4th. 大橋梁

 橋を渡るため待たなければならない、とサワタリは云った。

 王の道に突如現れた町は、町ではなかった。だが、「たもとの町」と呼称されている。橋のたもとである。橋、というが勿論小川に板を渡しただけのものではない。対岸が見えぬほどの大河にかかった橋梁は、長大さもさることながら、激流に耐えうる太い橋脚が設えられ、いかにも頑強だ。人の歩く床面は勿論、かれらが落ちぬよう厚い壁高欄さくが両側に聳え、また橋のたもとには塔が建っている。この塔は寨のようなかたちをしていて、管理者が詰めていた。兵士と冒険者と事務官がいて、橋の警護と、橋を渡る旅人の整理を担っているのだ。

 かかる大河があまりに深く激流で、時に渦をまくことさえあり、何かあった場合、橋梁の状態を確認することはもちろん、渡渉中の旅人を迅速に保護するため、兵士が配置されている。警護に冒険者も含んでいるのは、魔物が出るからだ。王の道は比較的魔物が出ないが、ゼロではない。ここは町ではないから、結界もない。ために、魔物に襲撃された時、それに対処できる冒険者が必要となる。

 事務官の仕事も大変だ。なにしろ、この橋は王の道の一部である。通行する旅人は引きも切らないが、橋は強度を優先しているため、人の通れる面は狭い。ゆえに、橋を渡りたい者は管理塔に申請をだす。事務官はそれを順番に捌く。馬車ごと渡りたいという申請は、更に手間がかかる。橋の幅は馬車が二台すれ違う余裕はないため、こちらから一台通す時、あちらからの馬車は停止してもらう。そうした交通整理をしなければ、あっという間に混乱するうえ──橋の上では逃げ場がない。兵士と冒険者と事務官、三系統が連携し、厳格に橋の管理をしているのだ。

 ゆえに、橋梁を渡るためには時間がかかる。管理塔に申請をだすと、通行許可証がもらえ、そこに橋を渡れる日付が書いてある。その日までの数日を、旅人は橋のたもとで過ごすことになる。勿論宿駅はある。だが、とてもそこに収容できる人数ではない。すると、宿駅から溢れ野宿せざるをえない旅人のために、宿屋ができる。多くの宿屋が建てば、食堂や商店も続く。そうして、管理塔を中心とした橋のたもとには、町と見紛うほどに大きな、人の集落ができたのだ。

「たもとの町、の『町』はべんぎじょうの町なんだな」

「正確には、こちら側はたもとの上町だな」

「上町? ええと、じゃあ、あちら側」

 モモは大河の向こう岸──陸地はけぶって見えないが──を指す。

「あっちには、下町があるのか?」

「そうだ。上下を云う時は、基準が帝都になる。帝都に近い方が上、遠い方が下だな」

 なるほど、と鹿爪らしく頷いた拍子に、川面が見えた。モモは何度めか、ぶるっと体を震わせる。それを感じたのだろう(モモは相変わらずサワタリの肩に腹ばいになっている)、ご主人が背中に手をあててくれる。

「心配するな。おまえが落ちたら俺が拾う」

「落ちたら死ぬって云ったの、ご主人だぞ」

 頬を膨らますと、サワタリがくっくと笑う。実際、落下したら、流れに飲まれひとたまりもないだろう。どうどうと、凄まじい水量が、凄まじいスピードで流れている。しかもこれが渦をまくというのだ。渡し船などとても出せないから、この川を渡るには、王の道の橋梁を進むしかない。……それにしても、この堂々たる橋梁は、いったいどうやって造ったんだろう。

「ぎもんはつきないな」

「おまえがまっさらな眼で見る世界は、いい」

「ほめられたのか、おれ」

「可愛いとも云う」

 ……ご主人は、真顔で、いっこの躊躇いもなくこういうことを云う。だから、それを気にする方がへんなのだろう。モモがぶんぶんと首を振っていると。

「俺は無知だから、おまえに教えてやれることは少ないがな」

「そんなことはない。ご主人は色んなことを知っている」

 買いかぶってくれるな、と笑って。

「見学はもういいか?」

 そうだった。管理塔は周囲も人でごった返していたので、川も橋も見えなかったから、見学できるところまで、サワタリが連れてきてくれたのだ。

「いっぱい見た。ありがとう、ご主人」

 サワタリはモモの返事に頷き、さらりと歩きだす。ふつうに歩いているのに、やっぱり速い。モモはサワタリの肩にとまっているとはいえ、体重は乗せていない。モモンガは空を飛べる。風を操る、と云えば格好良いが、魔力で体を浮かせ、サワタリの負担にならないようにしているのだ。ご主人はモモ一匹分の体重を乗せたくらいで、よろめくような軟弱な人間ではないのだけど。

