2nd. 僕は殺し、きみは寄り添う
災厄だ、と叫んだのは誰だったか。地下室へ逃げろ、と教えてくれたのは冒険者だった。おぞましい生首の魔物が跋扈する町を、私は走った。
私が逃げこんだのは、地下室とは名ばかりの、小さな穀物屋の貯蔵庫だった。私のすぐ後ろを走っていた人の悲鳴が聞こえた。彼女の背中には、生首がぶら下がっていた。足をよろめかせた彼女の顔に、もう一匹。腕に足に、腹に胸に、瞬く間に生首がたかり、彼女を食いちぎってゆく。早く、と急かす声とともに、腕を引っぱられた。地下室の扉が閉められる直前、私は見た。魔物の食べ残しがべちゃべちゃと積もった、変わり果てた私の町を。
それから数日間、陽をみることは叶わなかった。幸いにも貯蔵庫であったため、食べる物はあったが、息が詰まるほどに狭い空間に閉じこもり、魔物に食われる人々の悲鳴を聞きながら耐える時間は、拷問に等しかった。
であるから、惨禍は去ったと伝えられた時、快哉が叫ばれた。災厄の終わりを教えてくれたのも、冒険者だった。血まみれの鎧を着た戦士は、だが予断を許さない状況であるから、まだ暫く避難しているようにと口早に告げ、去って行った──次の避難所へと必要事項を告げにまわっているのだろう。
ため息が漏れた。助かったのだ。神さま、と両手を組む。そうして祈りの言葉を献げようと、口をひらいたのに──。
「キャ──、っむ、ぐ」
飛びだしたのは、悲鳴だった。だが、それも口を塞がれたせいで続かない。私は眼を動かす。背中が痛い。後頭部も痛い。私は床に突き倒され、のしかかられ、口を塞がれていたのだ。
男の手が、私の服の裾をめくる。両足をむりやり広げられ、怖気がこみあげた。私は手を振り回し、身を捩り、暴れた。麦の粉が薄く積もっていた床に、もうもうと白い煙りが巻き上がる。
「!」
ばん、と頬を撲たれた。右頬。左頬。もう一度、右頬。私の頭はその度に、床に叩きつけられる。痛みに──暴力に呆然とする私に、覆い被さった男は歯茎を剥きだしにして笑った。
「そうだ、おとなしくしていろ。女にできることなんて、男を慰めることくらいだろうが!」
剥きだしになっていたのは、男の下半身もだった。勃起した陰茎を、男は私の股に突き入れる。
私は男の顔を見る。同じ地下室で過ごしていたとはいえ、見も知らぬ男だ。この数日で情がわくなどというものも皆無だ。私をレイプし、涎を垂らしている顔に、殺意こそ
「おい、よがれよ。いいんだろう? ははっ、慰めてやってんのは俺の方だなあ!」
私は男を睨みつける。拳を握った。だけど──。
「い、……た。痛い」
私の口からは、情けない声しか出てこない。私が抵抗するたび、男は力一杯私の顔を殴った。更に──。
「女なんか簡単に殺せるんだ。今なら死体を外に捨てるだけでいい。町は死体だらけで、おまえも災厄で死んだと思われるだけだろうさ!」
「……っ」
震えた。眼が映したのは、この地下室の扉を閉める寸前の風景。私のすぐ後ろを走っていた女性は、魔物に食べられてしまった。体のあちこちを食われた、惨たらしい死体の中に放り出される恐怖で、私の体は凍りついた。
「ほら、ほら、イケよ。イイんだろう? はは、濡れてんぞ! 女は快感にすぐ陥落するもんな! ああ? イケよ! 殺すぞ! 死体の中に放りだすぞ!」
私は唇を噛みしめ、体を震わせる。懸命に達するふりをする。男は得意げに、腰を振っている。恐怖と、憎悪で、頭が割れそうだった。
そうして、私は心と体を壊されている最中で。男は性欲と加害欲を満たすことに酔いしれている最中で。気づかなかったのだ──地下室の扉が、外から開けられたことに。
「……酷いことをされたな。とても、酷いことを」
私はぼんやりと瞬いた。私の股を広げていた、黒ずんだ男の手とは違う。細くて小さな手が、私のめくれた服をそっとなおしてくれている。
