っておくわけにはいかない。私はいつだって人類の幸福の為に働いているのだ。

「よし。とりあえず、ここは暑いから、どっか涼しいところ行こう」

「だめです」

「え?」

「知らない人について行っちゃ、だめ」

 しっかりした子だ。

 こちらは名前さえ持ち合わせていない。仕事だってしていない。無銭飲食のエキスパートだから、ほとんど犯罪者でもある。小学生を助ける権利なんてなさそうだ。

 でも、そういう事じゃないから。目の前に泣きそうな子がいたら、それを助けてあげたくなるのが人間の性だ。

 ん? 人間の性? 人間? 私は怪獣だ。人間ではない。まあ、いいか。

「じゃあ、ここで待っててよ。ジュースでも買ってくるからさ」

「いりません。お茶持ってるから」

 そういうのは貰っておくものだよ、とは流石に言わなかった。


 自販機でコーラを二本買って戻ってくると、あおいちゃんは律儀にそこで待っていた。正直、いなくなっていても不思議ではなかった。

「どうぞ」

「……ありがとうございます」

 この子、私が思ってるよりも大人だな。私たちは蓋を開けてコーラを飲んだ。あおいちゃんはペットボトルの蓋を開けるのに少し苦労していた。でも、私の手を借りず、左手を逆さにして、雑巾を絞るようにして蓋を開けた。それで私はこの子が左利きだと知った。

「やっぱり、ここ暑くない?」

「……暑いです」

「どっか涼しいとこ行こうよ。公園とかでもいいけど」

 正直、お金のかかる所は困る。コーラ二本の三百二十円さえ、私にとっては手痛い出費だ。

「……水切り、したいです」

 あおいちゃんはそう言った。

「水切り? 石投げてバウンドさせるやつ?」

 あおいちゃんはコクンと頷いた。可愛らしい動きだった。そして言った。

「お姉ちゃんが好きだった、気がするから」

 なるほど。水辺は涼しいものだし、大賛成だ。

「いいね。お姉さん、上手いんだよ」

 あおいちゃんはこちらを見て首を傾げた。お姉さん、が不思議だったのかもしれない。生意気な子だ。でも、けっこう好きかもしれない。


 手ごろな小石を探しながら、あおいちゃんは私に聞いた。もう敬語は使わなかった。

「お姉さん、名前はなんていうの?」

「ないよ。私、名前って無いの」

 出来るだけ明るくそう言った。

「どうして?」

「んー。どうしてだろう」

「じゃあ、あおいがつけてあげるよ」

「え?」

「いらない?」

「……いる」

 嘘だ。怪獣に、名前なんて要らない。むしろ邪魔なだけだ。

 でも、あおいちゃんを喜ばすために私は嘘を吐いた。

「じゃあ、考えておくね。あおい、名付け親って夢だったんだ」

 特殊な夢だ。お母さんになりたい、とかじゃないのか。

 あおいちゃんは他にも色々聞いてきた。

「好きな食べ物は?」

「好きな色は?」

「将来の夢は?」

「運命の人っていると思う?」

 好奇心旺盛な子供だった。

 もしくは、私の事を知ろうとしているのかもしれない。知らない人についていっちゃ駄目だけど、私の事を知れば、ついていっても大丈夫。

 だから私もそこそこ真面目に考えてから答えた。秋刀魚、赤、忘れた、いない。後半の二つは、真面目に考えた上での回答としては少々品が無いかもしれない。少なくとも小学生に言う答えではない気がする。それに、嘘が一つ混ざっている。

 あおいちゃんは、私が答えた後に必ず自分の答えも話した。オムライス、緑、幼稚園の先生、いない。最後の一つが引っ掛かった。でも、私たちの唯一の共通点だから笑える。

 私の小石はよく跳ねた。あおいちゃんは、上手くできず途中で飽きてしまったようだ。座り込んでちびちびとコーラを飲んでいる。なんとなく、炭酸に失礼な飲み方だと思う。

 あおいちゃんは私の背中に言った。

「お姉ちゃん、見つかるかなあ」

 私は石を投げるのをやめ彼女の隣に座り、嘘をついた。

「きっと見つかるよ」

「どうして分かるの?」

 正直、見つかる訳がない。あおいちゃんのお姉さんは、怪獣に殺されたのだ。本来は姉の痕跡が全て修正されるはずなのに、どういう訳かそうなっていない。多分私のせいだけど、中途半端に記憶が残ってしまっている。

