五、混乱
地下に設えられた牢は暗く、じめじめしていて、おまけに丸々太った薄汚いねずみが何匹も、囚人を嘲笑うように通路を走り回っていた。本当ならこんな不衛生な場所に何日も閉じ込められている怪我人が無事でいられるはずがなかったが、リヒャルトとユージーンはまだ生きていた。
場所と境遇こそ地獄のようだったが、黒覆面との交戦でふたりが作った傷はむしろ完治しつつあった――牢番が食事とともに傷薬や包帯を欠かさず差し入れてくれたからだ。別に彼らの境遇に同情している様子もなさそうな牢番がなぜそんなことをしてくれるのか、あるいは牢番に命じている誰かに彼らの命を救おうとしている人物がいるのかどうか、ふたりには知る由もなかった。だがふたりとも今を生き延びようという決意は固かったし、謎の傷薬のおかげで結果的にふたりの命は守られることになった。
もっとも傷の悪化を心配しなくてもよくなると、今度は薄暗がりの中で日がな一日正気を保とうと努力しなくてはならなくなったのだが。
「ここへ来て、もうどのくらいかなあ」
部屋の隅で腕立て伏せをしながらユージーンが呟いた。寝台に腰かけて(それは寝台というにはあまりに硬い代物だったが、食卓が囚人に与えられるはずもないので、やはり寝台に違いなかった)彼を見るともなしに見ていたリヒャルトは投げやりに返事をした。
「おまえ、一昨日も同じことを言っていたぞ」
「そうだっけ? そのとき何日って言った? 」
「今分からないものが、一昨日まで分かっていたわけないだろ。第一、本当に一昨日かも確かじゃない……前に同じ話になってから、七回食事の時間があったってだけさ」
「あれって、わざわざ囚人用に用意してるんだろうねえ」
ユージーンは運動をやめて仰向けに寝そべった。そうしたところで、見えるのは暗い石壁だけだった――ささやかな明り取りすらない小部屋で、扉にわずかに設けられたのぞき窓から外界の情報を得ようとしても、囚人の身分では今日の天気を知ることができるかどうかすら牢番の機嫌頼みだった。
ただひとつ幸運だったことがあるとすれば、ふたりが同じ牢に入れられたことだった。ちょっとした軽口にきちんと反応が返ってくるということが、お互いの心を救っていた。
ユージーンは朗らかに続けた。
「だってさ、城で出てる食事の余りがあんなにマズいわけないもんね」
「僕らは王子つきだったからね。特別待遇なのさ」
軽口を叩き合ったあとにもかかわらず、重苦しい沈黙が下りた。わけも分からず囚人として捕らわれ、状況が明らかになるに従って、示し合わせたわけではなかったがリヒャルトもユージーンも彼らの主人の話題を避けていた。もし彼があの晩の襲撃をかいくぐって無事でいるのだとしたら、リヒャルトたちはとうに牢から出されて彼の側近に戻っているに違いなかったからだ。
だが、もはや――。
「後悔してる? 」
どんなに先の見えない状況にあっても出したことのないような、か細い声でユージーンが尋ねた。相方の答えを待たず、彼は話した。
「おれはしてる……どうして、あのときもっと持ちこたえらんなかったんだろう……どうして、ジェラルドにやられるところ見せちゃったんだろうって……絶対気にするもん。あの人馬鹿みたいにお人よしだから、おれたちのこと気にして……」
「僕なんか、剣を投げてしまった」
「……えぇっ! ジェラルドに? 」
「もちろん当たらないようにはしたよ」
ユージーンが跳ね起きたので、リヒャルトは弁解した。
「そうでもしなければ、先に行ってくれそうになかったからね。本当に、おまえの言うとおりだ。馬鹿な王子さまだよ。――だけど、こんなことなら最期まで一緒に戦ったらよかったんじゃないかって、今は思うんだ。僕らだけが後に残るくらいならね。……主人も馬鹿なら、その側近はもっと馬鹿さ。……大馬鹿だよ、本当に」
「どうしてこんなふうに死ななきゃならないんだって、思ってる……」
ユージーンは両手で顔を覆った。
「でも、同じくらいほっとしてるんだ……もうすぐおれも死ねるって。ジェラルドが聞いたら、怒るだろうなあ。結局ちゃんと謝れないままだった。ちゃんと話、聞いてあげればよかったのに……」
ふたりは、春迎えの祭りの終わりとともに幕を下ろすことになる自分たちの運命についてすでに聞かされていた。正式に勅使や大臣が宣告に来たわけではなかったが、牢番たちが話している声が聞こえたのだ。