「ご主人、あっち、あっちは何だ?」

 サワタリは無言で足を「あっち」に向けてくれる。たもとの上町は管理塔を中心に扇型に広がっているが、その扇のてっぺん──町の入り口の辺りに人だかりができている。

「露天商だな。商人は、足止めなど商売をする機会にする」

 確かに、王の道でたくさん見る商人たちだった。かれらは担いでいた、或いは馬やロバに積んでいた商品をおろし、シートの上に広げている。王の道で交易をする商人は、珍しい品々を扱う者も多い。モモは興味津々で屋台を眺めていたが──ふと、サワタリの足が止まる。

「武器商人か」

「へい、らっしゃい! おや、旦那、冒険者ですかい? よけりゃ見ていってくださいな」

 サワタリが膝を折ったところで、商人の眼にモモが映った。ひぇっと声をあげる商人に、サワタリが淡々と云う。

「これは俺の従魔だ。人を害することはない」

「じゅ、従魔! 旦那、テイマーでいらっしゃるんですかい? あっし、初めて見ましたわ」

 おっかなびっくり、引いた腰を戻している。商人から、サワタリはナイフを幾つか購入した。

「ジルのナイフじゃなくていいのか?」

 まいどあり!と張りあげられた声から、じゅうぶん遠ざかったところで。モモはサワタリに訊く。

「ジルのナイフは一級品だ。手入れをすればほぼ永久に使える。比べるほうが間違いなのだが……このナイフはだめだな、数度で使い物にならなくなる、なまくらだ」

「それでも買った」

「さすがに装備が心許ない。こんなものでもないよりはましだ」

 それほど逼迫しているのか。

「おれがちゃんとナイフに化けられたらいいのに」

「あれはこのナイフより……この世のどんなナイフよりなまくらだったな」

 かつてご主人は、モモの変げの能力を戦闘にいかすべく模索したことがあった。その時、命じられてナイフに化けた。結果は──惨憺たるものだった。モモにとっては恥ずかしい記憶だが、想い出を語るご主人の顔は楽しげで、それならいい、と──。

「……よくない。おれもジルのナイフに負けないくらい、すごいナイフに化けられるように、修行する」

「修行か」

 師がいればいいんだが、とサワタリがつぶやく。

「師?」

「変げのスキルを持つ者……大魔道士でも稀だと云うな。いや、そもそも俺がちゃんとしたテイマーであれば、『育て』とやらでおまえの能力を伸ばしてやれたのだろう」

「謝ったり、ほかのこと、云ったりしたら、怒るぞ」

「……、」

 ほんとうは、怒りなんかない。でも、泣くかもしれない。モモはもうとっくにずっと、ずっと一生、サワタリ以外の人間を、ご主人と呼ぶつもりはない。

 サワタリは何も云わなかった。川と橋を見たいと云ったモモのため足を伸ばしてくれたときのように。露天商を見たいと云ったモモをここに連れてきてくれたときのように。淡々とした足どりで宿へと向かった。

 鍛冶師ジルの元へ向かう旅は、急ぎの旅だ。同じ宿に長く滞在するのは、久しぶりだった。モモは宛がわれた部屋のなかでは、人に化けることにした。ご主人のお世話をするためだ。魔物のすがたの時は、人間の新生児くらいの大きさしかないうえに、手足は三つ指で、いかにも不器用だ。いや──人のすがたになっても、器用というわけではないのだが。それでも、魔物のすがたではできなかったことができる。