 だから、私はあおいちゃんから記憶を完全に奪い取らなければならない。この女の子がもう悲しまないように、全て無かったことにする。

 私は、この子に真実を伝えるべきだろうか。頭では、その必要は無いと分かっていた。今すぐにでもあおいちゃんの記憶をいじれば、全て終わる。

 でも、私の胸の中の誰かが、それを強烈に否定していた。何故だか分からないが、この子に誠実に真実を伝えるべきだと、私の中の誰かが主張している。

 とてもうるさい主張だが、それにしては甘い考えだ。現実が見えていないし、そういうのは私の役目では無い。そうやって自分のエゴでこの子を泣かせるのは、大人のやる事では無い。

 大人は汚いの。目先の利益を追求して、真実から目を逸らす。でも、それを必死に正当化するんだよ。そうすれば、真実なんてこの世からなくなる。

 あおいちゃんは、運命の人なんていないと言った。私と同じだ。だから、私はとても大切に嘘をついた。

「大切なのは、現実なの」

「え?」

「楽しい事ばかり、考えていたいの」

「でも、お姉ちゃんは見つかるか分かんないよ」

「見つかるよ」

「どうして?」

「現実に楽しい事しか起こらなければ、とても素敵だと思わない? だからだよ」

「よく分かんない」

「私は、そういう力を持ってるの」

「お姉ちゃんが絶対に見つかる力?」

 ああ。それは盲点だった。

 確かに、あおいちゃんの視点ではそう思っても仕方がない。それに、出来る事なら私もそういう力が欲しかった。

 でも、私は怪獣だ。奪うしか能が無い。悲しみを奪うだけだ。マイナスをゼロにするだけの力だ。プラスを与える事は出来ない。怪獣が与えるのは悲しみの代替品だけだ。

 この葛藤も、もう疲れた。これまでに何度自分の力を呪ったことか。なんで怪獣なんだ。私はヒーローになりたかった。皆に、正真正銘の幸せを届けたかった。

 だから、私はまた嘘をついた。

「そうだよ」

 私はその嘘を正当化する。本当に姉が見つかったあおいちゃんと、姉なんて最初からいなかったあおいちゃん。そのどちらが幸福かなんて、誰にも答えが出せない。前者の方が幸福だとするなら、世界の一人っ子全てが不幸になる。そんな訳はない。一人っ子には一人っ子の幸せがあるものだ。

「よし。そろそろ帰ろうか。お姉ちゃんの事は、心配しなくていいよ。なんとかしとくから」

「本当?」

「うん。私に任せといて」

「分かった」

「じゃあ、またね。あおいちゃん」

 もう二度と会う気はないのに、私はそう言った。嘘は最後までつき続けるのが美しいと思う。偽物の宝石だって、誰も偽物だと気づかなければ本物なのだ。それは、偽物の在り方として、とても美しい。

