第12話 カタリーナは微笑みたい
その夜の晩餐会前、控えの間でティグノス諸島王国国王アーベル・アインザームとフィリーネ・アンガーマン公爵令嬢が初めての顔合わせを行った。
身を清めたアーベルはついでに髭をそり落とし、頭髪も整えていた。国王としての正装をしているが身の丈はフィリーネよりだいぶ大きい。体を低くして少女に視線を合わせているさまは、それはそれで面白い。
対するフィリーネは、こちらで用意したピンクのドレスに身を包み、エメに整えられて編み上げた金髪とささやかなお化粧で、とても愛らしい姿だった。
俯きつつも頬を染めて、アーベルを見上げる様子はなかなか良い雰囲気ではないか。
一方のアーベルは優しい微笑みで、彼女を見つめている。
アーベルがフィリーネをエスコートし、それに続いてヴィレ伯夫妻、ルスト伯にエスコートされたカタリーナが会場に入室する。
既に集まっていた国内の要人たちは皆一様に、フィリーネの可憐さとアーベルのぎこちないエスコートに頬を緩めた。
「これは結構いけるのではないか?」
カタリーナの隣のルスト伯も笑顔だ。
「ですね。安心いたしましたわ」
決して施政者としては有能ではないアーベルだが、ひとりの人間としてはじゅうぶん尊敬できる。フィリーネを不幸にすることはないと信じたい。
「そして相変わらずカタリーナは見事だな」
そう言いながら、叔父が遠慮なくカタリーナの胸に視線を落とす。
今日は夜会用より露出の控えめなドレスだが、それでもしっかり主張する胸元が、我ながら素晴らしいと思う。悲しい意味で。
「叔父様、セクハラです」
「そして俺の正面の男がたびたび俺を睨むのだが、何かしたか」
彼の向かいにいるのはアッカー子爵だ。
今日はいつものような眼鏡装備のもったりしたアッカーである。
先程激怒していたアッカーだが、なぜか今は涼しげな表情でカタリーナに笑顔を送った。はたから見ると口角がすこし上がった程度だが、あれが彼の作り笑顔だということをカタリーナは知っている。
「ええ、まぁ。お気になさらずに」
叔父は顔を引きつらせつつ笑うカタリーナと向かいの男を交互に見る。アッカーはルスト伯には冷たい目線を向けているが、他の人と会話するときには穏やかな目のようだ。
「何か嫌われることをしたかなぁ」
嫌われるも何も、叔父は新年からずっと帰ってこなかったので、二人の顔合わせは今日が初めてのはずだ。
情けなさそうに笑う叔父に、優しく微笑みかける。今日のカタリーナは機嫌がいい。
叔父はおもしろそうに眉根を動かした。
あまり人に聞かれたくない話なので、カタリーナは少し声を抑えた。
「実はわたくしに結婚の申込みがあったそうですわ」
「ほう?」
満面のほほえみのカタリーナを、ルスト伯はきょとんと見返す。向かいの席の数人の領主やその妻たちも注目しているほど、カタリーナの笑顔は珍しいらしい。ちょっと腹が立つ。
とはいえ、カタリーナとアーベルはあれからすぐに晩餐会の話をしなければならず、詳しい話は聞くことができなかったのだが。
まぁ、出会いのない自分に婚約を申し込んでくれるとしたら、目の前のこの青年以外は思い当たらない。現に先ほど執務室で、
『お二人、距離がだいぶ近いですが』と真剣な目で自分とアーベルを引き離したのだ。
ここ数日、彼が分かりやすくアピールしてくれたおかげで、ようやくカタリーナも彼を結婚相手として意識できるようになっている。
思えば半年前にこの国に来てから、いつも仕事を手伝ってくれたり、優しい声をかけてくれていた。
(……そういえば、聞き損なってしまったわ)
ーーー彼はいつから自分のことを気にしてくれていたのだろう。
「ほう……? アーベルから聞いたのか?」
怪訝そうな顔でそう返され、カタリーナは首を傾げる。叔父はアッカーと今日初めて会ったはずなのに、この話を知っているらしい。
「ええ……」
言いながら、カタリーナは先程の違和感を思い出す。
アーベルとアッカーは親友だ。
カタリーナが彼に求婚されたとして、アーベルがあんな目をするだろうか。
焦る気持ちで見上げた叔父は、ひとつため息を吐き、金の瞳は焦点を失った。