「水、飲めるか?」
「う、う」
「うん。じゃあ、ちょっとずつな」
口に、なにかが触れた。皮の感触。水袋が、慎重に傾けられる。私は、水を飲みこめなかった。嘔吐した私を、嫌がる風もなく。その子は──大きな黒い眼をした子どもが、いつの間に傍に来たのかは知らないが──貴重な水を惜しみなく使い、私の口をゆすがせ、根気強く水を飲ませてくれた。
「……ありがとう」
私は、思い切って身を起こす。目眩がしたが耐えた。水を飲んだせいか、吐気はおさまっている。そして、改めて看護してくれた子に向きなおろうとしたのだけど──。
「──っ!?」
息をのんだのは。起きあがった時に見たものが──麦粉の袋にもたせかけるように置かれていたそれが、人体の一部だったからだ。顔と胴体。つまり、両腕と両足が切断された──だるまになった男は、さっきまで私をレイプしていた男だった。
男の前に、無造作に屈む。その人は、つんつんと尖ったアッシュの髪を、ヘアバンドで押さえている。顔はこちらから見えなかったが、何をしているのかは判った。太い杭のようなものを、強姦魔の口に押しこんでいるのだ。じわじわ、じわじわと──いたぶっている。
「……あなたたちが、そいつを殺したの?」
「まだ死んでいないぞ」
「でも、死ぬでしょう」
両腕と両足を切られ、更に喉を貫かれ、生き延びられるとは思えない。
「……今、死んだ」
低い声がした。アッシュの髪の男だ。黒い眼の子が、私を見あげる。なんとも──どうしようもなく形容できない表情で、微笑んだ。
「うん。おれたちが殺したんだ」
行くぞ、と男が云った。はい、ご主人と答え、黒い眼の子が立ちあがる。かれらはあっという間に階段を上り、外へと出て行ってしまった。
有り難う、と云えなかったことを。私は後悔した。この後もずっと、思いだしては後悔した。
町を襲った災厄──具体的には空を覆うばかりに夥しい、生首の魔物の群れから逃れるため、避難所となったのは地下室のある家屋だった。木造の家屋は、魔物に囓られすぐにだめになった。地下室ならば、幾らか持ちこたえられる。それでも──地下にまでもぐりこんだ魔物によって、壊滅した避難所も多数に上るなか、私の逃げこんだ避難所は、辛くも守られた。
命がけで守ってくれた冒険者のおかげだった。命がけ──それは比喩でなく、私たちの避難所を守り死んだ冒険者の死は、十人を越える。そして、今も尚お、かれらは困憊した体を引き摺り、町を走り回ってくれている。
結界のことなど、詳しいことは判らない。だけど、生き残った人々を守るため、かれらが力を尽くしているのは判った。だから、避難所の女たちで、炊き出しをすることにした。地上に出るのは禁じられているから、地下にあるありあわせのもので、貧相な料理しかできなかったけれど。せめて温かい食事をして、一息ついてほしい。そう思い、私たちは──けがをしていたり、衰弱していたり、精神を病んだ女さえも立ちあがり、互いに励まし合い懸命に料理をした。
野菜の屑が浮いているだけの、ミルクスープ。貧しくとも心をこめて作った料理を、私たちは手に持ち、地上への階段に足をかけた。──その時だった。
「は? おまえらそれ、どこに持ってくんだよ?」
背中にぶつけられたのは──横柄な、男の声。
「さっさとこっちに持ってこいよ」
「でも、これは冒険者の人たちにさしあげるために──」
「ふざけるな! 女は男のために料理をするもんだろうが!」
「──」
怒鳴りつけられ、私は竦んだ。私の周りで、鍋や器を持った女たちも竦んでいる。
「おまえら、誰のおかげで生きていられると思っているんだ? 俺たち男のおかげだろうが!?」
何もしなかったじゃないか、と、喉元まで声がこみあげる。地下室に逃げこんだ男たちは、内側から扉を押さえることさえしなかった。そのくせ、震え怯える女たちを蹴りつけ、食事を用意しろと怒鳴った。