 私は指を鳴らして、あおいちゃんの記憶を消した。私の事と、この子の姉の事。

 そういえば、名前を貰うのを忘れていた。まあ、いいか。そのやり取りも、私が覚えているだけだ。もう本当にあったのかどうかも怪しい。

 私はあおいちゃんの幸せだけを、切に願い、その場を立ち去った。

 ヒーローになれなかった私は、とても大切に嘘をつき、皆の幸せを守る。

 私は振り返って、河原で不思議そうに立つあおいちゃんを見た。家に送り届けるくらいはしてもよかったかもしれない。

 そう思ったとき、胸の中の違和感が膨らんでいるのに気づいた。

 なんだか、あおいちゃんから目を離せない。

 ああ、つまり、そうか。私は、今でも自分の道に迷っているらしい。


  *


 それから、二か月ほどが経った。夏が過ぎ秋になった。なんとなく、物寂しい季節だ。この二か月間、怪獣は出なかった。

 その夜、僕は、いつものように、怪獣によって壊された中学校に居た。月光が、崩れた建物を照らしている。

 正門には『この学校は廃校になりました』と書かれた看板が立っているが、高校生の僕は簡単に門を乗り越えられる。この時間に、それを咎める者は居ない。

 グラウンドの真ん中まで歩き、空を見上げた。星は無く、代わりに月が大きく出ている。あれは、おそらく満月ではない。

 明日か明後日には満月になるだろうな、と考えていた時、女性の声がした。

「君は、今、幸せな世界に生きているの?」

 驚いて隣を見ると、そこには老婆がいた。上品な雰囲気を身に纏った、月夜がよく似合う白髪の女性だった。黒いスーツがよく似合っていた。

 僕は落ち着くために深呼吸を一つしてから答えた。

「世界、というのは、面白い言葉ですよね」

「そうね」

「僕は、きっと幸せな世界に生きていますよ」

 老婆は空を見上げた。月夜の中で、おそらくは星を探していた。

「どうして?」

「そう信じないと、やってられないですから」

「似ているわね、あの子と」

 僕は尋ねた。尋ねなくても分かる事だったが、それが礼儀だと思った。

「どの子ですか?」

「貴方が愛するあの子よ」

 僕は気になって、名前の無い彼女の事を尋ねた。

「あの人と僕は、似ていないのですか?」

「そうね。あの子は、自分が幸せな世界に生きているかどうか、なんて興味がない。自分が生きている世界を、より幸せに作り変える事に、固執しているから」

 僕は、次の言葉に迷った。でも、一つ確信が欲しかったから、この言葉を選んだ。

「……先生は、どうして、僕の前に現れたのですか?」

「貴方に、私の代わりをしてほしいのよ」

 そう言うと彼女は、壊れた校舎に向かって歩き出した。そして言った。

「長い話になるわ。中に入りましょう」


 壊れた学校の中で、それほど崩れていない教室を、彼女は選んだ。先生は教卓に立ち、僕は生徒として椅子に座った。教室の中央の席を選んだ。そこが、一番月明かりに照らされていたから。

 先生は言った。

「悪いけど、私は貴方の先生ではないわ」

「それは、少し残念です」

「私は、それほどまでに、あの二人を愛しているのよ」

 なるほど。中々、頑固な性格のようだ。

 先生は言った。

「これから、長い話をします。怪獣についてです」

「はい」

「なので、お手洗いは今のうちに済ませておいてください」

 冗談みたいな事を言う人だ。本気なのかどうなのか、判断がつかない。

 僕は言った。

「分かりました。大丈夫です」

 老婆は息を吸って話し始めた。

「怪獣の基本原理は『悲しい事を出来るだけ忘れたい』『良い事だけを覚えていたい』というものです」

「はい」

「貴方は、それを、どう思いますか?」

 どう、と言われても困る。僕が答えに迷っていると、彼女は言った。

「あの子――姉の方は、それに心酔しています。妹の方は、それを嫌っています」

「なるほど」

「貴方は、どう思いますか?」

「……多くの出来事は、悲しいだけでも、嬉しいだけでもない、と思います。悲しくて、でも嬉しい。みたいな、複雑なイベントが、世の中にはたくさんあるんじゃないでしょうか」

「とても、人間らしい回答ですね。怪獣としては、不十分です」

「僕は人間です」

「もちろん知っています。話を続けます」

 なんだか、煙に巻かれているような感覚だ。

 彼女は続けた。

「怪獣に殺された人間についての記憶は、この世から消されます」

「知っています。僕の父親や友人も、そうなりました」

「しかし、大昔は、それが修正される事はありませんでした」

 修正。名前の無いあの人も、同じ言葉を使っていた気がする。

「殺された人たちは、単にいなくなり、その代わりの人間関係が構築される事はなかった、という事です」

「なるほど。その時代なら、僕は片親になっていた、という事ですね」

「そうです。そして、その分のエネルギーが、新たな怪獣の材料となっていました」

 先生はそこで息を一つ吸って言った。

「しかし、その連鎖を止めたのが、私です。私、意外と凄い怪獣なのです」

 僕は呆気に取られた。

「はあ。なるほど」

「記憶には、エネルギーがあります。そのエネルギーが、新たな怪獣ではなく、人間関係やその他色々な物の修正に使われるようになった。これが、私の功績です」

 自慢話、なのか?

