5th. 甘やかしはじめ
モッズコートの上から、毛皮のケープを羽織った。
一つ前の町で購入したものだった。相変わらず目的地のある旅ではなかったが、どうも北へ北へと進んでいるらしい。夜に降った雪が、日中も融けない。それでも整備する者が働き者らしく、街道は薄く雪が積もる程度で、道に迷うことはなかった。
「ご主人、寒いのか?」
ぎょろりと大きな眼を向けてくる。これが俺についてくるようになったのは、いつ頃のことだったか。──関心がないので、よく思いだせない。
「おまえは寒くはないのか?」
「とても寒い」
はあっと白い息を吐き、モモンガは小さな手をこすり合わせている。
これの仕草は妙に人臭い。従魔とはこんなものなのか、とさして思い留めることもなく、サワタリは淡々と歩く。
街道に出る魔物も、多かった。魔物は夜に活性化するうえ、昼間は人のいない山や森に潜んでいることが多いのだが、この街道には昼もおかまいなしに出る。もっとも、わざわざ道を外れ駆除に出ずとも、向こうから襲いかかってくるのは好都合である。サワタリは淡々と魔物を
禿げたところは寒風がますます冷たかろう。小さな手をこすり合わせ、寒そうにふらふらと飛ぶモモンガは、だが戦闘になると懲りずに飛びだしてきて……薬草を消費することになる。しょんぼりと消沈するモモンガは、果たしてサワタリがナイフを構えると何度でも飛びだしてくるのだ。
そんな具合に街道を進んで、数日。今日も今日とてしょげていたモモンガが、ふと顔を上げた。
「へんなにおいがする」
小さな鼻をふんふんと鳴らしている。サワタリは首を傾けた。
「毒素の類いか?」
「あんまりいっぱい吸うとだめかもしれない。でも、これくらいならだいじょうぶだ。くさいけど」
人よりは鼻がきく、とはいえ動物並である。暫く歩くと、サワタリの鼻でもその「におい」を嗅ぎとれた。
「硫黄の臭いか」
「いおう?」
「おそらく、温泉がある」
「おんせん?」
「地面から湯が直接湧きだしていて──まあ、行ってみれば判る」
「ご主人はおんせんが好きなのか?」
苦笑してしまった。思ったよりも寒さにまいっていたらしい。熱い湯に浸かれるという期待が、そっくり声に出ていたのだ。
「ご主人、わらった!」
モモンガの声が弾む。
「ご主人がわらうと、おれはうれしくなる」
「従魔らしい、と云えばいいのか」
主人が喜べば、従魔も嬉しい。これが俺に持つのは従僕の忠誠心であり、好意の類いは関与しない。
「……うん。おれはご主人の従魔だから、ご主人がわらうと、うれしくなるんだ」
うなずくモモンガは、どことなく淋しそうだった。そう見えただけだが──こいつも温泉に連れていこうかと思いつく。
しかし、この魔物は温泉に入れてもらえるだろうか。サワタリの懸念──と云うほど切迫したものではないが──は、しかし杞憂──これもそう重い意味でもないが──に終わった。
果たして辿り着いた町は温泉街だった。宿はどれも風情があり、独自に掘った温泉──内湯というらしい──を売りにしていたが、浴場だけで独立したもの──こちらは外湯というらしい──も大小様々にある。町の出入り口にあるギルドに寄ると、どの湯屋にも入り放題だという手形が冒険者価格で手に入った。ついでに従魔は温泉に入れるのかと尋ねると、遠慮なくギルドの名をだしてくださいと胸を叩かれたので──そうした。町の隅で見かけた外湯に入り、番台に手形を提示するまではよかったが、サワタリの傍を浮遊するモモンガを見ると、顔を強ばらせた。サワタリはモモンガと自分のピアスを見せ、それを番台がギルドに確認しに走り──小一時間ほどは待たされたが、暖簾をくぐることができた。
山裾に食いこむように敷地の取られた湯屋だった。早速露天風呂に出てみると、三方から山肌が迫ってきて、雪と草の匂いがした。サワタリは山肌を眺める格好で湯に浸かる。思わず声が出た。寒風に曝されつづけた体の、芯の芯まで湯が沁みる。両手で湯を掬い、ぱしゃりと顔にかける。──気持ちいい。