今もまた。男たちは階段の女たちに群がり、ミルクスープを全て持って行ってしまった。鍋にたかり、むしゃぶりつく様子は──人を食い散らかす魔物そのもので、醜い。
女たちは悄然と、竈の傍に座りこんだ。勿論、私たちの食べるものはない。ミルクスープは全て、災厄の最中ただ逃げ隠れしていた男たちの胃の中におさまり──そして、かれらを勢いづかせるという最悪の事態をも招いてしまったのだ。
「おい、そんなところに座ってねえで、こっちに来いよ」
女たちは、互いに抱きあうように、ひとかたまりになっていた。だが。
「来いっつってんだろ!」
「おまえはこっちだ」
「俺はこいつにするぜ」
男の手が無数に伸びてきて、女たちを攫ってゆく。悲鳴が地下室に充満する。幼女から老女まで、女は一人残らず男が引き摺ってゆき、服を剥がれた。私もまた、例外にはなりえない。二人の男に物のよう運ばれ、固い床にうつ伏せにされた。泣きながら、やめてと叫んだ。男が笑った。
「災厄で大変な時に、レイプぐらいで喚くなよ」
「命があったんだから、いいじゃねえか」
男の一人に尻を持ちあげられ、股に男性器を突き入れられた。男の一人に顔を持ちあげられ、口に男性器を押しこまれた。男が、私を犯しながらげっぷをする。ミルクの臭いがした。私たちが、冒険者を労うために作ったスープを飲み干し、それをエネルギーにし、こいつらはレイプをしている。
酷い、酷い、酷い。股を口をかわるがわる、何度も犯され、痛みと怒りと悔しさと──ありとあらゆる負の感情が膨張し、爆発した、ように感じた。いつか私は虚脱していた。眼の前が白い。黒いのかもしれない。何も見えない。何も聞こえない……。
私を苛んでいたものが止んだのが、いつか。それもよく判らなかった。ただ、良い匂いを嗅いだ。眼も耳もばかになっていた私は、縋るように鼻を蠢かしていた。
「い、い、にお、い」
清々しくて、爽やかな。薬草の匂いに似ていたが、それにしては甘い。
「気に入ったのなら、ここに置いておく。少ししかなくて、ごめんな」
聞こえてきた声に、私は瞬く。聴覚だけでない、視覚も戻ってきていた。紫色の小花が咲く、茎を一本。私の手に握らせてくれている……。
「だ、れ?」
ハーフアップにされた髪は、脂でのっぺりとしていた。他の避難民と変わらない、服は汚れ、肌からは饐えた臭いがする。だが──こんな子どもは、避難所で見たことがなかった。
「あんまり、喋らないほうがいい。眠れるなら、眠ろうか。つらいだろうか」
「つ、ら、い……」
「うん」
「わ、た、し、つら、い。おとこが、男が、私をっ……! 酷い、酷い、酷い、酷い」
記憶が、逆流する。私は強姦されている直中に巻き戻され、叫びをあげた。一頻り狂い叫んで、私は。鼻孔に触れる匂いに、瞬いた。
「……っ」
良い匂い。つかえていた胸が少しだけすっとする。ささくれていた神経がほんのりと包まれる。私は拳にした手を、顔にもってゆく。握らせてもらった花。花をくれた子は、私の狂態をおそれることもなく、ずっと傍に座ってくれていた。
「つらいな。ひどいな」
つらい。ひどい。繰りかえし叫んで、私は泣いた。その子はずっと、そんな私の傍にいてくれた──けれど。
「!」
うつむけていた顔を、ぱっとあげる。黒い大きな瞳が、誰かを一途に見つめている。はい、ご主人。その子はそう云い、立ちあがる。
私は慌てて身を起こす。途端に、体のあちこちが痛み、同時にまた、強姦された時間に巻き戻されそうになる。歯を食いしばり、私は見た。──見たのだ。それを。
「なに……これ……」
地下室の壁に、男が並んでいた。否、それは男の一部だった。全ての男が、両腕と両足を付け根から切り落とされている。壁にたてかけられただるまは、口からなにかが飛びだしていた。後に、私は知る。それは杭のようなナイフだと。口が裂けるほど太いナイフで喉をいたぶられ、男たちはだらだらと死んでいったのだと。
