第9話 カタリーナは抗議したい
次の日、大荷物を抱えて王城の廊下を歩くカタリーナは、前から歩いてくる青年の姿を認めて、少しだけ目線を逸らす。
「おはようございます。カタリーナ嬢」
「おはようございます、昨日ぶりですわね。アッカー子爵様」
昨日、混乱する自分を抱きしめた男は、いつもと変わらない無表情だ。
家族以外の異性に触れられること自体初めてのカタリーナは、すっかり動揺してしまったのに。
(なんだかわたしだけが意識してるようじゃない!)
それはそれで腹立たしい。
ふとアッカーはカタリーナの腕の中に目をとめる。今年四才になった甥のイヴォークが眠そうに目をこすりながらアッカーを見上げていた。
「そしてイヴォークもおはよう。またすこし大きくなったかな?」
今カタリーナは小さい甥を抱え、更に両手には大荷物を引っ掛けている。あまりの重さに先程から手が悲鳴を上げているが、とりあえず顔には出ていないはずだ。我ながら大したものである。
だがアッカーはすこし怪訝そうな面持ちで片眉をあげ、カタリーナの手元から荷物を攫う。
挨拶だけでその場を去ろうとしていたカタリーナは少し驚いた。
「大丈夫です、自分で持てますから」
アッカーの横顔はとても穏やかだ。
そんな彼を睨みつけながら、カタリーナはやっぱり腹立たしいと思ってしまう。
昨日彼が貸してくれた上着は今も部屋に置いたままだ。ここで会うと知っていたらなんとか持ってきたのだが……いや、それは流石に無理かもしれない。
彼が愛用しているらしい上着の、その香りを思い出すだけで、カタリーナは赤面してしまいそうなのに。
「そんなに意地をはらないでください。また虐めたくなりますよ?」
「はぁ!?」
「怒った顔は似合わないといったでしょう?」
「怒らせたのは誰ですか! 第一、昨日はっ」
昨日は確かに多少頭に血が上っていた。
だが、さすがに恋人でも配偶者でもない女性を抱きしめるのは如何なものか。
その抗議も、どう言葉にしていいかわからない。さすがにイヴォークの前で色々話すのも気が引ける。
「イヴォーク、先に食堂に行っていて。ここを真っ直ぐよ」
カタリーナに地面に下ろされたイヴォークは、ふるふると首を振り、スカートにしがみついた。
「かたといっしょいる。とうちゃんに、かたにへんなむしが、つかないよう、みはってろって」
そう言いながら、子供らしい大きな瞳でじぃっとアッカーを見上げる。
アッカーの顔が引き攣った。
「まぁ、イヴォークったら。本当にかわいいわ!」
そんな男同士の攻防に気がついていないカタリーナはぎゅうっとイヴォークを抱きしめ、頬擦りする。
「でも大丈夫よ? このお城にはちゃんと警備の人もいるし、心配いらないわ。朝ごはんは一緒に食べましょうね」
抱きしめられてびっくりした顔のまま、イヴォークはかくかく頷いて食堂の方へ走っていく。
そんな後ろ姿を名残惜しそうに見送っていると、背後で聞き取れないほど小さな声で、アッカーが何か言った。
「はい?」
「……いいえ。それよりカタリーナ、ぜひわたしにも親愛のハグを」
「いい歳してふざけないでください! 本当に昨日は……!」
ぐっと言葉に詰まり、空いた両手でカタリーナは顔を覆う。顔が燃えているのではないかと思うほど熱い。
「肌に触れたくらいでそんなに怒らなくても。昨日はルスト伯に肩を寄せていたではありませんか」
「……肌って!! ご、誤解を招くような言い方を、っ!! そしてルスト伯は叔父ですっ」
真っ赤になって抗議すると、アッカーは鼻で笑った。
「叔父でも一人の男には変わりないですよ。しかも彼は、あのアンガーマン前公爵の取り巻きだった男です」
「え」
予想もしていなかったことに、言葉を失う。
昨日からやけにその家名を聞くのだが。
「若いころはいろいろな悪さに加担していたようですが。ご存知無かったのですか?」
人に良さそうな叔父と、カタリーナの中で諸悪の根源と化しているアンガーマン公爵家は繋がらない。叔父も昨日はそんなこと、一言も教えてくれなかった。
すう、と一度深く呼吸をしてカタリーナは目の前の男を見据える。アッカーは少し驚いた表情で彼女を見返した。
「確かにわたくしは、昨日の件でアンガーマン公爵家には憤りを覚えています。
そしてルスト伯がどのように公爵と関わっていたかは、まったく存じません。
ですがわたくしの知る限り、叔父は他人にそのような不義理なことをするような人間ではありません」
彼女の口調が変わったのを見て、アッカーはふいと目をそらす。
「やはり、まだ私は信用に足りませんか」
ぽつりとこぼれた言葉は、なぜかとても哀しげで、まるで子供のようだ。カタリーナはにっこりと微笑む。
「いえ。わたくし、アッカー様のことを信用しておりますわ」
彼が控えめに自分を見たことを確認して、すこし砕けた口調でカタリーナはつづける。
「ただわたくし、自分の見たもの、自分が信じられると判断した事しか信じませんのよ」
「それは自分にとって都合の良いこと、ではないですか?」
「厳しい指摘ですわね」
カタリーナは苦笑いする。
「ですが、そうですね。自分にとって都合の悪いことばかり考えて、気持ちが滅入ってしまうよりずっと良いと思うわ」
「それはあなたが、恵まれていたからではないですか?」
アッカーの反論はなぜか苦しそうだった。
カタリーナはぐいっと背伸びして、アッカーの顔を覗き込む。
「なんだか最近アッカー様、私に遠慮がなくなってしまいましたね」
ふっと彼の表情が硬くなった。
「アッカー様はきっと今まで色々なご苦労をされてきたのでしょう」
「……どうだろうね」
否定も肯定もしない。
「それはとてもつらい経験だったと思います。何も知らない私には、それしか言えないです」
「慰めてはくれないのかい?」
その口調があまりにも飄々としていたので、カタリーナはなんとなく痛々しいと思ってしまう。
「もし今までの人生の中で何かに絶望されたなら、誰が何を言っても意味がありません。私は冷たい人間なので、上っ面の言葉しか言えませんわ」
そうか、と返すアッカーの言葉には何の感情もない。
「ただそうですわね。私がアッカー様のお友達でいる限りは、何かあった時は助けて差し上げますわ。あなたは信用できる人ですから。
ですからこれからの人生は、それほど心配しなくてよろしいですわよ」
なんだそれは。笑う声には少し感情があった。
その不思議な色の瞳の目元が綻んでいる様に、カタリーナは安心する。
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