異病
氷川省吾
鬼病
第1話 鬼病①
“昼なお暗き”という言葉が、この上なく適切だと思わせる場所だった。
東北のある山の中。カーナビもろくに場所を正しく示せないような山道を上り続け、篠田邦彦が運転するSUVは、ようやく目的の場所に到着した。高速道路から降りてから、すでに4時間が経っている。
周囲には縄文人がこの地を歩いていたころから変わりがないのではと思わせるような原生林が生い茂り、本来ならば見えるはずの山肌を完全に覆い隠していた。太陽は頂点に近い場所にあるはずだが、好き放題に枝を伸ばした常緑樹の葉が覆い隠し、降り注ぐ光の強さを半減させている。
クマやサルどころか、得体のしれない妖物の類さえ出てきそうに思える。これに比べれば、熊野古道さえハイキングコースに見えてくるほどだ。
道はかろうじて車が1台通れるだけの幅しかない。アスファルトではなく石畳が敷かれており、これがかろうじて植物の浸食と土の流出を防いで、道を存続させている。ナビもスマホも機能しない状態で何とか迷うことなくここに来ることができたのは、車が通れそうな道がこれ以外なかったことだけが理由だ。
誰がこんなところに住んでいるというのか。
到着するほんの僅か前まで篠田はそう思っていた。だが実際に着いてみると、どうやら人がいることだけは確かだということが分かった。
家がある。非常に立派な家だ。
古びているが高さが3m以上もありそうな塀が立っており、その向こうに茅葺の大きな屋根がそびえている。このご時世にこれだけ立派な茅葺の屋根が残っている場所はそう多くない。
「ここ……、ですよね? 先生」
助手席に座っていた花本詩織が、高精度GPS機能の付いたナビの画面と、目の前の光景を見比べながらつぶやいた。この場所ではナビがあったところで住所を正確に示してくれるとは思えない。緯度経度を入力した方がまだ確実だろう。
だが、他に人が住むことができる場所があるとは思えない。篠田はここで正しいのだと結論付けた。
「多分、そうだろうね。多分」
篠田は車を少し前に進ませ、駐車できそうな場所を探した。ここに警察が駐車違反を取り締まりに来るとはまず考えられないし、通行の邪魔になるとも思えないが、道の真ん中に放置する気にはなれなかった。
門は閉まったままだったが、すぐ横に空き地が作られ、プレハブのガレージが置かれていた。シャッターが閉まっていたが、前に一台ぐらい止めても問題はなさそうな余裕があった。
篠田はそちらにSUVを寄せて止め、エンジンを切って車から降りた。8月の最中ではあったが、冷房の効いた車内から出たにもかかわらず、暑さはほとんど感じなかった。“下界”のうだるような熱気から完全に切り離されている。
「すっげえ場所にすっげえ家」
助手席から降りた花本が、家の様子を見て呆れたように言った。車から降りて目線の高さが下がった分だけ、塀がさらに高くなったような気がした。真っ黒に見えるほど年月を経た杉板で作られた門が正面に構えている。非常に古いが、中型トラックで突っ込まれでもしない限り壊れそうにない。
「これって、実は誰もいませんでした、なんてオチは無かったりしませんよね」
花本の言葉と目の前の光景から、篠田は「迷い家」という話を思い出した。旅人が山中で、大きな黒い門を持つ立派な家にたどり着くが、中に入っても人が誰もいない。つい先ほどまで人がいた痕跡があり、湯気の立つ湯飲みが座卓に置かれ、火鉢の炭は火が熾されて、鉄瓶の中で湯が沸いている。あたかも旅人が入ってきた瞬間に、家人が姿を消してしまったかのように……。
結局、不気味さを感じた旅人は逃げてしまうのである。オチはいろいろで、この時にもらっていった器で米を掬ってみると、米がなくならなかったというパターンの他、もう一度行ってみようとしても見つけられなかったというパターンもある。
いずれにしても、山中に無人の立派な家が忽然と現れるという点では同じだ。
住人からメールで依頼を受けて来訪したのでなければ、迷い家伝説は現実にあったのではないかとも思わせてしまうような雰囲気がある。ただ、車が停められそうなガレージがある以上、住んでいるのが山姥や天狗の類ということもあるまいと思われた。現代日本に生きている人間だろう。
門に近づくと、横にインターホンが取り付けられているのが見えた。年季が入った杉の板に、グレーのプラスチックでできたカバーが張り付いている。その有様は、古びた時代に迷い込んだ、機械仕掛けの奇怪な甲虫のようにも見えた。
そのすぐ下に、目立つ赤色に塗られた郵便受けが取り付けられている。今も人が住んでいるとアピールしているようにも見える。
篠田はインターホンのボタンを押した。しばらく経って、もう一度押そうとしたとき、スピーカーが繋がったことを示す空電音が聞こえた。
『……はい』
篠田の予想とは異なり、若い女性の声だった。メールの送り主の名前は確かに女性の名前だったが、もっと年を取っているはずだと思い込んでいたのだ。
「すみません。北東大学自然人類学研究室の篠田です。こちらは八瀬様のお宅でしょうか?」
『……お待ちしておりました。戸は開いておりますので、どうぞお入りください。母屋にてお待ちしております』
インターホンが切れると、篠田と花本は顔を見合わせた。
「ここで合っているのは間違いない」
「少なくとも人が住んでいることも、ですね」
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