「ご主人、終わったのか」
「終わった」
花をくれた子が上を向き、話している。答えているのは、長身の男だった。スパイキーショートの髪はアッシュで、跳ねるのを押さえるためか、ヘアバンドをしている。かれもまた、服も体も何日も洗っていない、避難者特有の汚れた様子だったが──。
私は無意識に、手に握った花に顔を寄せていた。爽やかで甘い、匂いを吸いこむ。そしてそれも後に知る。かれが血まみれのナイフを、そのモッズコートの中に何本も──男を殺した分だけ、ぶら下げていたことを。
町の中心にある、デパートの地階が避難所になっていた。
食糧などの備蓄があることは勿論、収容できる人数が多いこともあり、家族で避難している者もたくさん見た。見るたび、胸を掻きむしりたくなった。
だが、胸には娘を抱いていた。掻きむしる代わりに、娘を抱きしめた。私の夫は、私と娘を逃がすため、死んだ。俺が食われている間に逃げろ、と叫び、生首の中に飛びこんでいって──そうして、真実かれが食べられている時間を使って、私たちは逃げることができたのだ。
奥歯を食いしばる。夫の名を呼びたくて、飲みこんで。愛した男の忘れ形見を抱きしめる。そうして──夫のことばかり考えていたから、遅れたのだ。
「……?」
ふと、熱を感じた。抱いている娘が、熱い。私は慌てた。娘の顔を覗きこみ、口を開け喘いでいるのを見て、血の気が引いた。娘はけがなどしていない。ならば、病気だ。避難所は不衛生で、誰もが脂と垢で汚れている。幼弱な娘は、容易く
私は娘を抱き走った。倉庫の前のスペースが、避難所の本部となっていた。兵士が詰め、食糧の分配から揉め事の仲裁まで、避難生活の舵取りをしてくれていた。
「娘が! 娘が病気なんです! 助けてください!」
半狂乱になり、掴みかかった私の肩を、兵士は宥めるように握った。
「奥さん、落ち着いて。旦那さんは?」
「夫……は、死に、ました……っ」
兵士が、にたり、と笑った。──そんな筈はない。最愛の夫を亡くし、娘が病気になって取り乱している女を見て、嬉しそうに笑うなんて。
「あいにく、薬は不足していてね。災厄の最中に、冒険者が徴集して使っちまったのさ」
「そんな……じゃあ、じゃあ、お医者様は!?」
「医者も冒険者の手当てにかり出されているなあ。なにしろ冒険者様は、傷だらけになって町を守ってくれたんでね」
膝が、がくんと崩れた。うずくまった私に合わせ、兵士が屈み込む。泣きだした私をじろじろと眺め──そして、兵士は私の耳許に口を近づけたのだ。
「実はね、奥さん」
生臭い息が耳に当たる。
「さすがの冒険者も、俺らの屯所に支給されている薬まで取りあげることはできなかったんだよ」
「……?」
「どうだい、薬を取ってきてやろうか?」
「お願いします! ああ、ああ、有り難うございます!」
それじゃあ、こっちに来てもらおうか。そう云って、兵士は私の手首を掴んだ。萎えた膝を励まし、私は歩いた。本部をつっきり、奥の倉庫へと連れこまれる。──連れこまれたのだ、と理解したのは、だが遅かった。
扉を閉められ、暗闇となった倉庫の、更に奥へと引き摺られる。娘が泣いていた。私は娘を落とさぬよう抱くだけで精一杯で──兵士の云うことを聞いたのだ、愚かにも。
「娘さん、熱があるんなら、寒いんじゃないかなあ。奥さん、服を脱いで娘さんを包んであげたらどうだい」
「はっ、はい!」
私は腰紐を抜き、服を脱いだ。床に服を広げ、その上に娘を置いて、包みこむ。娘は泣きやまない。まだ寒いのね。抱きあげて暖めようと伸ばした両手は──娘に届かなかった。
「!?」