 僕が反応に迷っていると、先生が言った。

「ほら、悠馬さん。もっと褒めたり驚いたりする所ですよ」

「と、言われましても、凄さがよく分かんないんですよね」

「そうですか。それなら、話を戻します」

「よろしくお願いします」

「あの子――姉の方が、このシステムを、成長させようとしています。もう、ほとんど最終段階です」

「良い事じゃないですか」

「貴方がそう思うなら、それでいい。でも、妹の方は、それを嫌がります」

「お姉さんがやってる、システムの成長っていうのは、どういうものなんですか?」

「怪獣が生まれる前から修正を行う、というものです」

「なるほど。世界から悲しみを消す、と聞いたことがあります」

「そうです。記憶エネルギーが怪獣を作ってしまう前に、そのエネルギーを悲しい現実への修正に使う。悲しい出来事や思い出を、全て無くしてしまう。それが、彼女の計画です」

「聞くだけなら、良い感じですね。怪獣も出なくなるみたいですし。別に止めなくて良いんじゃないですか?」

「悠馬さんがそう考えるなら、それでいい」

 じゃあ、別にそれでいい気がするんだけどな。

 先生は言った。

「でも、妹の方は、それにとても反発しています」

 僕は尋ねた。

「貴女は? 先生は、どっちにつくんですか?」

 この言葉は、先生の何かに触れたようだった。彼女はこちらに背を向け、黒板の方を向いた。

「私は、とてもずるい。中立ですよ」

 それなら、わざわざ僕に声を掛けなくてもいいのではないか。

 先生はこちらに向き直って言った。

「悠馬さん、ここからが本題です。貴方に、私の代わりをやって欲しいのです」

 よく分からない。先生は続ける。

「姉妹喧嘩というのは、いつも大体姉が勝つものです。でも、それじゃ面白くない。私はいつも、妹の方に少しだけ肩入れしていました。勝負がフェアになるように」

「それを、僕にやれ、と?」

「そうです。妹の方に、力を貸してあげて欲しい。何分、話が壮大ですので。世界の在り方、世界の幸福を決めるような話なので、一方的に姉に勝たせるわけにはいかない」

 分かったような、分からないような話だ。僕は尋ねた。

「それで、僕は具体的に何をすればいいんですか? 僕、人間ですよ。怪獣じゃないです」

「あの子のそばにいてあげて。それだけで十分よ」

 その言葉は何故か説得力を持っていて、僕の耳に強く残った。

「分かりました」

「それと、少しばかり貴方に情報をあげます。姉妹喧嘩が五分になるくらいの情報を」

「ありがとうございます」

「怪獣は、次が最後。最強の怪獣が、次は出る。妹の方は、絶対に勝てない。でも、負けない限りは、姉の計画が完了することもない」

「分かりました。アカリに伝えておきます」

「ありがとう」

 それから、彼女は思い出したように言った。

「ああ、それと、もう一つ。貴方は、怪獣をなめている」

「どういう事ですか? 別にそんなつもりは無いですけど」

「怪獣というのは、人間ではない。世界を幸せにするためだけの存在。自分の正義を証明するためだけに生まれた存在。自分を正当化し、全てを奪い、全てを与える存在。それこそが、怪獣です。人間とは、違います」