それで、彼らは自分たちがなぜ虜として冷遇されているかを悟った。捕えられたきり、詰問や拷問に晒されることもなく放っておかれた理由も分かった。彼らはいまや、次期国王の暗殺を企んだバルドラきっての大罪人なのだった。
申し開きの機会は与えられそうもなかったし、ふたりとしてもジェラルドを守れなかった以上、死を免れようとは思っていなかった。もはや世間に望むことはただひとつ、処刑の日が何日後なのかを正確に知りたいとふたりは思っていたが、今が朝なのか夜なのかすら分からない場所で正確に日時を数えることは至難の技で、結局は当日になって初めて処刑日を知らされるのと大して変わりはなかった。春迎えの祭りは、そんなに遠い未来の出来事ではなかったはずだ――いつ下るか分からない残酷な審判を、ふたりはひたすら待っているしかなかった。
食事が運ばれてきたと思ったら、牢から出るようにと促される――どちらが先だろうか、ふたり一緒ということもありうる――せめて第二王子の側近として、見苦しくない最期を迎えたい――。
そのとき唐突に牢の扉の掛け金が外される音がして、ふたりの夢想は完全に断ち切られた。日に三度の食事のうちのいずれか……では、ありえなかった。ほんの少し前に〈特別待遇〉を受けたばかりだったからだ。
リヒャルトはユージーンを見た。ユージーンも、リヒャルトを見ていた。お互いの胸が意外なほど静まっていることが、まなざしで知れた。いざそのときを迎えてしまえば、待っているときほど思い悩むことはないのかもしれなかった……。
「――いや、いい。わたしがじかに話をつける。誰も通すな」
入ってきたのは、牢番ではなかった。我が目を疑うふたりの前にただひとりやって来たのは、彼らの主人の兄――ヴェルフリートだった。
*
ようやく再会したふたりが信じられないようなものを見る目で自分を見、慌てて礼を取るのを見て、ジェラルドは喉元まで出かかった彼らの名前と、無事を喜ぶ言葉を危うく引っ込めた。リヒャルトたちには今目の前に立っている男がヴェルフリートに見えているはずなのだ――牢番にそう見えたように。
ジェラルドは〈万人の指輪〉を外した。何度試しても〈元の姿〉に見せることはできなかったから、どちらにせよふたりを驚かせることに変わりはないのだが。
「……君は? 」
目を丸くして言葉もなく呆然とするユージーンをよそに、リヒャルトが尋ねてきた。ジェラルドは言った。
「おれは、ジェラルド……殿下の、使い、です」
こんな場所で一から十まで説明している暇などない。作り話より事実の方がややこしいなんてともどかしく思いながら、ジェラルドはぎくしゃくと名乗った。
囚人生活で弱っているであろう側近たちにどこまで気力が残されているかをジェラルドはひそかに案じていたのだが、ふたりの反応は早かった。なぜヴェルフリートだったはずの男がジェラルドの使いに変わったのか、何が起きたのかまったく理解できないという顔で凍りついていたユージーンでさえ、ジェラルドの名に食いついたのだ。
「ジェラルド? ジェラルドは生きてるの! 」
「――よかった! 」
リヒャルトが床に崩れ落ちた。ユージーンが泣き笑いで相棒の肩を支えた。
「いい報せを聞いたときの方が力抜けちゃうよね……」
「それで、ジェラルドは今どこに? 君とはどこで? 」
一度安堵してしまえば、リヒャルトは切り替えも早く聞いた。ジェラルドは、とにかくこの牢を出た方がいいと判断した。処刑の予定時刻まではまだ間があったが、当日の予定がいきなり変わらないとも限らない。
「歩きながら説明しよう。ここはあまり居心地がよくない」
ふたりは戸惑ったようだったが、先に立って歩くジェラルドに従った。事情はどうあれ、牢に残ったところで他に救い主など現れはしないのだ。
三人が牢から出ると、外で待っていた牢番がリヒャルトたちに手枷をはめ、手づから引き立てていこうとした。
「待て」
ジェラルドはすかさずヴェルフリートになりすました。
「構わん。わたしが連れていく。おまえは持ち場を守れ」
「しかし、お言葉ですが……」
牢番はさも嫌そうに側近たちを見た。
「このふたりは、弟君を襲った凶悪な妖精なのでございましょう? 今またヴェルフリートさまにまで危害を加えるようなことがあれば、わたしにはお詫びのしようもございませんで……」
側近たちがこれを聞いて目を丸くした。ジェラルドは吹き出しそうになったが、咳払いでごまかした。ヴェルフリートの姿で吹き出したりしたら、いくら魔法の指輪といえどもさすがに効力がもたないかもしれない。