後ろから襲ってきたのは、兵士だった。私は既に服を脱いでいたから、あとは──下着を剥ぎ取るだけでよかった。裸に剥かれ、床に突き倒され、私はもがいた。爪が兵士の頬に傷をつけた──途端、恫喝の声が倉庫に響き渡った。
「薬が欲しくないのか!」
私は硬直した。薬。娘。病いの娘。震えて喘ぐ娘が、少し遠くに見えた。
「ううっ、う──」
兵士に犯されながら、私は泣いた。死んだ夫を、手酷く裏切ったような気持ちがした。嫌だ。嫌だ夫が好きだった。夫を愛していた。兵士が私の腹に射精する。嫌だ。死にたい。でも、私が死んだら、娘はどうなるの。愛する夫の子。あの子を守らねば。私は歯を食いしばり、苦悶の時間に耐えた。
「どうだ、奥さん。旦那より、俺の方がうまいだろう?」
「……薬をください」
「なあ、俺のテク、凄かっただろう? あんたもえらいよがっていたじゃないか」
「薬をください」
硬い声で繰りかえす私に、にたにたと笑って。兵士は云った。
「明日の同じ時間、ここに来るんだな」
そして──地獄が始まった。
災厄よりも酷いと思った。兵士は毎日私を倉庫に連れこみ、強姦した。その後、一日分の薬をくれる。娘の病いは、一日二日で治りはしなかった。私は薬を求め、兵士の元へ行った。それが、何日続いたのだろう。怒りと悔しさと夫を裏切る苦しさと。噴きだしてくるもので、私は泣いた。泣きながらまた、兵士の元へと歩いていた。娘の熱は下がらない。
そして今日も、あのおぞましい時間に耐えねばと踏みこんだ──本部の様子に、私は眼を瞠った。
「……なに、これ」
なに、と云いながら判っていた。これは死体だ。だって、両腕と両足が切り落とされている。口には鉄製の杭のようなものが突き刺さっている。死体だ──私をレイプしていた兵士の。
死体は一体ではなかった。本部に詰めていた兵士の死体が、方々に転がっている。どれもだるまにされていて、太い杭で喉を破られている。切り落とされた腕と足が散乱し、現場は酸鼻を極めていたが──災厄で、生首の化け物に貪り食われる夫を目の当たりにした時に比べれば、どうということもないと思った。
だが──。
「薬……私の娘の、薬は、どうしたのよぉっ!」
死体の、頭を蹴りつけた。オエッ、と呻いた。まだ死んでないのか。早く死ねばいいのに。いや、死んだら薬が。でも死ね。おまえなんか死ね、死ね、死ね。でも、でも。
「くすりって何だ?」
ぽんと入ってきた声に、振り向く。弾みで怒鳴りつけようとしたが、真っ黒い大きな眼がひどく澄んでいて──私の口はへの字に曲がった。
「娘が、病気なの……っ、こいつしか、薬を持っていなくて……、だから私、毎日、毎日、こいつに……っ」
「……そうか。薬を渡すことを条件に、こいつはあんたに、酷いことを強要したんだな」
泣きながら頷く。黒い眼の持ち主は、子どもだった。ミルキーベージュの髪をハーフアップにしているが、脂でべったりとなっている。けがをしているのか、服には黄色い染みが飛び散っていた。
「これだけしかないんだ。ごめんな」
そう云って、その子は私の手に小さな袋を載せた。開けると、強い匂いがした。乾燥した葉……?
「冒険者が使う薬草だ。煎じて飲めば色んな不調に効く」
「む、娘に、飲ませたら、いいの?」
「治るかは判らない。ごめんな。あんたは、たくさんたくさん苦しい思いをしたのに。おれ、このくらいのことしかできなくて、ごめんな」
「っ──」
私は首を振る。苦しい思いをしたんだと。それを判ってもらえて、胸の中の黒いかたまりが、ほろほろとくずれてゆく。苦しかった。苦しかった。苦しかった。
「……おれは行く。娘さん、よくなるといいな。あんたも……勝手なことを云って、ごめんな。でも、おれ、あんたも、体、大切にしてほしい」
しぼりだすようにそう云って、その子は背を向ける。走ってゆく。思わず、待って、と声をあげかけた。だけど。
(……あの子の、お父さん?)