「……そうなんですか? アカリや名前の無い彼女は、人間となんら変わりないように思えます」

 先生は、一瞬驚いたようだったが、すぐにニッコリ笑った。

「いいですね。その考えは、あの子を救ってくれるかもしれません」

 先生はそれ以上、話す事が無いみたいだった。

 僕は、何かこの人に聞いてみたかった。でも、何を聞けば良いのか分からなくて、一つだけ、どうでもいいような質問をした。

「貴女の人生は、幸福でしたか?」

 先生は、迷わず答えた。

「それは、まだ分からないわ」

 意外と、良い質問だったのかもしれない。



 それから何日か経った日。アカリと僕は、僕の部屋でゲームをしていた。コントローラーを傾けながら、僕は言った。

「次の怪獣が最後らしいよ」

「え?」

「風の噂でそう聞いた」

「どういう事?」

「お姉さんの計画はほとんど最終段階。次の怪獣が最後になるけど、その怪獣は最強で、君は絶対に勝てない。でも、負けない限りは、お姉さんの計画が完了することもない」

 アカリは体ごとコントローラーを右に倒しながら言った。

「随分、色んな事を知ってるんだね」

 先生に会った、というのは伝えてもいいのだろうか? それくらい、聞いておけばよかった。でも、特に隠す理由も無い気がして、僕は言った。

「先生に、会ったんだよ」

 アカリはそのまま右に倒れた。

「……え? 先生って、あの先生?」

「多分。君たち二人の事を、よく知ってるみたいだったよ」

「ど、どこで? いつ会ったの?」

「廃校で。こないだの深夜」

 アカリは何かに気づいて姿勢を直し、心配そうに言った。

「悠馬、深夜徘徊は怖いからやめてって言ってるでしょ」

「ごめん。でも、そんな事はどうでもよくて。お姉さんの計画が、もうすぐ完了してしまうらしいよ。そうすると、本当に、世界から悲しみが無くなる」

 アカリなら、それをすぐさま止めるだろうと思っていた。でも、彼女の反応は違った。

 アカリは小さな声で言った。

「止めるべきだと、思う?」

「僕は、正直まだ分からない。でも、君はそれを止めたいんでしょう?」

「……多分」

「じゃあ、一緒に考えようよ」

 僕は、一つずつ確認するように尋ねた。

「怪獣は、記憶を奪う力に特化してるんだよね?」

「うん」

「あの人は、それを使って具体的に何をするつもりなんだろう」

「世界から悲しい記憶を全て奪うんだと思う」

「なるほど。それって、良い事だと思う?」

「思わない」

 先ほどとは違い、アカリは即答した。

「どうして?」

「分からない。理由は分からないけど、なんだか気持ち悪い」

「僕も実はそうなんだ。例えば、僕は本当のお父さんの死を忘れたいとは思わない。あれは本当に辛い記憶だけど、忘れるわけにはいかない」

「だよね。それは、どうしてなのかな」

「例えば、もっと嫌な思い出だったらどうだろう」

「どういうこと?」

「例えば、酷いいじめに合ったとか、トラウマになるような事故に巻き込まれたとか」

「そうだとしても、その記憶を消してしまうのは、なんだか違う気がする」

「なるほど。忘れる事が出来れば楽になるかもしれないけど、やっぱり別のアプローチを取るべき、ってこと?」

「うん。それに、何が辛いかを、比べたくはないよ」

「どういうことだろう」

「他人からみれば小さな悩みでも、その人にとっては大きなものかもしれない。客観的な大きさで、人の心を測りたくはないよ」

「そうだね」

「それに、やっぱり、人は傷を抱えて生きていかないといけないんだよ。それを奪う権利は、誰にもない」

 まるで暴力みたいな少女だと思った。傷を奪う権利は誰にもない、というのは初めて聞く言葉だ。それは、他人を傷つける権利を持つ事と、何が違うのだろう。

 僕は尋ねた。

「傷を奪うんじゃなくて、傷つかないように守るなら?」

「どういう事?」

「他人を傷つける権利と、他人を守る権利。他人に守られる権利と、他人に傷つけられる権利。どれが一番大切だと思う?」

「時と場合による、と思う」

「それはそう」

 少し考えてから僕は言った。

「例えば、目の前にいじめられている子供がいたら、助けるよね? でも、僕が本当の父親の死を忘れる事を君は拒んだ。この二つは、何が違うんだろう?」

「……その前後に、楽しい記憶があるかどうか?」

「詳しく聞かせて」

「いじめは、独立した悲しい出来事だよ。詳しくはその人自身によって変わるだろうけど、なんていうか、ただ悲しい出来事として、浮いている。悠馬のお父さんの事は、浮いてない。きっと、お父さんは悠馬にとって大切な人だったから、記憶として独立してない。怪獣は、それを考慮せずに全てを奪い去るから、気持ちが悪いんだと思う」