「だからこそだ。だからこそ、わたしみずから引き立てていって、このものたちの愚策が崩れ去るところを見届けなくてはならん。……外に、わたしの手の内のものを控えさせている。心配ない」
牢番はまだ何か言いたそうだったが、引き下がった。ジェラルドは中庭に出ている屋台から仮面を調達してきて、側近たちに渡した。羽根やら金粉やらでゴテゴテ飾りつけられた派手な仮面はいかにも人目を引きそうだったが、会う人会う人似たような仮面をつけて浮かれている祝祭の渦中にあっては、かえってたやすく人ごみに紛れることができた。春祭りの本祭ともなると、勝手知ったる城内であろうと人目を忍んで歩くなどということは不可能に近かった。
ジェラルドは城を歩きながら、何気ない様子を装ってふたりに事情を説明した。
「ヴェルフリート殿下が妖精界へ攻め入ろうとしていると聞き、ジェラルド殿下はあとを追おうとなさっている。兄上を止めなければ、とな。一方で、ふたりが濡れ衣を着せられていることを心配なさっていた。それで、おれが遣わされた」
「妖精界へ攻め入る? 」
リヒャルトとユージーンの声がぴったり重なった。ユージーンはいよいよわけが分からなくなったらしい。
「どうやって? ていうか……なんで? 」
「ヴェルフリート殿下はジェラルド殿下が妖精に連れ去られたと疑っておられるらしい。その手引きを、側近である君たちがしたのではないかと考えているものもいるようだしな」
「へえ? おれたちが? 」
今のふたりの顔を見たら、そんな疑いをかけるのさえバカバカしいと噂を流したやつも思っただろうに、とジェラルドは思った。ふたりは揃って狐につままれたような顔をしていたが、やがてリヒャルトが先に立ち直った。
「へえ……ヴェルフリート殿下が襲撃者を妖精と想定なさったのはちょっと意外だけど。でもまあ、ジェラルド絡みなら必死にもなられるか」
「ヴェルフリート殿下って、いっつもジェラルドのこと心配してたもんね」
ユージーンが何気なく相槌を打った。ジェラルドが思わず彼の顔を見ると、ユージーンは仮面越しにいつもの人懐っこい笑顔を見せた。
「なんだよ! そんなに驚いた顔しなくたっていいだろ」
「いや……ジェラルド殿下は、兄上とはあまり兄弟らしく過ごしたことがなかったとおっしゃっていたから」
「確かに必要以上に厳しい感じはしたけどね」
リヒャルトは頷いたが、ユージーンと違う意見を持っているわけではなかった。
「僕ら、よく聞かれたんだよ。ジェラルドは僕らと一緒にいるときどんな様子なのかって」
「ご自分で確かめられてはいかがですか? って言ったら、すげえ睨まれたよおれ」
「それができないから僕らに聞かれたんだろうに。……あの方は、兄弟である前に自分たちのことを〈王〉と〈従者〉だと想定している感じだったな。なんというか、ジェラルドが立派な君主になれるように心血を注いでいる感じだった。だけどちょっとやりすぎて、〈弟〉としてどうやって接したらいいか分からなくなっておられたんじゃないかな――たまに執務を肩代わりしたりして、ジェラルドを労ろうとしていらしたんだろうけど」
執務を肩代わり? ジェラルドは衝撃の思いで記憶を遡った。それでは、ヴェルフリートが時折ジェラルドの所轄地へ訪れていたのは……。
「……ジェラルド殿下は、ご自分が兄上に及ばないと悩んでおられたようだが……ヴェルフリート殿下がジェラルド殿下の執務を代行することはあっても、ご自分は兄上の代わりはできないからと」
「本当にジェラルドを未熟だと思っていたら、ヴェルフリート殿下なら仕事を取り上げたりしないだろうね」
とリヒャルトは断言した。
「ジェラルドを一人前にしようとしておられたんだから、ジェラルドにできないことなら率先してやらせて鍛えたはずだ。相手に仕事を回さないのは期待していないか、その相手が忙しいのを気遣いたいと思っているかだから。ヴェルフリート殿下がジェラルドに期待していないわけないし……でも、期待しすぎていたという側面はあるかもしれない。早いうちから成長を焦りすぎて、うまく甘やかせなかったんだと思う」
次々と暴露される知らない兄の顔に、ジェラルドは戸惑った。ジェラルドを心配していたのなら、なぜ顔も合わせてくれなかったのだろう? だが、側近たちは口を揃えた。
「ジェラルドはヴェルフリート殿下に嫌われてると思ってたみたいだけど、絶対そんなことないよね」