 ご主人のコートも、インナーも、服を全部洗濯して。それでもまだたっぷり時間があったから、ご主人の背負うザックから中身を取りだし、ザックもまるごと洗って手入れする。ご主人はたくさんの荷物を平気で背負う(それで、そのまま戦闘までこなしてしまう)から、ザックは大きいし、数もたくさんあったけれど、モモは数えながら全部洗った。それから、ご主人本体のお世話だ。無精髭の生えている顎を剃る。髪も伸びすぎているところをちょこちょこ切った。手と足の爪も漏れなく鑢で磨く。ぴかぴかになったご主人は男前で、達成感がある。──魔物と戦い血や粉塵にまみれ旅路をゆく、ストイックなご主人も男前なのだが。

「モモ、この袋も洗ったのか?」

「うん? ご主人の持っている収納は全部まるあらいしたぞ」

「……この袋には、薬草を入れていたんだが」

「入れるところを間違ったか? ごめんなさ──」

「逆だ」

「……?」

 ご主人はモモの前まで歩み、袋の口を開ける。中には、更に小さな袋に分けて入れられた薬草がぎっしりと入っている。

 サワタリはシーフで魔法を使えないが、回復のスキルを持つ者とパーティを組むことはしない。ために、回復は専らアイテム──薬草頼りとなる。ゆえに、薬草の所持は欠かせないのだ。

「俺がいいかげんに詰めこんでいた薬草を、用途ごとに仕分けしたんだろう、おまえが」

「あ──うん。ついでだし。いけなかっただろうか?」

「だから、逆だ」

 助かる、と云って。サワタリはモモの頭にぽんと手を置く。

「おまえは、薬草の見分けがつくんだな」

「ご主人と一緒に旅をするようになって、覚えた」

 サワタリに出会った時の記憶にも、薬草の匂いがついている。死にかけていたモモに、サワタリは口移しで薬草をあたえてくれたのだ。魔物のおれに、躊躇なく……。

 なんとなく、お腹の底がもぞもぞする。足を踏み換えながら、モモは云い募る。

「あっ、あとな、モモンガおれは鼻が効く。薬草はそれぞれ、独特の匂いがあるから、すぐに覚えるんだ」

「この袋の管理を、おまえに任せてもいいか」

 人のすがただと、表情がまるみえなのに。

「命令してくれ!」

「薬草はおまえが管理しろ、モモ」

「はい、ご主人」

 顔中で笑って、モモは思いきりうなずく。従魔はあるじに命令されると、体の芯から歓喜が滲みだし、全身をひたひたにする。それがなくたって、モモはサワタリに命じられるのが大好きだった。もっと命じられたかった。もっと、もっと、サワタリの役にたつものになりたかった。



 モモは、体に斜めがけしたポーチを、何度めか撫でた。

 これはなんと、ご主人がつくってくれたのだ。つくってくれたというか、改造したというか。ともかく、薬草の担当となったモモは、それを収納する袋を、自分で持てたらいいのにと憧れた。モモの表情からそれを見透かしてしまうのがご主人である。サワタリは買い物に行ってくると出てゆき、帰ってくると薬草袋を手に取った。薬草袋は、サワタリのザック──最も大きい、かれの持ち物の基幹となる収納だ──の横に付属するかたちで持ち運ばれていた。その留め具を外すと、紐を取り付ける。長さを調節し──それを、サワタリはモモの肩にかけた。紐は左肩から右の腰へと渡り──それによって、袋はモモの体にぴったりと固定された。ご主人お手製のポーチである。モモは大喜びした。何度も何度もサワタリにお礼を云い、胸をわたる紐を抱きしめた。

 気づいたのは、旅立ちの朝だった。いよいよ許可証に書かれた日付けが到来し。宿を引き払う段になり、いつものようモモは魔物のすがたに変げした。あ、と思ったのは。その時、意気揚々とポーチを装備していたことに気づいたからだ。サワタリを見ると、同じタイミングで、同じことに思い至ったのだろう、何か云いかけた──口は、結局閉じられた。

 音をたて、モモは魔物のすがたに戻っていた。慌てて胸に手をあてる。紐。ある。袋は。首をねじって、腰を見る。閉じられていたサワタリの口が、微かに笑んでいるのをモモは見ていない。

「変げとは、どういう原理なんだろうな」

「……おれにもわからないんだ」

「ちょうど、魔物のおまえのサイズに合わせて縮んでいる」

「うん」

 なんと、人間のモモのサイズだったポーチが縮み、魔物のモモの体にぴったりとフィットしているのだ。

「ご主人の、心をこめた手作りだからだろうか」

 サワタリは軽く笑ったが、モモは結構本気でそう云った。そう思った。従魔とは、そういうものなのだ。ご主人からもらう『魔力』を糧にしているから、人を食わずにいられる。そういうものなのだから、ご主人が手ずから作ってくれたアイテムならば、モモの変げに合わせて変化することもあるだろう。

