御前様
判家悠久
第1話 逃げ水
その母娘達は、珍妙な方々と思う。比叡山の休み屋で飽きる事無く、梅雨の屋根瓦の雨垂れの音に合わせて道化る。私は、お市様に、茶々様・初様・江様の為に横笛を差し出すも。
「もう、うつけ時代の頃の、杵柄など忘れました」と、暫し純粋に見つめられる。この視線で物怖じする輩は、ただ多い。私は、日々この傅きなので慣れては耐性が付く。
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お市様に出会ったのは、織田家と浅井家と最初の縁談のあれこれになる。両家の印象は悪くも無いも、和田惟政の内定が進むうちに、うつけの家中と理解する。ただ、嫁に貰うお市様が六尺余りの長身と、女子は三歩下がるもので、何かと長身痩躯な浅井長政と比較されては、どちらがどっちと、如何になる。
私日比鷺乃は、伊賀の浅井家遠縁の忍びの家に生まれる。そして、その密な繋がりから、密命として、お市様を探って査定せよと下される。
私は、賑わう尾張熱田に入り、織田家中のたむろする一帯を、組紐の行商として見つめる。うつけとは、次期当主織田信長を指すと思っていたが、然に非ず。それは信長を中心とする、百人あまりの集団をまとめて指していた。
その中でも、一際目を惹かざる得ないのは、うつけの隊列の先陣を切る、流麗な横笛を吹くお市様だ。元よりの身長も、女子としてかなり高い。いや日焼けし過ぎた肌の存在感も、高身長の印象に加味されている。
そのお市様は、朱塗りの高下駄に、唐風の直上に高く結い上げた結髪で、確かに六尺超えをしている。唐風の衣装の、後への裾の長さを含んだとしても、やはり身の丈が高い。
成る程、これでは美丈夫な浅井長政でも霞む。話が流れて当然にもなろう。
それに、今回の縁談が舞い込んでも、お市様がお淑やかにしないのは、信長の入れ知恵かと思っていたが。お市様が、毎回喜んで先陣を切っているので、どうしてもその場で溜め息をつく。そして私の組紐屋の露天の前に来ると、お市様が嬉しそうに話しかける。
「治部左衛門や、もっとド派手な誂えを作って下さいな」。そう微笑んで立ち去ると、信長様も微笑み、上積みして報酬を置いて行く。続いてうつけ連中残らず、お市様の誂え分かってるだろうなと、ハッタリをかまして行く。
数度衝動が優って、事故で捩伏し首の骨をへし折ろうとしたが、遠くで信長様が細い目をする。やめとけの強い視線。私をどうやら察している。
この時の私の潜入の身なりは、組紐屋治部左衛門の優男になり切っている。しかし、それは本来の姿では無い。
私は、浅井家の遠縁として、幼い頃から、浅井長政の影武者として仕込まれて来た。しかし、成長期に長政が急成長した為、私は本来の柳腰から、男の女中として方針転換された。
成長末期のしつけはひたすらしんどい。伊賀の里で、侍女の素養はあったものの。頭で女をなろうとされていると、何かと荒修行をこなしては、見た目の性別は無事女性になった。
今回の男仕事も何かで、査定を浅井家に文を送っていた。機運高まらずの動きであろうで、和田惟政が切羽詰まっては、お市様どうかご慈悲を号泣しては縋る為、今度は和田惟政の変節を探る様に指示をされる。そこから単刀直入の文を送ると、2週間後に熱田を離れる事になった。
私は、お市様に別れの挨拶をするが、不思議な因果をもたらす。
「よう分かりました。都に行けば、治部左衛門と出会える機会が増えるのですね。兄上に相談しないと、ですね」
後の織田家上洛は、無性にこの言葉が気になり、私は苦笑いする。
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私のお市様難ありの査定で、織田家浅井家の縁談は流れた。
ただそれも、いつしか信長の心に芽生えた天下布武の為には、強固な同盟関係を発揮しなくてはならず、お市様の再縁談が持ち上がった。
その頃にはお市様も、うつけを卒業しており、長政より二頭身低い麗しい淑女の佇まいを持って、浅井家に嫁いで来た。
ただ、お市様からは、強力な口添えが浅井家に入った。兄上の敵が多くなる以上、私を何につけ完璧に守れる侍女を付けて下さいになる。
そうなると、私伊賀の万能忍び日比鷺乃を早くもの一択となり、浅井家に傅く事になる。
そしてお市様との対面から、あの時の治部左衛門にもなる筈だが。信長様の草の者秀吉がかなり調べ尽くしたか、お市様は何も詰問する事なかった。そう、ただ日々和気藹々と、大人の青春時代を謳歌して行く。