「僕もそう思う。逆に、ヴェルフリート殿下の方もジェラルドに敬遠されていると思っておられたかもしれないな。厳しくしている自覚を持っておられたんだろうね。でも決して、ジェラルドを嫌っていらしたわけじゃない。だから、ジェラルドが連れ去られたとなれば妖精界だろうと天界だろうと冥界だろうと乗り込んでいかれるっていうのは想像できるけれど……大前提として、ジェラルドは本当に妖精に連れて行かれたの? 」
「いや、ヴェルフリート殿下がそう考えておられるとしたら、それは誤解なんだ。ジェラルド殿下は〈黒覆面〉に襲われはしたが、君たちのおかげで城の外へ逃げ延びられたから」
なんせ、おれは今ここでおまえたちと話してるしな。ジェラルドは胸のうちで呟いた。
「だが、ヴェルフリート殿下は妖精の娘を連れている可能性がある。彼女がいれば、妖精側から働きかけがあるかもしれないからな……すでに実行の段階に移されているということだ。交渉・対話で済めばいいが、今の段階でそれは難しいだろうとジェラルド殿下は考えておられる。そして、罪もない人々の間で無用の血が流されることを案じておられる。ふたつに分かたれているとはいえ、どちらもバルドラの民であることに変わりはないからな」
「妖精の娘って、もしかしてあの子かな? 他にそれっぽい子がいるんだったら話は別だけど」
ユージーンが言った。
「ほら、おれたちがサウィンに襲われたときの――すげえ綺麗な目の」
「剣でサウィンをぐるぐる巻きにした子ね。あのあと、クーナさんに引き取られたんだ」
リヒャルトが相槌を打ち、呆れたようにユージーンを見た。
「おまえ、よく覚えてるなあ。あのあとひとりだけ別行動だったくせに」
「忘れようがないでしょ! あれ以来、魔法ってあるんだなあって思うようになったんだもん、おれ。それにさ、〈宵空の乙女〉ってあの子でしょ? 占いがめちゃくちゃ当たるって――それこそ魔法みたいに」
「そうだ。彼女はエレニアと呼ばれているんだが……昨日城のものに呼ばれたきり戻っていないんだ。それで、もしかしたらということになった。春迎えの祭りはバルドラの土地の魔力が強まる期間だから、二世界の境界が揺らぎやすいんだ」
「その言い方だと、君とエレニアとクーナさんが普段近くで生活していて、そこにジェラルドが逃げてきた……という感じ? 」
リヒャルトがずばりと指摘した。ジェラルドは言い淀んだが、リヒャルトを口先だけでごまかすことがいかに難しいかは誰よりも心得ていた。
「………まあ、そう思ってもらって構わない」
「じゃあ、やっぱり君も魔法が使えるの? 」
今度はユージーンがそわそわと尋ねてきた。
「さっき君のことがヴェルフリート殿下に見えたのも、魔法でしょ? 本人にしか見えなかったもん」
「……まあ、そうだな」
リヒャルトが感心したように言った。
「君みたいな人に会えたから、ジェラルドも助かったのかもね。それとも、ジェラルドが最初から君と知り合いだったりしたのかな? 」
「殿下がおれと? どうして? 」
リヒャルトとユージーンは顔を見合わせた。ジェラルドは、ふたりがそんな仕草をするのを見たことがあった。ジェラルドが歌を歌っていると、突然ふたりが沈黙する――そんなとき、側近たちは必ず今のような表情で顔を見合わせるのだ。
「ジェラルドってさ、突然おれたちの知らない言葉で話し出すことがあるんだ。歌ってる途中で、いきなり歌詞がおかしくなったりとか」
とユージーンが言った。リヒャルトも頷いている。ジェラルドだけが話についていけていないらしかった。彼は思わず立ち止まった。
「知らない言葉というのは……その、今話しているような言葉とは違う……? 」
「そう。あれは恐らく、バルドラの古語だ。それも、もっとも古い形の」
とリヒャルト。今度はユージーンが訝しげにリヒャルトを見た。
「古語? そうだったの? それじゃあ、あんたジェラルドが何言ってるか分かってたの? 」
「今のバルドラ語とは発音なんかも違っているだろうし、やっぱり聞き取れないところがほとんどではあった。でも、単語なんかはなんとなく。古典は宮仕えなら必須の教養だから」
リヒャルトはふたたび歩き出しながら横目でユージーンを見た。
「おまえだって、王子つきになるときにひととおり習ったはずだろう。まったく分からないとは言わせないぞ」
「そんなこと言ったって、まさかジェラルドがいきなり古語なんか話し出すとは思わないだろ! それとも、ジェラルドって昔からそうだったの? リフィーはちっちゃいときからずっとあの人と一緒だろ? 」
