一一章 あとにつづくを信ず

 マークスは旅立った。

 ゼッヴォーカーの導師どうしの導きによって。

 かのは人類という種のなかではじめて、亡道もうどう世界せかいへと足を踏み入れたんだ。

 僕は意外だった。

 僕がその旅立ちに際して感じていたのは不安と恐怖。マークス自身が感じている不安と恐怖だった。

 もちろん、普通に考えれば当たり前のことだ。

 まるっきりの未知の世界。

 人類の天敵のやってくる場所。

 そんなところにたったひとりで、それも、なんの準備も、情報もないままにたったひとりで乗り込む。不安や恐怖を感じない方がどうかしている。

 それでも、僕が意外に感じたのは、それがマークスだったからだ。

 亡道もうどうつかさと戦い抜き、ついには倒した勇者。

 並ぶもののない英雄。

 騎士マークス。

 そんなマークスであればどんなときも怖れたりしない。堂々と勇気をもって進んでいく。そう思っていた。でも、ちがった。マークスだって不安もあれば恐怖も感じる。その意味ではごく普通の人間だったんだ。

 考えてみれば最初からそうだった。マークスは兵士たちを死なせることに恐れを抱き、何百万という犠牲の上に生き残ったことに、ずっと罪の意識を感じていた。

 マークスはなにも特別な人間なんかじゃない。怖れ、おののき、不安を感じ、罪の意識に苦しむ当たり前の人間だった。ただ、僕はずっとマークスを『勇者』として見ていたから、そのことに気がつかなかったんだ。

 そんな普通の人間がいま、自分のなかの不安と恐怖と戦い、打ち勝ち、未知の世界に向かう。人類と世界を滅ぼす『敵』たる世界へ。

 マークスにそうさせたのは未来への思い。人類と世界の未来を守る。その使命感であり、責任感だった。

 ――すごい。

 僕はそう思っていた。

 マークスの不安。

 マークスの恐怖。

 マークスの記憶と共鳴しているからこそ、はっきりと感じ取れるその大きさ。それほどの不安と恐怖を感じながらなお、未来のために、自分とは直接の関係のない未来の人間――つまり、僕たち――のために敵地へと向かう。

 その覚悟と勇気。

 僕はずっと『勇者』って言う人間は生まれつき恐れを知らない特別な人間で、だから、すごいんだと思っていた。

 でも、ちがった。

 マークスの不安と恐怖を感じることでそれがわかった。

 不安も、恐怖も感じる、ごく普通の人間。そんな普通の人間でも『未来を守る』という思いのために不安と恐怖に打ち勝ち、行動できる。

 ――だから、人間っていうのはすごいんだ。

 僕はそう悟った。

 マークスが僕にそう教えてくれたんだ。

 そして、マークスは未知の世界へと渡った。亡道もうどう世界せかいへと。そこでなにがあったかは――。

 僕にはわからない。

 亡道もうどう世界せかいでマークスがなにを見て、なにを経験したか。それはなにひとつわからなかった。

 マークスの記憶との共鳴が切れたわけじゃない。共鳴はしている。ちゃんとつづいている。記憶はたしかに見えているんだ。でも――。

 なんて言えばいいんだろう。確かに光景は見えているのに、それがなんなのかわからない。生まれて一度も見たことがないものが目の前にあって、しかも、その『なにか』を語るための言葉もなく、名付けるための言葉もない。そんな感じ。いや、そもそもこの感覚を言葉で説明しようというのが無理なんだろう。この感覚ばかりは自分で実際に体験してもらわないとわからない。

 多分、マークス自身、自分がどこにいて、なにを見て、なにを体験しているのか、わかっていなかったんだと思う。それが、亡道もうどう世界せかい。僕たちの世界とはなにもかもがちがいすぎて、僕たち天命てんめいのものには理解することも、説明することも不可能な世界。

 それが亡道もうどう世界せかいなんだ。

 そして、どれぐらいの時がたっただろう。

 過去もなければ未来もない、すべてが混沌こんとんと溶け合った亡道もうどう世界せかい

 同じように、時の移ろいをもたない狭間はざま世界せかい

 そんな世界においては僕たちの言う『時間』そのものが意味をなさない。もしかしたら、何億年もの間、亡道もうどう世界せかいにいたのかも知れない。たった一秒だけのことだったのかも知れない。とにかく、過去から未来へと移りゆく時間のない世界で、マークスはいくらかの時を過ごした。そして――。

 マークスは帰ってきた。

 いままで誰ひとり、はじまりの種族であるゼッヴォーカーでさえ帰ってくることは出来なかった世界から。マークスは確かに帰ってきたんだ。

 「説明しよう、騎士マークス。私はいま、とても驚いている」

 マークスを出迎えたゼッヴォーカーの導師どうしがステンドグラスのような顔を明滅させながらそう言った。

 この導師どうしは、マークスのことを気にしてずっと待ち続けていたみたいだ。『みたい』というのは、僕が見ているのはあくまでマークスの記憶だから、マークスが亡道もうどう世界せかいに行っている間、この世界や導師どうしがなにをしていたかはまるでわからないからだ。

 とにかく、ゼッヴォーカーの導師どうしはマークスを迎えた。人間のような表情なんてなにひとつないけれど、それでも、マークスの帰還を喜び、感嘆し、尊敬の念を抱いているのことは、はっきりとわかった。