 僕は正直、アカリの意見に自分が反対しかかっている事に気が付いていた。

「なるほど。じゃあ、それは誰が区別するんだろう。世界の出来事は、複雑に絡み合っている。悲しいだけの出来事が、やっぱり後からみれば良い思い出だったパターンもあるだろう。逆に、悲劇は悲劇だと言い張ることも出来る。ラストシーンが悲しければ、途中が明るくたってそれは悲劇なんだよ」

 アカリは迷わず言った。その言葉は、僕には呪いのように聞こえた。

「世界が全て絡み合っているなら、全ての出来事は良い思い出になり得る」

 本当に、恐ろしい少女だ。いったい、世界の何を信じているんだ。

 僕は少し話を変えた。

「僕はアカリが好きだよ」

「知ってる」

「それを理由にしてもいいんだ。好きな女の子が無茶な事を言ってるなら、喜んでそれについていってもいい。だって好きだから」

「うん」

 僕はそこで言いよどんだ。何を言っていいのか分からなかった。

 彼女が、僕の目を見てハッキリ言った。

「私も、悠馬が好きだよ」

「……うん」

「私は、君がいるから信じられるんだよ。何のために生きてるのか分からなかった私は、君がいるから生きてられるの。一人ぼっちだった私で何にも楽しくなかった私は、それでも、生きてきてよかった。何度も何度も、繰り返してきてよかった。だって、今、君に会えたから。それで、今までの私の全部が肯定されたんだよ。だから、私は信じてる。世界の善性みたいなものを、私は信じてる。きっと、私たちは何も忘れないまま、最後に笑う事ができる」

 身体が震えるのを感じる。これだ。だから、僕はアカリが好きなんだ。本当に、まともな人間ではない。傷つくことを一切恐れていない。全ての悲劇を良い思い出に変えるなんて、そんな事、まともな人間に言えるはずがない。

 彼女は真っ直ぐ続ける。

「人生に一つも楽しい事が無かったなんて人は、きっといないと思う。誰だって、一瞬だったとしても、生きてきて良かったと思う瞬間があるはずなんだよ。悲劇が起こっても、そこで終わりじゃない。永遠の別れが起こったとしても、そこで終わりじゃない。生きてる限りは、なんだって起こる。そうすればそのとき、これまでの人生を肯定できるでしょう? 一瞬の喜びのために、永遠に生きたって良いんだよ」

 彼女は僕の手を取った。そして続ける。一切の迷いなく、叫ぶ。

「私にとっては、君なんだよ。君に会えたから、なんだって良いんだよ。私が怪獣じゃなかったら、君に会えなかった。あの時君の記憶を消していたら、こんなに好きになれなかった。だから、色々後悔したりしたけど、これで良かったんだよ」