「昔はそれほどでもなかった。だんだん増えていったんだよ。本人は自覚がないみたいだったし、僕も一体何が起きているのか見当もつかなかった。だけど、僕らがエレニアと出会ったあのとき――僕らにはエレニアの言っていることが分からなかったけど、ジェラルドはエレニアと話していただろう。それで分かったんだ……ジェラルドがたまに話す古語は、妖精の言葉なんだって。ジェラルド自身は自分がただの人間だと思ってるかもしれないけれど、彼は生まれながらに妖精や魔法と深く関わっているんだ。……だから思ったんだよ。僕らが知らないだけで、妖精の知り合いのひとりやふたりいたんじゃないかってね」
三人はそのまま城の中を移動した。警護の立ち番を何人もやり過ごしたが、誰からも見咎められることはなかった。
「あのさ」
ユージーンが立ち番を横目に小さく手を挙げた。
「ずっと考えてるんだけど……ジェラルドが襲われたとき、どうして応援が来なかったんだろう。あのときだって立ち番はいたはずだよね……おかしなやつらが城に入ってきたら、それだけでも騒ぎになりそうなもんだけど。今みたいに、たくさん人がいたってわけでもないしさ」
「そうだな。普通だったら、外から侵入した人間が立ち番を突破して王子の部屋の前に来るなんて不可能だ」
とリヒャルト。
「でも、やつらは最初から〈普通〉じゃなかった。よく思い出してみろ――あいつらは、廊下から来たんじゃなかったろう? 」
「そのとき、君たちはどこにいたんだ? 」
ジェラルドは聞いてみた。ユージーンが頬をかいた。
「おれたち、あの日ジェラルドを怒らせちゃって……ジェラルドが部屋から出てくるまで、廊下で待ってたんだよ。時間を置いてふたりで謝ろうって」
「そう……ジェラルドは時間を置けば自分で自分の気持ちをきちんと整理してくれるから、ひとまず落ち着くまで待っていようということになったんだ。僕らも悪いことしたな、と思ったしね……ついてくるなとは言われたけど、あの程度で僕らが近くを離れると思ったら大間違いだよ」
飄々と言いながらも、リヒャルトはほっそりした顎に手をやった。
「ところが、だ。ジェラルドが部屋から出てくる前に、あの覆面のやつらが現れた――廊下を走ってきたわけじゃない。廊下の途中にある部屋の中から出てきたんだ」
「部屋の中から? 」
「そう。あれは、ジェラルドと僕がいろんな先生たちから講義を受けていた部屋だ。今でこそ普段は使われていないけど、昔は一日中入り浸りだった……だからいざというとき王子が部屋から逃げられるように、城の外に続く通路があるんだよ。もちろん、それを知っている人はかなり限られているけどね」
そういえばそうだ、とジェラルドは思った。もう十数年立ち入っていないせいですっかり忘れていたが、あの部屋の書棚のひとつは扉のように開くことができ、その内側に狭い通路が作られているのだ――城内で何が起きようと、巧みに避難者を逃すことができる通路が。
リヒャルトは腕を組んだ。極彩色の仮面に覆われた愉快な目元は、常と変わらず冷静だった。
「つまり、覆面たちはあの部屋の秘密を知っていた人物……もしくは、その人物から通路のことを聞いた外部の何者か、という可能性が高い。卑しくも第二王子の側近を任されている僕らを追い込むくらいだから、城の中の誰かというよりは、誰かから依頼されたその筋の襲撃者という可能性が高いね」
「………城の中に手引きしたやつがいるってこと? 」
ユージーンは怒りのためか恐怖のためか、呻くような声を立てた。
「信じられない……そんな、この城にいてジェラルドを本気で狙うなんて……」
「この城はジェラルドにとって決して安全な場所ではなかった。彼が生まれたときからずっと。僕らが想像していた以上に……しかも、それはジェラルドがどんなに優れた資質を示しても変わらないものだった。むしろ、ジェラルドの敵になるような連中からすれば、ジェラルドが優れていればいるほど目障りだったと思う」
リヒャルトはひっそりと言った。
「僕らには計り知れないことだ。普通の第二王子だったら背負わなくてもいい苦労を、ジェラルドは生まれながらに背負わされていたんだ。――誰を信じたらいいのかも、分からなかったんじゃないかな」
「ジェラルド殿下は」
ジェラルドは口を挟みたかった。敵味方が入り混じる混乱した王宮にあって、気の置けない側近たちの存在がどんなにありがたかったか。どんなに救われてきたか。だが、いざそう告げようと口を開いてみると、うまく言葉が出てこなかった。〈使い〉のふりをしている今は、なおさら。