この日々の過程で、織田家と浅井家の決裂があったものの、お市様は浅井家で息女を育み、浅井家の要となっていた。
ただそれも、織田家の猛攻で、浅井家は縮小し、現在は比叡山の一画を担う事になる。比叡山と都は、もうそこ。領地を広げれば、都での覇権を握れるは吾妻者の了見だ。都から全国各地に呼集し制すれば、織田家と相克となれる。
しかし、浅井家は寡勢であれば家臣は離反する筈も、お市様のためならばと、従う輩が多い為に結束は固い。信長の絶好調振りであっても、一点突破は可能だと、不思議と浅井家中の皆が思っていた。
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思いは、また一巡し、日々の日課に戻る。
梅雨が一時止むと、私達お市様の母娘は、比叡山の休み屋を降りる。いつも通り、麓の寺社町に出て憩いを思った時、寺社町から鈍い唸り呻き声が漏れ伝わる。
私は徐に前に出て盾となった。その先には、南蛮貿易船が連れて来た奴隷であろうの黒人が、両腕を血まみれにして、私達を睨んでいる。またもか。目が合うもの殺戮しろと、織田家が送って来た前哨戦の使者だろう。
織田家は、比叡山から退去しろと懇切丁寧に訴えかける。その一方で謀略を図り、金子で買った奴隷に、戦で捕らえた俘囚に、自由になりたければ、比叡山を捻じ伏せろと厳命し、それがはち切れては、比叡山の巷は、殺戮の場になる。
比叡山には屈強な僧兵もいるが、織田のはち切れた刺客はただ暴君で、前後見境無く振る舞うので、次第に我関せずの現状に収まっている。
戦闘とは、始まる前から状況が動く。これに飲まれるか飲まれないかで、本戦が決まるのだが、現状では比叡山は為すがままだ。
そして、奴隷黒人が大きく息を吸い込んでは、ドス低い声で雄叫び、こちらへと、ブチ切れて向かってくる。
私は帯に差し込んだ、中脇差を抜く。
既に間合い。奴隷黒人の渾身の右拳が振りかぶる、巻き上がる拳圧。これなら土塀を難なく貫通するだろう。私は、立ち居そのまま、腰だけ右に大きく反れる。
これは侍女の訓練で備わったものだ。女子の腰はただ柔いと、成長期に延々特訓させられて、女忍びよりしなやかに、そして男忍びの敏捷さが増し、ここに抜群の体技として帰結する。ここは化身たる、忍びの術逃げ水。
奴隷黒人の拳は、さも当然に、忍びの術逃げ水の、朧な化身を霧散した。黒人奴隷は当たりどころ無くし、均衡を崩し、前のめりになる。
奴隷黒人が、私の脇を掠めると同時に、中脇差を上段に静かに揃える。黒人奴隷の首筋の腱に血管が、すうっと真一文字に斬れる。黒人奴隷が、3歩歩んだ所で跪く。血吹雪でも、思った以上に頑強らしい。
黒人奴隷は、程なく事切れ、お市様に茶々様・初様・江様が、暫し見つめる。
お市様は、事切れたのを見届けては。黒人奴隷の瞼を閉じる。母娘共々、死に際に慣れているのは、武家ならではの切なさを思い知る。
そして、私の気づきを証明するかの様に、寺社町に松明が夥しく浮かび、織田軍の旗印が浮かぶ。威力偵察ではなかったのか。
その先頭に、南蛮鎧の男が軍馬に揺れて近づく。そして、無限の冷静さで。
「お市、もうここ迄でよかろう。岐阜に帰るぞ。茶々様・初様・江様にいつまでひもじくさせる。そして、鷺乃、今日迄の奮迅、礼を申す。さて、帰参が嫌なら、火攻めで、比叡山を焼くしかないが。そういうのは望まぬであろう」
私は真っ先に、泥濘みに膝を付き、礼を述べた。これも筋書きの一つが機能した。
私は、浅井家先代当主浅井久政に言い含まれている。
女盛りのお市様が下男に手を出すのであれば、浅井家遠縁の日比鷺乃に抱かれ、浅井家の血縁を反映させるのも、浅井家の名を何れ知らしめようと。織田家に寄生し、尚生き延びる。それも一理ある。
ただ、お市様の愛情は高邁で、心の結び付きを尚良しとする。その美貌と絶え間ぬ笑みで、一通りの男はひれ伏す。しかし、私は視線を決して逸らさぬ。私の敬愛して止まぬ心が、本当に届いているかどうかを見届ける為に。
「御兄上様も面妖な。物騒な鷺乃を成敗せず、岐阜に連れて行こうだなんて」
「俺の青春時代の輩は、生涯の宝だ。興味本位でも熱田に、治部左衛門の姿で現れたとしても、何ら慈愛は変わらぬ」
私はぬかるんだ地面に額を付けた。織田家に臣従すれば、忍びの一角にいても慈愛を受けられる。私は愛されている事を、この瞬間に喜びを受けざるを得ない。
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