 そんな次第で、モモはご機嫌だった。モモンガはひ弱である。旅の荷物を持つことなど今までなかったから、自分の担当する荷物というものがあり、装備していることが、嬉しい。

 紐を撫でていたら、いつの間にか管理塔に着いていて。待合室の長椅子に座っても、まだ手を離せない。橋梁の管理塔には大きな待合室があり、長椅子がずらりと並んでいる。あの窓のところに祭壇があったら、まるで神殿である──などということを思いつきもせず、モモはポーチに夢中だった。

「そんなに気に入ったのか」

「とっても、とってもだ!」

「間抜けだったな、と省みていたのだが」

 サワタリは苦笑し、モモの腰の──モモンガサイズに小さくなったポーチに触れる。

「人間のすがたのおまえに鞄を誂えたとて、無用の長物になるのは考えればすぐに判る。いそいそと道具屋に行き、慣れぬ裁縫をした自分が可笑しい」

「ご主人がおれのために作ってくれたから、このポーチも一緒に変げできるんだと思うぞ。朝も云ったけど。それで、それで、それはすごいことなんだ」

 後ろ足で立ち、モモは両手をサワタリの膝に置く。ご主人を見つめて、一生懸命話す。薬草の管理を命じられて、どれほど嬉しかったか。おれ用のポーチを作ってもらって、どれほど嬉しかったか。

「俺にとってもよかった」

 いっぱい話すモモの、息継ぎの時に。ぽつりとつぶやいたサワタリに、モモは首をかたむける。

「おまえのポーチを作るのに熱中し、気を紛らわせることができた」

「きをまぎらわせた?」

「この町には、女がいる」

「──」

 モモは──言葉がぼとりと落ちるのを感じた。床ではない、云うならば、腹の中にだろうか。

 『たもとの上町』は、正確には町ではないと聞いた。だけれど、人が集まって棲んでいるのだ。旅中のよう男ばかりだけでなく、女もいた。宿屋の、商店の母屋に。管理塔の奥にも、女が閉じこめられている。否、彼女たちはなにも、鍵のかかった牢に閉じこめられているわけではない。だが、外を出歩けば男に襲われる。レイプされれば、「女が外を歩いていたから悪い」と更に責められる。それでも、外に出る女性はいる。自由、と求めるものに名をつけるのならそうなるのだろう。それを求めた代償に、男に加害される女は、後を絶たない──こんな町と定義されぬ集落でも。

 黙ったモモに、微かにわらって。サワタリは瞑目する。

「女がいると、殺したくなる」

 モモはぐっと息をのむ。でも。でも、黙っているのはだめだ。

「女がいると、男に加害される。だからご主人は、男を殺すんだ」

 まるで女を殺したいみたいに云う。享楽のため殺人をしたがるように云う。サワタリがそんな風な言葉を使うと、胸が苦しい。サワタリがしていることは、ゆるされることじゃない。だけど、だけど……。

 その時だった。

 胸が苦しくて、ご主人に伝えたい気持ちを言葉にできなくて、でも話していたくて──モモの感覚は、ぎゅうっと狭まっていたから。咄嗟に、何が起こったのか判らなかった。

「な、に」

 気づくと、ご主人の腕に攫われていた。モッズコートのなかに入れられ、モモは反射的にサワタリの胸にしがみつく。サワタリが大きく跳躍したのが判る。手。モッズコートのなかに入ってきたのは一瞬で。サワタリはナイフを抜き、構えている。

「あなたが、プロスペルムのマーダラーですね」

 聞いたことのない声だ。低い、くぐもった男の声。

「……何者だ、と訊くのもな」

「主の御心みこころのままに──あなたを帝都へ連行いたします」

 金属音が弾ける。モッズコートの隙間からでも、火花が見えた。凄まじい剣戟。そう──相手は剣を帯びていた。幅広の十字剣。それに──男の背に閃くのは、黄色のマント。がきん、とサワタリのナイフが弾かれた。男の構える盾には、ワンズの紋章が輝いている。顔は、見えない。兜が、顔まで覆っているのだ。