「ふたりを、とても信頼しておられる……だから、助けたかった。どうしても」
ジェラルドがなんとかそう言葉をつなげると、リヒャルトとユージーンが両側から彼をじっと見つめている気配があった。
やがて、リヒャルトがほほえんだ。
「それが聞けただけでも、あんな目に遭わされた甲斐があったというものだね」
「一度で十分だけどね」
とユージーンも笑った。
*
ジェラルドとしては連れ出した側近たちをクーナにかくまってもらい、彼女の小屋でふたりを労わってもらう心づもりだった。そのためにクーナには小屋に留まってもらったのだし、第一ジェラルドはこれからヴェルフリートを止めに行かねばならないのだ。万全の状態ならまだしも、地下牢に監禁されて体が弱っているであろう彼らを巻き込むのはどう考えても得策ではなかった。
ところが、城を出る前に先々の予定を聞かされた側近たちは頑として首を縦に振らなかった。
「おれたちに大人しく待ってろって言うの! 」
とユージーンが叫んだ。中庭を巡る回廊でのことだったので近くにいた人々が胡乱げにこちらを見たが、気づかれることはなかった。
「今までさんざん、あんな暗いところで待ってたのに? 冗談じゃないよ! 」
「確かに、正しいのは君の予定かもしれない。僕らはとても万全な状態とは言えないし、妖精に詳しいわけでもない。ついていったところで力になれるかは怪しいものだ」
リヒャルトは認めたが、ジェラルドは身構えた。先に相手の言い分を認める――これは、そのあとの交渉を有利に進めるためにリヒャルトがよく使う手だったからだ。彼はにっこり笑って言った。
「でも、それはジェラルドだって同じだ。状況は僕らより把握できているみたいだけど、彼だって別に妖精界に渡りをつけられるわけじゃないだろう? ヴェルフリート殿下を止めたいっていう気概と勇気はさすがだけど、出たとこ勝負をしなくてはならないんだったら仲間は多い方がいいんじゃない? それに、ヴェルフリート殿下が今どこにいるかの見当はついているの? これから探さなくてはならないんだとしたら、もちろん、人手は多い方がいいよね? こう言っては何だけど、ヴェルフリート殿下のことなら多分ジェラルドより僕らの方が分かっているよ。さっき君が言ったように、ヴェルフリート殿下はジェラルドとあまり関わり合いになってはこられなかったから」
「場所ならある程度見当はついている。いいから、おまえたちは大人しく体を休めて回復に努めろ。………と、ジェラルド殿下ならおっしゃると思う」
ジェラルドはなんとか風向きを変えようとしたが、経験上リヒャルトと議論を戦わせても勝てないことは分かっていた。リヒャルトは常日頃穏やかな物腰を崩さないが、一度こうと決めたら絶対に引き下がらないのだ。
リヒャルトはため息をついた。
「ここでクーナさんにかくまってもらったとして、ジェラルドが無事に戻ってこられなかったら、僕らはどうしたらいいんだろう? 離れ離れになった主人と再会もできないまま、今度こそ生きる望みが失われてしまうよ――ジェラルドが戻ってきてくれないと、僕らは大罪人の汚名を着せられたまま申し開きもできないんだから。どうせ死ぬ結末なら、最後にひと目だけでも会わせてくれないかな? 」
「………だが、君たちは長いこと牢に入れられていたんだろう。何が起こるか分からない状況に巻き込むわけにはいかない。きちんと休息を取るべきだ」
「逆だよ逆! ずっと閉じ込められててなまっちゃってるの! 」
ユージーンが腕を振り上げて天を仰いだときだ。西日の差し込む城の中庭を、大きな影が横切っていった。ユージーンは怪訝そうにふたりを振り返った。
「……今さ、なんか……竜みたいなの通らなかった? 」
「ユー、バルドラに竜は――」
まじめに答えようとしたリヒャルトの襟を、ジェラルドは辛うじて引っ張った。リヒャルトをかすめて銀色の塊が回廊を突っ切り、そのままの勢いで柱に激突した。
それは小さな竜だった。柱のかけらを振り落としながら起き上がった竜は、困惑して立ち尽くす人々に牙を剥いて威嚇した。
リヒャルトは呆然と言った。
「バルドラに竜は――いたね」
「ミラ! 」
逃げ惑う人々を縫って、奇妙な風体の男がやってきた。古代風の涼しげな身なりで黒髪をなびかせ、人混みを颯爽と抜けてくる様子は一陣の風のようだ。赤銅色の顔の中に光る目は鋭く、火花を封じ入れたようにきらめいていた。