その子が駆け寄ったのは、背の高い男だった。ちらりと見えた横顔は、だがかれの父親にしては若い。スパイキーショートの髪はアッシュだが、やはり脂でべとついている。着たきりのモッズコートの──裾から滴り落ちるものに、私は眼を瞠った。
(血……大量の)
服が吸いきれず滴り溢すほどに、大量の血を浴びている。私ははっとして、兵士の死体を見る。あちらこちらに散らばった兵士と、その腕と足。断面からは、たらたらと血が流れている。
黒い瞳の子が、うつむきつぶやく。男はその子の頭に手を置き、髪を撫でた。歩きだす男と、その子の手がつながっている。男はその子の手を引き、その子は男の手に掴まって──行ってしまった。
私は、娘を抱きしめる。私みたいな汚い母親に抱きしめられて、かわいそうだと思った。だけど。あの子は体を大切にと云った。夫を裏切り、男の精液にまみれた私の体も、大切にしてと……。
泣くのは、最後にしよう。そして、大切にするのだ。夫との思い出も、夫との大切な娘も、夫の愛してくれた私のことも。
避難所では、レイプが横行していた。
女は料理をしているか、そうでない時は男の慰みものとなる。たまりかねて、避難所をとりまとめている兵士に訴えると、「嫌なら避難所から出て行け」と怒鳴られた。
私は、避難所を出た。数日ぶりに浴びた太陽は眩しかったが、凄惨な町の有様に絶句した。精液の臭いのたちこめる地下なんてもうまっぴらだと思ったのに、大量の死体が融解する地面を吹く風は、吐き気を催すほど強烈に生臭い。
覚束ない足どりで町をさまよっていると、腕を掴まれた。反射的に振りほどく。睨みつける。男は一瞬怯んだが、殊更に胸を張り私を見おろした。
「地下に避難と指示されているだろう。何故出歩いているんだ?」
身ぎれいだ、と思った。私は何日もお風呂に入っていなくて、着替えすらしていないのに。この男にはそうした荒んだ様子がちっともない。
「まったく、しょうがないな。うちで面倒を見てやるから、来なさい。俺たちはね、隣りの町から駆けつけてきたんだよ。町の復興を手伝おうと思ってね」
なるほど、魔物に食われかけた経験すらないから、こんな風に快活に笑えるのだ。親切ぶったしぐさで、男は私の腕を再び掴んだ。
「嫌! 離して! 離せよ! 触るな!」
「何だその言葉遣いは! 女は女らしくしろ!」
男の形相が変わる。おためごかしの笑顔はあっけなく剥がれ。暴力にまかせ、私の髪を掴む。痛い。私はしゃにむに暴れ、大声をだす。すると、一人、二人と男が顔を出した。
私はいつの間にか、町の中央に来ていたのだ。『善意で駆けつけてきた隣村の有志たち』が居座っていたのは、半壊した町役場だった。町で一番大きな建物も、あちこちが食い破られている。災厄は凄まじいものだったのだ──だけれど。
「何だ? まさか、また魔物か?」
「違う違う。女が一人で出歩いていたんだよ」
「そりゃ、保護しねえとなあ」
「こっちだ、こっちによこせ」
だけれど、その災厄以上に酷い地獄が待っていたのだ──女には。
「一人で出歩くなと云われただろう──危ないから」
役場の中に引きずりこまれ、その時にはもう、服をむしり取られていた。
「あれほど女の一人歩きはするなと云われているのに、どうしたのかな?」
「注意しても聞かないのなら、自己責任というやつだね」
「むしろ、襲われたかったんじゃないか?」
「おい、こいつ生理しているぞ!」
「こんな大変な時に生理するとは、つくづく女は淫乱だな」
下着を取られ、経血が漏れぬよう詰めていた綿を取られ、私はレイプされた。何度も。何人にも。何時間もレイプされた。