 僕は深く息を吸ってから言う。もう、迷いは無かった。

「分かった。じゃあ、あの人を止めよう。世界を傷つけ続ける事を、選びに行こう」

 愛を理由に、僕らは悲しみを肯定する。

 その先の喜びの為に、悲しみを世界に残す。


  *


「アカリちゃん、何か悩み事?」

 田中さんが言った。

「え? まあ、はい。ぼーっとしてました?」

「してたよー。心ここにあらずって感じ。何、恋愛系?」

「じゃないんですよ、それが」

「あ、そう。じゃあ興味ないわ」

「冷たいですね。大人の意見を聞かせてくださいよ」

「えー。嫌だよー。なんかアカリちゃん私より達観してる感じするし」

「いやいや。私なんかつい最近カフェオレ飲めるようになったぐらいですよ」

「よく分かんない基準だね。それに、恋愛相談ならこんなおばさん頼りにしても駄目よ」

「だから恋愛相談じゃないですって」

 それに、年上の経験豊富な女性に相談するというのは効果的に感じる。年上じゃないけど。田中さんは「誰がおばさんよ」と一人でつっこんでいる。

 私は聞いてみた。

「田中さん、兄弟とかっています?」

「いないよ。妹が欲しい時期はあったけどね」

「なんで妹が欲しかったんですか?」

「なんでだろ。寂しかったからかな。アカリちゃんって兄弟いたっけ?」

「あー。まあ、半分?」

 田中さんは笑った。

「半分ってどういう事よ。いるかいないかのどっちかじゃないの?」

「色々複雑なんですよ。大好きだった人がいて、多分今も好きで、でも、向こうはどう思ってるか分かんないっていうか」

「仲直りしたいんだ」

「多分そうなのかもしれません。でも、なんで好きかも分からないんです」

「ふーん。大好きだったのに、なんで仲違いしちゃったの? あ、言いたくなかったら別に良いけど」

 言われて気が付いた。そういえば、どうしてだろう。先生がいなくなった日、私たちは袂を分かった。それは分かる。でも、そこまでしか思い出せない。おかしい。そういえば、先生はなんでいなくなったんだ? というか、先生の記憶があること自体が、なんか、おかしい。どこかの、記憶が無い。絶対に何も忘れないはずの怪獣である私の、記憶が欠けている。血の気が引く。何かがそこに隠されている。

 田中さんが遠くで喋っている。あれ? アカリちゃん? ごめんって。別に答えなくてもいいよ。

 独り言のように、私は答えた。

「忘れちゃいました」

「ごめんね、踏み入った事聞いちゃって」

「いえ。おかげで、一つ気づけました」

「あ、そうなの? それならいいけど」

「お姉ちゃんが、私の記憶を消したんです、多分」

 田中さんが「スピリチュアル系?」と呟くのが聞こえた。


  *


 それから何日か経った朝、学校に行こうと玄関を開けると、彼女がいた。

 名前の無い彼女は明るい声で言った。元気そうで何よりだ。

「久しぶりだね、悠馬くん」

「朝っぱらから玄関で待ち伏せするの、いい加減やめてくれません?」

「えー。別に何か困るって訳でも無いでしょ?」

「まあ、そうですけど」

「ちょっと、話が合ってさ」

「歩きながらでしか聞けませんよ」

「うん。本当は会議室でするような話なんだけどね」

 僕は歩き出した。彼女は僕の隣を歩く。

「それで、話ってなんですか?」

「んー。色々あるんだけど、まず一つ。怪獣は次が最後。今まで迷惑かけて悪かったけど、次で最後だから許して」

 それは知ってる。でも、知らないふりをした。

「次の二百年まで持ち越しって事ですか?」

「ううん。もう、二度と現れないよ。それに、最後の怪獣は、私」

「なるほど。僕、未だに嘘なんじゃないかと思ってますからね。貴女が怪獣である事」

「はは。それはなめられたもんだな。私が誰より怪獣として正しいのに」

「そうですか。どうでもいいです」

「あ、そう。じゃあ、次の話ね。最後の怪獣を出す前に、三人で話がしたい」

 それは、不思議な事だった。先生の話だと、最後の怪獣がアカリを倒した瞬間に、この人の計画は完了する。それなのに、話す必要なんてあるのか?

「どうしてですか?」

「私がやっぱり正しかったって事を、証明するため。あの子の幸せが、嘘だって教えてあげるため」

「よく分かりませんけど、アカリの幸せは嘘じゃないでしょ」

「どうだろうね。それを、確かめるための話だよ」

「……分かりました」

「日時はいつでもいいんだけど、平日は悠馬くん、学校あるから、土曜日にしよう。次の土曜日だから、明後日だ。明後日、三人で話をして、私があの子を殺して、ゲームセット」

 後半の言葉が、ものすごく気持ち悪かった。

「……殺すんですか? アカリを?」

「うん。システムに例外が発生してると、上手くいかないんだよ。あ、こっちの話ね。それに、私は、誰を殺すのにも躊躇しないよ。今まで、いくつもの死を見逃してきたし、それを無かった事にする術を持ってるから」

 彼女の言葉に、軽く眩暈がした。この人、本当に、何を言っているんだ。

 彼女はこちらを気にせず言った。

「じゃあ、そう言う事でよろしくね。時間と場所は悠馬くん決めて良いよ」

「午前十時で。場所は、あの中学校にしましょう。綺麗に残ってる教室が一つだけあるんです。そこにしましょう」

「分かった。じゃあ、楽しみにしてるね」

 ――プツン。

 気が付くと、彼女の姿は消えていた。

 殺すって、なんだよ。家族だったんじゃないのかよ。

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