男は竜の名を呼びながら困惑した様子でやってきたが、ジェラルドに気がつくとはっと瞠目し、まっすぐ彼に向かって歩を進めてきた。側近たちはあまりに想定外の事態に戸惑ったように、しかし男の視線を遮るようにジェラルドの前に立った。
「我が君」
三人に近づいてくると、彼は流れるような動作で膝を折った。
「このような形でお目にかかれようとは。わたしはグラード。このときを待ちわびておりました」
「……おれが誰だか分かるのか? 」
ジェラルドはその場にしゃがみ、姿勢を崩さないグラードと目の高さを合わせた。リヒャルトたちの反応からして、自分はまた〈古語〉を話しているのだろうと思いながら。
グラードはジェラルドが自分に合わせて膝をついたのでぎょっとし、かなり迷ったようだったが、ややあっておもむろに立ち上がった。そして、ジェラルドが姿勢を直すのを待ってから言った。彼の瞳は喜びに輝いていた。
「祝福の予言を受けられた方よ。我らの王たる方――我らはずっと、こちらからあなたを見ていたのです。お姿が変わったくらいで見誤ることはない」
「君は妖精か? 」
「いかにも。突然二世界の境界が崩れ去ったので驚きましたが……」
グラードがそういう間にも、バルドラ城の回廊は様変わりしつつあった。もとあった風景に重なるようにして妖精界の景色が現れ、石造りの廊下には背の高い草が青々と茂った。グラードの他にも妖精らしき人々がそこかしこに現われ、ジェラルドたちに気がついてみなこちらへ近寄ってきた。
誰かが竜のミラを連れてそばへ来た。ミラは美しい赤い目でジェラルドたちを見つめた――見れば見るほど、それは間違いなく伝承に語られている〈竜〉だった。
「ここは、我々のバルドラでは広い草原なのです」
とグラードは言った。ジェラルドは妖精たちの言うことをかいつまんで側近たちに通訳することにした。
「このミラはまだ幼い子で、みなで訓練していたところだったのですが。危うくあなたの友に怪我をさせるところだった。申し訳ない」
「さっき、もっと大きな影を見たんだけど……」
「そりゃエルピスだ。白い竜なんだ」
ユージーンの言葉に、妖精のひとりが笑って城の屋根を指した。日差しに暖められたバルドラ城の屋根に、真っ白な鱗の巨大な竜が悠々と寝そべっていた。鱗が虹色にきらきら輝いているのまで見える。紛れもなく現実の生物が持つ存在感だった。
「妖精界がこちらに現われたということか? 」
ジェラルドは足元に現われた草を観察しながら妖精たちに聞いた。廊下の石を突き抜けて草が生え出している様子は不思議だった。グラードは厳しい眉をわずかに下げた。
「ご存知かと思うが、現在の妖精界は実体がない。我らの祖先が戦に敗れてバルドラの地を去ったあと、バルドラに重なるようにして魔法によって築かれた、とても脆い世界なのです。――それが、先ほど突然……不完全に〈混ざって〉しまった。バルドラ側の誰かが妖精界に働きかけたことで、境界が揺らいでしまったのでしょう。今日は特に、バルドラの地の魔力が高まる日なれば」
「恐らく、おれの兄だ。兄はその……少し誤解をしているんだ。おれが妖精に連れ去られて失踪したと……妖精の娘を連れて行って、妖精界を開こうとしたのだと思う」
「では、あなたを取り戻さんがために」
「ああ……なんとか、犠牲を出さずに止めたいんだが……」
妖精たちは顔を見合わせ、何かを探るように周囲を窺った。やがて、グラードは回廊の向こうを指さした。
「〈混ざり〉の起点は、さほど遠くありません。状態はよくない――互いの怒りと恐れとが魔力の中に混ざり込んで火花を散らしている。ご心配のとおり、穏やかな対話とはほど遠い。我々が〈誓いの巌〉と呼んでいる場所です」
「ふたつのバルドラが唯一共有している場所があると聞いたんだが、そこで間違いないか? おれたちは、〈誓いの間〉と呼んでいるんだが」
「御意」
「〈誓いの間〉? 」
概要を聞いたリヒャルトが言った。〈誓いの間〉は普段立ち入りが制限された特別な場所で、何をするための場所なのかを正確に知っているものはいないとすら言われる謎の空間でもあった。おれ入ったことないとユージーンが呟くと、リヒャルトもそれに頷いた。ジェラルドは古い記憶を必死で探った。彼は一度だけ〈誓いの間〉に入ったことがあった。
「広い部屋の奥に大きな岩がひとつ置いてあるだけの部屋だ。兄上と一緒に、呼ばれて入ったことがある……とジェラルド殿下は言っておられた」