「モモ、聞こえるか」

「き、聞こえる。だいじょうぶか、ご主人」

「命令だ。隙を見て離脱、橋を渡れ」

「でも、ご主人が!」

「命令だ、と云っている」

「──!」

 モモは無意識に、薬草ポーチの紐を握っていた。

「──橋を渡ってゆくと、中程に塔があるはずだ」

 はっとして、サワタリの声に耳を澄ませる。サワタリは戦闘をしながらも、モモに指示を与える。橋の途中にある塔に行け、そして──。

「できるか?」

「ご主人の命令ならば」

「やれ、モモ」

「はい、ご主人」

 モモはぎゅっと口を結ぶ。無心で、隙をうかがった。サワタリの猛撃に、男が盾を突きだし後退する。そのタイミングでサワタリのモッズコートのなかから飛びだした。

 血しぶきがあがる。サワタリの肩に十字剣が食いこんでいる。同時に、サワタリのナイフが男の膝を切り裂いている。それは一瞬の交錯で、再び両者は離れ、また組み合う。離れ、組み合い、その度血滴が舞う。突然始まった凄まじい戦闘に、待合室は悲鳴と怒号が飛び交っている。また、ご主人が斬られた。歯を食いしばり、モモは視線を外す。混乱する管理塔を抜け、橋梁へ辿りつく。管理塔で起こっている騒動が伝わってきているのか、橋を渡る人々は足を止め振りかえっている。そこに猛スピードで飛んでくるモモが──魔物がいたものだから、橋の上でも悲鳴があがった。モモは人でいっぱいの橋を逸れる。どうどうと激しく渦巻く川が真下に見えたが、恐怖など放りなげた。川面に乱された突風に巻き取られそうになるのを耐え、飛ぶ。怖くない。飛ぶんだ。橋の中程にある塔。飛んでも飛んでも見えない──もう一度、歯を食いしばる。赤い。屋根。見えた。尖った屋根を乗せた塔は、石造りの厳めしい、いかにもこの頑強な橋梁の一部だった。狭い入り口を抜け、モモは天井付近を飛ぶ。

(あった、これだ)

 四角く切り抜かれた箇所がある。その穴を通り抜け、モモは二階に上がる。小さな窓が並び、そこには大弩が設置されている。主に武器を保管する箱や樽が積まれ雑然としているが、目的の物はすぐに見つかった。

 縄梯子だ。

 モモはそれを咥え、ずるずると引っぱる。そして、四角く切り抜かれた穴に落とした。塔には二階へ上がる階段がない。だがこの縄梯子を使えば上がれるようになる。

 上町の管理塔の方から、騒乱が伝染している。橋を渡る人たちは、不安そうに顔を顰め、或いは足を止めている者もいる。モモが二階から垂らした縄梯子は、無視されているというより、気づかれてもいないようだった。モモはもう一度、川の方へ飛びだす。それからまた、全速力で飛行した。飛べるとはいえ、モモは遅い。モモンガは世界で二番目に弱い魔物なのだ。それでも懸命に飛んだ。ご主人から命じられたことは二つ。この橋の真ん中の塔の縄梯子を落とすこと。そして──。

(下町の管理塔にも、二階へ上るための縄梯子がある)

 つまり、二つの塔の縄梯子をおろし、二階へ上がれるようにすることだった。

 橋の中央にあった塔の縄梯子は、比較的簡単に見つけられたが──下町の管理塔は広い。ご主人の傍にいない今、魔物のすがたを見られると、最悪冒険者に殺される。モモは慎重に各部屋をまわり、天井を舐めるように見て、開口部を捜す。──ない。どこにもない。

 冷や汗が出てきた。ない。ない。ない。ここにも──。

(あっ、これか!)

