たった一つの冴えたやり方VS

焼き芋とワカメ

第1話

 午後二時半、喫茶店にて。


「あっつ!」

「も、申し訳ございません!」


 ウエイトレスは男の注文したコーヒーをこぼしてしまった。まあこのくらいのこと、この若いウエイトレスの美しい顔と抜群のスタイル、普段のこの男なら絶対に許すはずだった。しかし何と間の悪い事だろうか!


「しまったなあ。これから取引先と大事な交渉があるっていうのに」


 今日に限って! 今回の案件は男に取っても男の勤める会社にとっても非常に大事な、上手く事が運ばなければ倒産もあり得る――実際はそんなことはないのだが精神的にはそれくらい――大事な案件の交渉がこの後待っていたのだ。

 ちょっと早く着きすぎたんで精神を落ち着かせるついでに喫茶店に寄ったのが運の尽き。しかもさらに悪いのが――。


「こぼしたところが股間とは……」


 よりにもよって! これではまるでこの男が漏らしたみたいじゃないか! しかもちょっと濡れた程度ではないのだ、このこぼれ方。完全にぶっかけ状態。コーヒーカップには何も残っていない。この濡れよう、傍から見れば『小便に失敗したのを誤魔化すために手洗いの時の水で濡れました』というせこい工作をやった、そんなみっともない姿に見えるのだ!


「どうしてくれるんだぁ君」

「ほ、本当に申し訳ございません!」


 ウエイトレスは深々と頭を下げた。しかしいくら謝っても何の解決にもならないのだ。

 男は怒るよりも焦った。どうするか、こんなみっともない姿で取引先に赴いてもきっと交渉は上手く行かない。舐められたら終わりなのだ。それにこちらも羞恥心で交渉に集中できないというのもある。

 とりあえず男は、ウエイトレスにそれ以上頭を下げさせるのは止めさせた。意味のない事だからだ。今必要なのはこの絶対的な窮地を乗り切る作戦である。

 しかし、作戦は一向に浮かばなかった。一時間以上考えたが浮かばなかった。交渉は四時から。その時は刻一刻と迫っていた。

 男は頭を抱えた。いっそのことズボンを穿かずに行ってやろうか。いや、ズボンも穿けない間抜けと相手に舐められて、交渉でこちらの要求を通せない。ズボンを買いに行こうにもコーヒー代でもうそんな金は残っていない。男は、自分がカードは持たない現金派であることを初めて呪った。


「あの、大丈夫でしょうか」


 さっきのウエイトレスがまた話しかけてきた。男はウエイトレスを見やる。


「いや、どうだろうか。正直もう無理かもしれない」


 男の声には覇気がなかった。だが、こんな時だというのにこのウエイトレス良い体してるなあなんてことがふと男の脳裏に過ぎった。

 ※この男は人間です! 猿ではありません!

 しかし、それは光明だった。こんなことがあるのだろうか。男は、もはや存在し得ないと思われた、この絶望的なまでの窮地を乗り切るための作戦を考え付いたのだ。たった一つの冴えたやり方、というやつを。

 男は勢いよく立ち上がり、ウエイトレスの手を取った。


「さっきの事を悪いと思うならどうか僕に協力してくれないか!」


 ウエイトレスは勢いに押されてつい首を縦に振った。


「ありがとう。よし、それじゃ早速作戦を伝える。なに簡単なことだ。君は履いてるパンストを破き、服装を乱れさせた状態で僕について来る。それだけでいいんだ」


「それに何の意味があるんですか?」


「事後を装うのさ。男がズボンを穿いていなくても自然な状態を作り出す。あたかもさっきまで時間を忘れて二人でよろしくやっていて、慌てて駆け付けた風に見せかけるんだ。これならズボンを穿いてなくても自然だ」


 男は自信満々に答えた。そして自信満々にズボンを脱ぎ始めた。

 これがこの男のたった一つの冴えたやり方だった。




 時を同じくして、例の取引先。会議室。


「……しまった」


 交渉担当の男は、カレーうどんの汁が白いワイシャツにはねていたことを気にしていた。


「完全にやってしまった。昼飯のカレーうどんが染みを作っていると、今頃気が付くとはな。こんなみっともない格好では到底交渉など上手く行かない。どうすれば……」


 一見方法はないように思われる。

 そんな時、ドアをノックする音が聞こえる。部下が不足していた資料を届けに来たのだ。

 瞬間、男は閃いた。この窮地を脱する方法を。それはたった一つの冴えたやり方だった。




 

 男とウエイトレスは取引先のビルにやって来た。男はズボンを穿かず、女はパンストが破れ服装が乱れている。二人は白い目で案内され、会議室の目の前までたどり着く。

 運命の扉が今開かれる。二人は勢いよく会議室に乗り込んだ。


 そこでは取引先の男が、隣の男の乳首を舐めさせていた。


 四人の時が止まる。

 見つめ合うズボンを穿いてない男と、乳首を男に舐められている男。

 見つめ合うパンストの破れた女と、男の乳首を舐める男。


 取引先の男が、カレー染みを誤魔化すために導き出したたった一つの冴えたやり方、それは乳首を舐めさせること。ワイシャツを脱ぐのに乳首を舐めさせるため以上の合理的な理由はこの世に存在しない。彼は部下に豪語し自分の乳首を舐めさせた。




 この交渉の行く末を知る者はまだ誰も居ない。


 ――さあ交渉は始まったばかりだ。

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たった一つの冴えたやり方VS 焼き芋とワカメ @yakiimo_wakame

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