「かつて〈誓いの巌〉があった場所には、予言者たちが暮らす〈星見の丘〉があったのです」
とグラードは言った。
「我らにとってはとても特別な場所です。かつてバルドラを導いた〈星見のアルトリウス〉もそこに暮らしていたと言います」
「そうか……分かった。ありがとう」
「我が君」
踵を返そうとしたジェラルドたちをグラードが呼び止めた。妖精たちはみな案じ顔で三人を見ていた。
「兄殿下が妖精にかけられた疑いはむろん事実ではないが、仮に妖精があなたに害をなすような恥知らずなことが起きたとしても、わたしは驚きません。妖精は一枚岩ではない。古代の災厄など信じず、祖先がバルドラの大地の上から追われたことばかりを憎しみ、〈妖精王〉を受け入れないと言うものもいるのです。――我々は、あなたを黙って危険にさらすわけにはいかない」
「だが、放っておけないだろう。勘違いで戦争になってしまうかもしれないんだ……〈妖精王〉は、バルドラを統合して災厄に立ち向かうと予言された王子だろう? おれのせいで余計に溝を深めるわけにはいかないよ」
「どうしてもとおっしゃるなら、申し訳ないが止め立てさせていただく。……兄殿下と同胞たちのことは、どうぞ我らにご下命を」
グラードが一歩距離を詰め、ミラが低い声でうなった。リヒャルトとユージーンはぎょっとジェラルドを見た。
「なに? なんか決裂した? 」
「いや、違う。彼らは、君たちやジェラルド殿下が心配なんだ」
ジェラルドは側近たちを下がらせ、グラードに確かめた。
「君たちは〈妖精王〉を受け入れる側の立場なんだな? 」
「かつて〈星見のアルトリウス〉はみずからの指揮によって災厄を退けてバルドラを守り、さらに未来に〈妖精王〉の出現を予言した。彼の言は常にバルドラの弥栄と我らの幸福のためにあった――であるならば、アルトリウスの最後の予言を我らが成就へ導くは必然。たとえ今はふたつに分かたれていようとも、〈妖精王〉の名のもとにバルドラがふたたびひとつに結ばれる日が来ることは……マレビトがふたたびバルドラの肥沃の地を踏むことは、我らの悲願なのです」
「グラード」
グラードは名を呼ばれてはっとジェラルドを注視した。ジェラルドはひとつ息を吐いた。バルドラの平和を願い、力を証明することもできないジェラルドを真摯に信じようとしてくれている彼らを失望させるわけにはいかなかった。
「君たちが信じる〈妖精王〉は、守られているばかりの王なのか? 〈星見のアルトリウス〉が予言したのは、そんな情けない王子だったのか? 」
妖精たちはこの問いにうつむき、互いに顔を見合わせた。やがてグラードが言った。
「……いいえ。しかし、あなたは〈魔力なきひと〉として生きてこられた時間が長すぎる。王国としてのバルドラのことはよく知っておいでだろうが、失礼ながら妖精界のことはそうとも言えますまい。未来に偉大な王となることが約されているからといって、無垢な少年を戦場に立たせたいと思うものがどこにおりましょうや」
ジェラルドは頷いた。
「そのとおりだ。君たちから見て、今のおれがいかに力なく見えるかということは分かっているつもりだ……君たちが何を話しているかくらいは分かるが、意図的に魔法を使うことはできない。〈妖精王〉など名ばかりで、まだ何もできはしないんだ…このふたりも人間相手ならこれ以上ないんだが、妖精相手では恐らくひとたまりもないだろうし」
「もしかして、僕らのこと悪く言ってない? 」
リヒャルトが横目でジェラルドを見た。ジェラルドは咳払いした。
「――だから、君たちがおれを頼りないと思うんだったら……一緒に来て力を貸してくれないか」
「………」
妖精たちは立ち尽くした。やがてひとりが口を開いた。
「……いいじゃないか、グラード。民のために立つとおっしゃるなら、おれたちが自分たちの力を惜しむ理由なんかないだろう。おれたちは、このときを心待ちにしていたじゃないか」
グラードは彼には返事をしなかったが、ややあって頷いた。
「分かりました。では、我らがお供を――〈誓いの巌〉までお連れいたします。……〈いかに非情な結末が見えていたとしても、未来は変わる〉。忘れるところでした」
「座右の銘か」
グラードはジェラルドたちを横並びに立たせながら笑った。
「アルトリウスの口癖だったと言われている言葉です」
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