1. OMENS OF LOVE
その人は、まるで風景に溶け込んでいるようだった。
新潟県
薄紫色に染まったその世界の中で、彼女はただ、肩を震わせていた。
150センチメートルほどの身長。体型はどちらかと言えばスリムで、肩まで届くストレートの黒髪。後姿だけど、間違いない。
彼女が風景の一部のように見えたのは、彼女が今纏っているのがマゼンタのジャージだから、というだけでは決してない。
前々から思っていた。彼女は何かの花に似ている、と。だけど、何の花なのかはずっと思い出せなかった。それが今、僕の中で稲光に照らされたかのように明らかになったのだ。
カタクリだった。小さくて、可憐で、慎ましやかで……そして、美しい。
僕はカタクリの花が好きだった。そのイメージを、無意識に森下さんに重ね合わせていたのだ。しかし……実際にカタクリの花が咲き誇る中に、彼女がここまで違和感なく溶け込むとは思わなかった。
その彼女は今、泣いているようだ。
声は聞こえないが、小刻みな肩の震えがそれを如実に示していた。
なぜ泣いているんだろう。しかも、こんなところで。
……う。まずい。
マスクを超えて潜り込んだ花粉が僕の鼻腔を刺激する。慌てて堪えようとしたが遅かった。僕の体に本能的に備わっている条件反射が発動する。
「はっくしょん!」
「!」
森下さんの背中がビクンと跳ねた。そのまま彼女はこちらを振り返る。二重まぶたの濡れた眼が、こぼれ落ちそうなくらいに見開かれていた。
「あ……」
僕と目が合うとすぐに視線を逸らし、彼女はそそくさとその場を後にする。
気まずい。気まずすぎる。やっちまった……
僕はがっくりと肩を落とした。
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「はい、皆さんお疲れさまでした」
信越大学、長野キャンパス正門バス停。停まったバスの中で、マイクを持って先頭の座席から立ち上がったカオ
腕時計を見ると、18時を少し過ぎていた。だがまだ周囲は十分明るい。いつの間にか日が長くなったものだ。
どことなく修学旅行のガイドさんをほうふつとさせる雰囲気を醸し出しながら、松崎TAはアナウンスを始めた。
「これで本日の実習は終わりです。
生物学実習は教職科目で、理科の教員免許の取得には必須となっている。教員になるつもりはあんまりないけど、僕も一応教員免許だけは取っておこうと思っているので、今回の実習に参加したのだ。だけど、まさか森下さんも参加していたとは……彼女は教員を目指しているんだろうか。
「それから、これは今回の実習とは関係ないんですが」松崎TAの話は続いていた。「実は今月から、『克雪プロジェクト』という学部学科横断型PBL(
「はーい!」
僕の隣の席に座っていた同じ学科の同級生、
「どうぞ」松崎TAが彼を指さした。
「香織さんはそのプロジェクトに参加しているんですか?」
下の名前で呼ぶのはずいぶん馴れ馴れしいようだが、実は今回の実習の担当教員も同じ「松崎」なので、区別をつけるために彼女は、自分を呼ぶときは下の名前で、と予め皆に伝えていた。
「もちろんです」すまし顔で彼女は応える。「一応、今年は私が学生リーダーを務めます。教職員も参加していますけど、活動の主体は学生ですからね。学生たちが現実に存在する問題を解決するために自ら活動するのがPBLです」
「おっしゃ!」杉浦が右手でガッツポーズを作る。が、
「あ、ちなみに私、彼氏いますけど」
そう言って無表情の松崎TAが上げた右手の薬指に、指輪が光っているのを見た瞬間、
「……あ、そっすか……ガチョーン」
テンションを一気に奪われた彼の右手が、萎れたかのように引き込まれる。つか、「ガチョーン」って……いつのギャグだよ……
それはともかく、カオ姉、今確かに「彼氏いますけど」って言ったな。やっぱそうなんだ。
「他に質問ある人いますか?」
一通り見回し、カオ姉……もとい松崎TAは誰も手を上げていないのを確認すると、彼女の隣の席に座っている松崎
「先生、何かお話しすることあります?」
「いや、ないよ」
後ろ姿の松崎先生が首を横に振る。年齢は30代後半くらいだろうか。ちょっとイケメンっぽいけど、髪の毛ボサボサで無精ヒゲも目立つ。来ているのはヨレヨレのジャージで、しかも今日に限ったわけじゃなく、講義の日もこの格好だ。それでも生物学科の准教授なんだから、人間ってよくわからない。つか、今回の実習、説明とかもうほとんど全部TAに任せっきりだったんだけど……それでよかったのか?
「分かりました」松崎TAがこちらに顔を戻す。「もしプロジェクトに興味がある人がいたら、私か松崎先生にメールを送るか、研究室に直接来てもらってもいいです。それでは皆さん、今日はこれで解散です。お疲れ様でした」
---
「
バスを降りてから、杉浦が僕に声をかけてきた。彼とは学科が同じだから一緒に取っている講義も多い。だけどどっちかというと彼は不真面目な学生で、僕のノートやレポートを当てにしているフシも見受けられるが、なんだかんだで仲が良く、一緒に遊ぶことも多かった。そして、僕も彼も今のところ特に課外活動には所属していない。
「けど、カ……のじょ、松崎さん、彼氏いるんだろ? いいのか?」
うっかり「カオ姉」……と言いかけてなんとか「彼女」に持って行って聞き返すと、杉浦は、ふん、と鼻を鳴らす。
「そんなのはどうでもいいんだよ。俺はな、
「まあ、そうだけどさ……バイトもあるからなぁ……ちょっと考えさせてくれ」
「分かった。それじゃ、な」
「ああ」
手を振って、歩いていく杉浦の後姿を見送っていると、突然背後に気配を感じる。
「
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