 便所の隣りの、収納スペースだった。その天井に、四角く溝が入っている。把手を見つけ、モモはそれを咥えた。思いきり引っぱると、ぱたんと開く。急いで飛びあがる。二階は、やはり大弩がずらりと並び、物々しい武器が積みあげられ、雑然としている。モモはその中から縄梯子を捜す。見つけた。これを垂らして──。

「……!」

 残った力を振りしぼり垂らした縄梯子──その下に、人影があった。上を向き、くちびるに人差し指をあてている。モモはぱっと、小さな三つ指で口を押さえる。かれは──モモのご主人は、するすると縄梯子を上ってきた。それからすぐに床に身を伏せる。

「モモ、来い」

 小声で命じられ、モモはご主人の傍に降りる。ぴったりと抱き寄せられ、思わず息をつきそうになったが。

「こちらでございます。ややっ、縄梯子がおろされて!」

「……、」

「普段は二階に上れぬよう、入り口も閉じているのです。やはり賊が──」

「騒動を起こしたことを、謝ります。申し訳ありません。ですが、俺はマーダラーを捕らえにいかねばなりません」

「それは、その、おつとめですから、あの、二階の捜索はよろしいので?」

「これは、フェイクです。捜している間に、距離をとられてしまうでしょう」

「なんと!」

「ご容赦を。失礼いたします」

「あっ、騎士様、お待ちくださいっ!」

 ばたばたと走り去ってゆく音がする。喧噪は遠い。やっと、モモは息をはきだせた。

「よくやった、モモ」

 サワタリは片膝をつき、座っていた。モモはご主人の胸に飛びつく。

「ご主人、すごい」

「すごくない。勝てないと思ったから、奇手に出た」

 奇手──塔の縄梯子だ。

 上町、下町の管理塔に加え、橋の中央にある塔も、防衛のため二階が設けられている。だが、防御に特化し、また機能を優先させた造りであるから、階段は設置されていない。上から縄梯子をおろすしか、二階へ上る手段はないのだ。しかし、モモは飛べる。飛べるから、縄梯子をおろせる。サワタリに命じられ、橋の中央の塔と、ここ下町の管理塔の縄梯子をおろした。二つの塔の縄梯子をおろさせたサワタリの狙いは──。

「中央の塔から縄梯子が降りていれば、そこへ逃げたと思うだろう。落とし扉も閉じてやったしな。あの男は塔の二階まで念入りに捜した筈だ。その隙に、俺はここまで走れた」

「橋の塔で欺されたから、ここでも欺されると思って、あの人は捜さず行ってしまったんだな」

 やっぱり、ご主人は凄い。強いだけじゃなくて、頭もすごくいい。

 でも、とモモは胸の紐を握る。

「ご主人、すごい血だ」

 すぐにも手当てをしたかったが、サワタリは立ちあがった。

「モモ、人に化けろ」

「はい、ご主人」

 音をたて、人間のすがたに化ける。モモを連れ、サワタリは縄梯子を下りると、素早く管理塔を脱した。橋梁から管理塔まで伝染した混乱は、町にもにじみだしていた。不安そうに囁きあう人々に紛れ、フードを深く被ったサワタリは、「ふもとの下町」も抜けた。商家や民家の建ちならぶ区域を出ると、すぐに森が迫っている。サワタリは躊躇なく森に入る。

「灯台もと暗し、とは云え、さすがにたもとの町の宿を使うわけにはいかないからな」

「ここでなら、いいか?」

 モモはずっと、胸にかかるポーチの紐を握りしめていた。サワタリがふっと微笑む。

「いい」

 ゆるしがでた。途端に、モモはサワタリに飛びついた。かれの背負っている荷物をおろさせ、座らせる。ポーチのなかは、整理している。消毒の薬草をいちばんに取りだし、両手で素早く揉み、手のひらにすりこんで。検分したサワタリの傷は、深いものが三つ。肩と、右の太腿と、そのすぐ下──右の膝。いまだ血を流すその三カ所に、止血の薬草を塗った布を押しあて、圧迫する。ある程度直接傷口を圧迫し、それから森にいくらでも落ちている木切れを拾った。血の管の通るところに布を巻き、結び目に木切れを差しこんで、回転させて締めあげ固定する。それに圧迫の維持を任せ、その間に細かな傷口も消毒を施してゆく。薬草でえぐれた傷口をふさぎ、丁寧に布を巻く。胸の傷は、深くはないが場所が悪い。慎重に消毒をし、こちらは炎症を抑える薬草も足し、塗りこんだ。

 応急処置を終え、額を拭って。けれどすぐに、モモは次の作業に移る。火を熾していいかとご主人に訊き、首肯するのを確認してから、焚き火を用意した。ご主人のザックから鍋を取りだし、湯を沸かす。鍋は二つ用意した。