最初は抗った。生理を射精と同じものと思いこんでいる、脳まで精子が詰まった男どもを大声で罵った。口を塞いでくる指を噛むと、布を押しこまれた。股に顔をつっこんでくる男の髪を毟り、胸を触る男の顔を引っ掻いた。すると、右腕と、左腕を、それぞれ一人ずつに押さえつけられた。ならば足だ。蹴りつけようとしたが、その両足も、それぞれ男に押さえつけられた。私は大きく足を開かされた格好で、床に押さえつけられ、次から次に男性器を突っこまれた。押さえつけられた手足は痺れ、感触がない。腹を殴られ、顔を殴られ、私はついに、涙を流した。男たちがどっと歓声をあげた。
謝れ、と怒鳴られ、ごめんなさいと云った。
気持ちいいんだろう、と笑われ、気持ちいいですと云った。
何を云われずとも、有り難うございます、有り難うございますと云った。
夢をみているのだ、と私は思おうとした。災厄のほうがまだましだと思うくらいの、魔物に食われながら死ぬことのほうが幸せだと思うくらいの、酷い夢を。
(夢を、見ているの)
夢の中では、私を犯していた男が一人ずつ、消えていった。やがてみんないなくなった。私は瞬く。目玉だけが動いた。ここは役所だった。長いカウンターがある。その上に、どうやら男たちが並んでいた。並べられていた──頭と胴体だけの間抜けなすがたになって。
切り落とされた腕と足が、カウンターの下に散らばっている。それを踏んでも踏まなくても、どうという顔もせず、男が歩いている。跳ね放題のアッシュの髪をヘアバンドで押さえた、背の高い男だ。かれは黒いモッズコートの内側に手を入れ、ナイフを取りだした。否、片手で握っても持て余すくらい太い、杭といったほうがいいのか。カウンターに載っただるまが、悲鳴をあげる。男はその口に、杭のナイフをぶっ刺した。一息に喉を破るのでなく、それは死までの苦痛を長引かせるためにやっているのだと判った。かれはだるまの口をすべて、ナイフで埋めた。
「いい、夢だわ」
「……悪い夢だろう」
独り言に、声がかえってきた。私はまた、目玉を動かす。横たわる私の傍に、子どもが座っている。ハーフアップにした髪はミルキーベージュで、なんだかとてもやさしく見えた。
「あいつら、私に酷いことをした。だから、酷い目に遭って、死ねば、いいんだわ」
「だから、いい夢なのか?」
「ええ」
「夢だと思えるならば。そう思え。あんたがそう思うことを、おれは祈る」
どういうことだろう、と眼を瞬く。私の傍に座った子は、控えめに手をのばした。いつの間にか、私の体の上には、毛布がかけられていた。
「この毛布、あなたが?」
「こんなことくらいしかできなくて、ごめんな」
「やさしいのね」
「やさしいのは、ご主人なんだ」
どんな風にも形容できない、微笑みを残して。その子は立ちあがる。カウンターで──だるまの口に杭を打っていた男の方へと走ってゆき、その勢いのまま男の腕に抱きつく。
男の黒いモッズコートが、その子を覆って、隠してしまうような気がした。少しだけかれは、かれを抱いて。それから手をのばす。手をつないで歩きだすのが、幼い仕草に見えて。凄惨な情景にそぐわないようで──だけど傷つき果てた私の心に、ほんのりと灯った。
カラミタス・ディアボリで被災した、プロスペルムの町の避難所に、殺人鬼が徘徊しているという報が、屯所に入った。殺しの手口が全く同じであったから、連続殺人と判じられ、兵士たちは犯人逮捕を急いだ。
だが、捜査は遅々として進まない。犯人は白昼堂々、衆目のある場所で犯行を遂げている。にも関わらず人相の特定さえできないのは、目撃者が一様に口を噤むからだ。目撃者──殺人鬼の手にかからず生き残った、女たち。女たちは何も云わなかった。もっとも、女の証言など当てにできるものでないから、兵士たちは黙秘する女たちを鼻で嗤って、終わった。
殺人鬼の
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