【後譚】はなれないで、はなさないで(弍)

 馬車がついたのはいわゆる裏口で、宮殿関係者が日常的に出入りする場所だ。

 馬寄で降りた後、出来るだけきょろきょろしないようにと思いながらカタリーナは進む。しかし、周りは見たことがないものばかりで、つい視線が落ち着きなく動き回る。


(これじゃあ本物のおのぼりさんだわ!)


 必死になって正面を凝視していると、警備兵と何か会話をしていたらしいアッカーが戻り、

「迎えが来るようなので、さあ、どうぞ奥さん」

 と左腕を差し出す。


「だから奥さんではありませんのよっ」

 今日何度目か分からない抗議をするが、アッカーはどこ吹く風。その彼の見慣れない姿に、先ほどからカタリーナはドキドキしっぱなしだ。


 なぜか一瞬で変わった金の髪は、日の光を浴びてまるで光っているよう。いつもよりしっかり櫛を通して、整えている。だいぶ攻撃力がある姿だ。

 そんな姿でとろけるような微笑みを向けられてしまえば、カタリーナは何も言えなくなってしまう。

「卑怯だわ」


 彼と腕を組んで王宮の中に入ると、長い廊下の向こう側から大股で近づいてくる人物がいる。


 褐色の肌に白髪、おそらく南の国の出身者なのだろう。体躯はがっちりしており帯刀もしているので、軍務の人間だ。

 その男は、二人の姿を認めると、ひょいと片手を上げて駆け寄ってきた。


「よう小ヴェルトフェス公、元気そうで何よりだ」

「ディンガー閣下もお変わりないようで。まさか閣下がお迎えの方ですか?」

 片眉を上げ、怪訝そうに答えるアッカーの横顔をちらりと見上げて、カタリーナはちょっとだけ眉を下げる。


 一瞬でアッカーのまとう空気が変わった。ティグノスにいた頃は感じなかったが、彼は心を許した相手に見せる顔と、そうでない相手に対するものはまるで別人だ。さすが高位貴族の政治家、と言うべきかもしれない。


(時々、とても昏い目をされるけど)


 カタリーナは彼のことをよく知らない。

 大きな公爵家の長男だが、妹は従姉妹だという。これも彼ではなく、妹のエルヴィラが昔教えてくれた。


 見上げる横顔は穏やかな美丈夫だ。非常にイケメンである。だが、無表情でまるで人形のよう。蕩けるような微笑みをしていた先程とはまるで別人だ。


「ああ、案内するよ。はじめまして、小ヴェルトフェス候の奥方、わたしはアルバン・ディンガーだ。ありがたいことに騎士団長の任を承っている」

 男がさらりとそう言ってたのせ、カタリーナは驚いて彼を凝視する。そして慌てて、淑女の礼を取った。


「カタリーナ・ヴィレと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 騎士団は、帝国では軍の一部だが、ほとんど独立した軍事組織だ。主に王宮の警護、そして皇族をはじめとする要人の警護を行なっている。

 だが、入隊は貴族しか認められない。そして騎士団は皇帝直属の軍であり、騎士団長は各軍の将軍に匹敵する力を持つ。

 ディンガー騎士団長は帝国内の伯爵、同じ伯爵家のカタリーナとは天と地もくらいの重さが違う。


「固くならんでいいよ。正式な場でもあらんし。何より君はエドヴィンの姪だしね。さ、陛下がお待ちだ。こちらへ」


 どうやら、昔軍務にいた叔父とも顔見知りらしい。そう言いながら伯爵がさっさと前に進んでしまったので、仕方なく二人もその跡を追う。


「ねえ、ニコラウス様」

 カタリーナは前を歩く伯爵に聞こえないように、彼にそっと囁く。

「このままだと、宮殿を出てしまいません?」


 カタリーナは宮殿に来たのは初めてなので、確かなことは言えないが、ここはいわゆる政務執務棟というところだろう。真っ直ぐに伸びた柱廊は手入れが行き届いており、左手に広がる庭は美しい。だがどこか『とりあえず取り繕っている』というような、生気の薄い感じもする。