「こんなにボロボロのご主人、初めてだ」

「おまえを求めてあの鳥かごの都に辿りついた時よりは、ましだと思うが」

 モモは肩から強ばりが抜けるのを感じる。──ご主人は、優しい。

「カラミタス・ディアボリでは、孤軍で幾百の魔物を屠った。ひとりで寨に乗りこみ、一兵団を皆殺しにしたこともある。無数の魔物が群がってきても、兵士が束になってかかってきても、ご主人はぜんぶ斬りふせてしまうのに。──たった一人を相手にして、ご主人がこんなにけがをしてしまった」

「勝てないと思ったからな」

「ご主人が、勝てない相手なんていないと思っていた」

「あれは、そこらの屯所や寨の兵士とはまったく違う」

 鍋の水が沸騰している。モモは片方の鍋に、ポーチの薬草を選って、三種類を入れる。もう片方の鍋には針と糸を放りこむ。

「……黄色いマントと、ワンドの紋章。おれ、旅の途中で見たの、覚えている」

「修道騎士だ」

 王族の露払いに行進していた、煌びやかで清冽な騎士団。

「なぜ修道騎士が単騎でこんなところにいるのか──」

 モモは濃い緑に染まった湯を、ブリキのカップに注ぐ。それを受けとりながら、サワタリは口端をもちあげる。

「──などと疑問を持ちたいところだが」

「修道騎士は、単独行動をしないのか?」

「しない。あれらは、王族の侍従に特化している。各町の屯所や、地方の寨の兵士とは完全に別物で、賊の討伐や人民の保護、警察の役割などは一切しない。人民には関与せず、常に王族の傍にあり、王族の守護に専念している。ゆえに、他の兵団とは比べものにならない苛烈な修練を積んでいる」

「強いんだな」

「一騎当千とは云うが、まあ、修道騎士一人につき、寨一つ分くらいの兵力はあるんじゃないか」

 ゆっくりとカップの薬湯を飲みながら、サワタリが云う。

「なんでそんな凄い騎士様が、ご主人を襲ったんだ?」

「などと疑問を持ちたいところだが」

「持たないのか」

「プロスペルムのマーダラー、と奴は云った。マーダラーとは殺人者のことだ。プロスペルムでは、相当数の人間を殺したからな」

 確かに──残り少ないナイフを惜しげもなく使い、サワタリは散々に男を殺した。災厄の後の町では、男から女への性加害が横行していたのだ。

(プロスペルム──災厄の後)

 モモは顔を上げる。

「王族は、災厄で壊れた結界を張り直すために、プロスペルムに向かって──その露払いの騎士たちを、おれたちは街道で見た」

「そうだな」

「それなら、あの襲ってきた騎士は、その露払いの騎士か──王族の随行の騎士なんじゃないか? プロスペルムの町でご主人がしたことに怒って、それで、ご主人を追いかけてきた」

「奴が怒ったかは知らんが。まあ、プロスペルムでの俺の咎を罰するために現れたのは確かだろうな」

 モモは背伸びをし、サワタリの持つカップを覗きこむ。よし、全部飲んでいる。

 煮沸消毒した針に糸を通し、肩と太腿に巻いていた布を外す。ぱっくりと裂けた肩を、思い切って縫う。太腿と膝も縫った。止血の薬を足し。それから抗炎症作用のある薬と、組織の再生を促す薬。ポーチから過たず薬草を取りだし、縫いあわせた傷口に塗り、布を替え、丁寧に処置をしてから。モモはふと顔をあげる。

「どうした?」

「血の臭いがする……」

 今までは、ご主人の血の臭いで、感覚も感情もいっぱいで、気がつかなかった。

 この森には──血臭と、何かほかの生臭い──生理的に忌避したくなる臭いが漂っている。

「ご主人は、ここで休んでいてくれ。おれ、見てくる」

 なにか云いかけるご主人に、モモは笑顔を向ける。

「だいじょうぶだ、見てくるだけだから」

「……、信じよう」

 ご主人に信じてもらえるのは、うれしい。ふわっと溢れた幸福な気持ちを、心にしまって。気を引き締め、モモは立ちあがる。臭ってくる方向にむかって、足を踏みだした。

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