 「まさか、本当に戻ってくるとは。いくら、天命てんめいきょくを浴びつづけ、亡道に対する抵抗力を身につけていたとは言え、帰還を果たした君の精神力、使命感は敬服に値する。説明しよう、騎士マークス。私は君に最大限の敬意を払う」

 そう言う導師どうしの、ステンドグラスのような顔面がちかちかと一定の順序で光った。きっと、人間にとっての敬礼と同じ意味をもつことなんだろう。

 導師どうしはマークスの帰還を迎えた。でも、その導師どうしにしてもマークスがなにを見て、なにを経験してきたのかなんてわからなかった。わかっていたのはただひとつ。マークスはもう以前のマークスではなかったと言うこと。亡道に侵され、混沌こんとん侵食しんしょくされ、もはや、『人』とは言えない存在にかわっていた。いや、人どころか天命てんめいのものとすら言えない。もうこの世界の存在ではなくなっていた。そこにいたのは――そう。

 亡道もうどうつかさそのものだった。

 「……いま、戻りました」

 マークスは導師どうしにそう言った。その声ももうかつてのマークスのものではなかった。脳に直接響く、亡道もうどうつかさの声だった。

 「……しかし、私はもう人ではなくなってしまいました。いまの私は亡道もうどうつかさそのものです」

 「説明しよう、騎士マークス。まさに、その通りだ。君は亡道に侵され、混沌こんとん侵食しんしょくされ、亡道もうどうつかさと成り果ててしまった。このままでは君はこの世界に亡道を広め、世界を滅ぼす要素となってしまう」

 「はい」

 「説明しよう、騎士マークス。我々に君を救う手段はない。我々に出来ることは亡道もうどうつかさと成り果てた君を浄化し、死なせることだけだ。人の心が残っているうちに」

 「はい」

 マークスは静かに答えた。

 そこにあるのは覚悟なんかじゃなかった。それこそが自分に残された唯一の救い。そう悟っている声だった。

 「どうか、私のこの身を浄化してください。この世界を侵食しんしょくする亡道もうどうたねと成り果てないうちに。ですが――」

 マークスは導師どうしに言った。

 「私に敬意を払うと言うのであれば、それに免じてひとつ願いがあります」

 「説明しよう、騎士マークス。君に対する限りない敬意に懸けて、我々に出来ることであればなんなりと果たそう。言うがよい、その望みを」

 「ありがとうございます。そのご厚意に懸けて願います。どうか、私の魂を私の船に、天命てんめい巫女みこさまの乗るあの船に植え付けてください」

 マークスはそう言って左手――もう『左手』と言っていいのかどうかさえわからなかったけど――をあげた。そこにはひとつの小瓶が握られていた。その小瓶のなかには黒いもやもやっとしたものが入れられていた。

 ゼッヴォーカーの導師どうしの驚きが伝わってきた。

 「それは……まさか、混沌こんとんを持ち帰ったのか、騎士マークスよ」

 「はい。私の体は混沌こんとんに侵され、もはや、元に戻ることは叶いません。ですが、この心、人の心はまだ残っています。この心を船に残し、船として世界を巡り、この混沌こんとんを託すにたる人物を探す。それが私の最後の願い。どうか、叶えていただきたい」

 「……説明しよう、騎士マークス。君の願い、確かに承知した。我々の総力をもって君の体を浄化し、君の魂を君の船に植え付けよう」

 「ありがとうございます」


 そして、マークスは戻ってきた。

 自分の船に。

 天命てんめい巫女みこさまがいまだかわることなく天命てんめいきょくを奏でつづける操舵そうだしつへと。

 「……天命てんめい巫女みこよ」

 亡道もうどうつかさと成り果てたマークスは天命てんめい巫女みこさまに語りかけた。

 「私はあなたを人間に戻すことはできませんでした。あなたの騎士を名乗りながらなんとふがいなきこと。お詫び申しあげます。ですが――」

 マークスは力強く断言した。

 「いつかきっと、我が意思を受け継ぎ、あなたを人間に戻そうとする人間が現れる。犠牲を払うことなく、この世界を亡道もうどう世界せかいから守ろうとする人間が現れる。それまで……いましばらく、おまちください」

 マークスはそう言い残すと舵輪に向かった。力尽きたようにその上に覆い被さった。その全身を透明な炎が覆った。ゼッヴォーカーの導師どうしたちが送り込んだ浄化の炎だった。

 その炎によってマークスのなかの混沌こんとんは焼き払われ、その姿はもとの人間の姿へと戻っていった。でも――。

 その炎に人間の肉体は耐えられない。共に焼き払われるしかない。それが――。

 亡道に侵された天命てんめいのものの定め。

 燃える、

 燃える、

 マークスの肉体が。

 混沌こんとんが浄化されると共に人間の肉体が灰になっていく。

 そのさなか、マークスは自分の生涯を思い起こしていた。

 騎士を目指した幼い頃。

 亡道もうどうつかさへの怒りを滾らせ、修行に励んだ青年時代。

 人類最強の騎士と認められ、騎士団長に任命されたとき。

 一千万の兵を率い、亡道もうどうつかさと戦い、天命てんめい巫女みこさまを人間に戻すために幾万の旅をした。そして――。

 遙かな未来、顔も知らない子供の、その子の、さらにその子の、遠いとおい子孫たちに対する思い。

 そのすべてがマークスの心のなかで渦まいていた。

 肉体が燃え尽きる最後の最後。マークスは右手の人差し指を食いちぎった。流れ出る血でただ一文を書き綴った。胸に沸き起こる無数の思い。その思いのすべてを込めた一言。


 あとにつづくを信ず。

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