「……そうだね」

 アッカーの声も硬い。

 やがて、噴水を中心とした美しい中庭に面した広間にたどり着いた。柱廊は二つに分かれ、一方は階段状になっている。もう一方は狭い。

 伯爵は迷わずに狭い方の通路を進んでいく。


「こっちは後宮だな」

 カタリーナの困惑に気がついてか、伯爵が笑いながら言う。おもわずカタリーナの足が止まる。


「後宮……?」

 思いがけない単語に驚く。

 後宮は皇帝の私的な場所のはず。いくらなんでも部外者のカタリーナが入っていいものなのだろうか。


「小ヴェルドフェス殿から聞いてないかい? 後宮には文官や騎士の寮があってね。我々はそっちで暮らしてるんだよ」


「寮!?」

 隣のアッカーを見上げると、困ったように笑いながら、衝撃的な事を言う。

「そう。屋敷から王宮に通うにはすごく大変だから、王宮勤めはだいたいこの寮生活だ。君がこちらにきてくれたら、君もここで暮らすよ」


「暮ら……すっ!?」

 カタリーナの知る後宮と、帝国の後宮はまるで違う物のようで、彼女はただ絶句した。


 ■■■■■


 通された部屋は、大きな窓のある開放的な雰囲気の部屋だった。

 部屋の内装は豪華で、壁面には代々の皇帝家の肖像画が飾られている。ただし家具は何もない。

 右側にもう一つ扉があって、その前に数人の騎士が立っていた。


「こちらでお待ちを」

 伯爵が二人に言い、その奥の扉に入っていく。そしてすぐにひょいと顔を出して、手招きした。


(本当に気軽だわ)


 平静を取り繕ってはいるが、カタリーナも、先ほどから緊張しっぱなしだ。心臓もばくばく煩い。

 隣のアッカーが冷静な顔をしているので、なんとか落ち着いていられる状況だ。

 そのアッカーに手を引かれ、伯爵の消えたドアへと向かう。両開きの扉の向こう側が、皇帝の執務室のようだった。


「やあ、ニコラウス、おかえり」


 やはり壁の一面は大きなテラス窓、その向こうは美しい庭園が広がっている。そしてちょうど扉から正面に置いてある重厚な執務机に寄りかかるように立っている男を見て、アッカーは足を止める。それに倣って、カタリーナも視線を落としたまま立ち止まる。


「陛下、流石にこの呼出は酷です。ーーーただいま戻りました」

「こちらも限界だったんだ。無事に戻ってくれて何より嬉しいぞ」


 落ち着いた声だった。

 カタリーナは流石に緊張する。遠くから眺めるだけだったこの大陸の最高権力者が目の前にいるのだから、当然だろう。珍しく鼓動が早い。


「ヴィレ嬢もようこそ。固まっていないで、顔を上げてくれ」

 思ったより優しい声に誘われるまま、カタリーナは顔を上げる。

 目の前には白皙の男が一人、立っていた。


(これが皇帝、ユリウス陛下……)


 思わず、息を呑む。

 腰元まで伸ばしている長い髪は白銀。肌の白さと相まって、色が抜け落ちたような印象を与える。何より目を引くのが、その顔を覆う黒い仮面だった。仮面は両目と顔の上半分をほとんど隠している。形の良い鼻梁と、穏やかな微笑みを浮かべている口元以外、その顔は隠されている。ただ深い紫水晶のような瞳が、穏やかな夜の海を思わせた。


 色の薄さからややもすれば儚げな印象を与えがちだが、そこは皇帝らしく、鍛えているであろうしっかりとした存在感のある男だった。


「初めてお目にかかります。ティグノス諸島連合から参りました、カタリーナ・ヴィレでございます」

「固い挨拶はいい。あなたはティグノスの民で、そこのわたしの側近の奥方だ。気楽に接してくれると嬉しい」

 穏やかだがはっきりとした口調で告げられると、これ以上は失礼になるだろう。だが、どの程度緩めればいいかわからない。困り果てて隣を見上げると、アッカーがいつものように笑顔で立っていた。


「大丈夫ですよ、陛下はこの通りの方なので、気負わずに」

 どうやら、自分の婚約者は陛下とかなり親しいらしい。進められるままに執務室のソファに腰掛け、そして目の前にはいつのまにかお茶が用意されている。

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