その褐色の髪の間の瞳を、カタリーナは不思議に見つめた。歳を重ねていても、女性が絶えないのも納得の男ぶりだ。
「俺が王都にいた時に打診があったのだが、勝手に一度断った。だが正式に書面を送り付けてきたらしいな」
「はい?」
なんだか話が見えない。首を傾けるカタリーナに、ルスト伯が哀しげに笑って言った。
「アンガーマン公爵がな、先日夫人を亡くされた。喪が開け次第、お前を娶り結婚式を挙げたいそうだ」
「アンガーマン公爵……」
叔父が硬い表情で頷いたのを確認し、カタリーナは全身の血が凍り付いた。先ほどまで、婚約の申し込みの相手を思い、幸せな気持ちでいたのに。そう、幸せな……。
そうか。
(わたし、アッカー様の事が好きなんだわ)
その結論はすとんと、カタリーナの心に収まった。
「相手が公爵家では、どうやって逃げるかなぁ……」
叔父の声が、どこか遠いところから聞こえる。そっと隣から手が伸びてカタリーナの冷たい手に重なる。
「少し夜風に当たるか?」
呆然としたまま頷き、叔父に導かれるようにテラスに出る。
振り向けば、会場は皆それぞれ楽しそうに話をしていて、二人が離席していることに気を止める者はいなさそうだ。ただアッカーがちらりと視線を投げてよこしたが。
「叔父様は昔、アンガーマン家と交流があったとか」
王城のテラスは広いが、備え付けの椅子もない無骨な造りだ。ルスト伯がカタリーナの肩にそっと自分の外套をかけた。
カタリーナの視線は夜の海から離れない。
海は強い風もなく、静かに凪いでいる。海面はきらきらと月の光を映し出し、これ以上ないほど美しい。
「昔なぁ。それこそ学園……当時は学院と呼んでいたかな。そこにいたころだから、30年以上昔になるかな。いわゆる取り巻きってやつだ」
その声はひどく寂しげだった。
「……お辛かったのですね」
叔父は少し笑う。
「いや、俺のせいで泣いた人間もいたから。俺がとやかく言える立場ではないな」
「……泣いた?」
カタリーナの問いには答えはなかった。
「公爵が完全に引退して、縁が切れたと思っていたのだが。
春先、久々にあの男の息子に呼ばれてな……。
こちらがアーベルの嫁探しに奔走してるとどこで聞いたのか、妹を嫁にやるのでそちらもヴィレ嬢を差し出せと言われた。今年の新年の儀で、お前を気に入ったようだな」
そこで叔父は苛立つようがりがりと頭を掻く。
「その場でしっかり固辞し、そのあと帝国からも指導が入ったはずだが、直接フィリーネ嬢を送りつけて結婚を成立させた。次はカタリーナを寄越せと言うだろう」
カタリーナは頷く。
俯き加減のせいか、眩暈がする。そっと額に触れると、叔父は大きな体を縮めて彼女の顔を覗き込んだ。
「カタリーナ、なんとか逃げよう。あの家に入って幸福になれるはずがない」
確信を込めて言うその言葉も、肩にかけられた手に篭る力も、強い。
青褪めつつ頷き、それが可能なら……と思いを巡らす。ただ、そんな方法があるだろうか。
一昔前なら、アンガーマン公爵家からの命令書は、皇帝からの命令と同等の力を持ったという。
アンガーマン公爵家の始まりは、帝国の歴史ほぼ同じほど古い。現在の帝王の一族は約四百年前に始まったので、歴代の帝王さえ逆らえなかったと言うが。
「逃げれるかしら……」
自分の声が思った以上に震えていて、カタリーナは笑う。誰より気が強いと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。
「まぁなぁ。理由がないからなぁ」
今現在、カタリーナには正式な婚約者がいない。公爵からの手順を踏んだ求婚を断れるとしたら、誰かと婚約関係であることを示すか、カタリーナの瑕疵を示すしかない。前者はさすがに時間がないし、後者は今後の婚約が難しくなるのは間違いない。
ふと全身の力が抜ける感覚がする。
その一瞬、誰かが強くカタリーナの肩を抱き寄せた。
「ルスト伯、今度は彼女を公爵家に売るおつもりですか?」
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