「ご主人、これがおんせんか?」
「ああ──おまえも浸かれ」
「はい、ご主人」
「ばか、頭まで沈めるな!」
サワタリはモモンガを掴むと、顔を湯から出させた。
「このくらい、肩くらいまで浸かるんだ」
「そうか。息ができなかったものな」
モモは空中で浮遊する要領で、湯の中でも体勢をキープ──つまり肩まで湯に浸かる姿勢を保っている。そうして一人と一匹は並んで温泉に浸かる。山肌は宿を作る時に掘削されたのだろうほぼ垂直であったが、緑が根を強く張り、苔がむしている。所々雪の混じるそれは、特に珍しいものではないが──旅でなじんだ風景であるからか、落ち着く。サワタリは山肌を眺めながら、手足を伸ばす。体の様々な部分が緩んでゆくのが判る。
「ご主人、気持ちよさそうだ」
「いい」
「そうか。おれは、濡れるのはあまり好きじゃないんだ」
「ああ、そうなのか」
人は大抵温泉を好むが、これは魔物だった。サワタリがモモンガに、出ていていいぞ、と云うよりもさきに。
「でも、ご主人と一緒におんせんするのは気持ちがいい」
「……濡れたままだと嫌なのだろう。上がったら、おまえの体を拭いてやる」
「主人のしてほしいことをするのは、従魔なんだ。おれがご主人の体を拭く!」
「おまえに拭かせていたら日が暮れる」
町外れの古い湯屋であるせいか、他に客はなく、貸し切り状態で寛げるのも良い。あしたもここに来ようか、とぼんやり考えていたが、ふと禿げだらけのモモが眼に入った。
「おまえのその皮膚に効能のある温泉もあるらしい。あしたはそっちに行ってみるか」
切り傷や火傷、皮膚病に効能があると謳っていたから、こいつの凍傷による禿げにも効果があるかもしれない。
「……おい?」
返事がない、と思って振り向けば──また湯に頭まで沈みかけている。
「こら、おまえ」
「んん……」
「風呂で寝るな」
「んん……」
気持ちよさそうに寝息をたてている。濡れるの嫌いなんじゃなかったか、おまえ?
まあ、眠ってしまう気持ちも判る。熱すぎずぬるすぎぬ絶妙の湯の温度に、山肌は雪混じりの爽涼な風をすべらせ火照った顔に気持ちいい。寒さで悴みきっていた体が、やわやわと弛緩している。
サワタリはモモを抱き、その小さな頭を肩にもたせかけてやる。濡れた毛皮がこそばゆい。すやすやと聞こえてくる寝息に誘われるよう、サワタリも眼を閉じた。
その夜は、湯屋の隣りにある宿に泊まった。設備は古いが飯の美味い宿だった。名物だという川魚の切り身が絶品である。外気で冷凍した魚を凍ったまま薄切りにしたものだという。しゃりしゃりとした食感を新鮮に思っていたら、口の中で融け、濃厚な魚の味がした。モモンガにもやってみると、うまそうに食っていた。麦酒もおすすめだと云われるままに注いでもらったが、宿が自慢するだけのことはあった。他の地方のものよりも黒っぽい見た目をしていて、コクと風味の強さに瞠目した。うまい。しかも安価だった。町にはビール工場があるらしく、この温泉街の名物でもあるらしい。これもモモに与えてみたが、こちらはお気に召さなかったようだ。もともと酒の類いは好まない。それよりも、デザートで出てきた、黒蜜のたっぷりかかった餅に夢中だった。酒のあてに胡桃が欲しいな、と思いつつ麦酒を喉に流しこむ。
酒に酔う性でもなかったが、長旅を癒やす温泉に浸かり、上手い飯と酒をたらふく腹に入れたせいか、布団に入ったところで意識が途切れている。そのままぐっすりとよく眠った。木造の宿は風が吹くたび軋んだが、その程度では起きもせずに。けたたましく鳴く朝鳥の声で、ようやくサワタリは起床した。
「ご主人、おんせんいくのか?」
朝飯を食い、身支度をしているとモモがちょこちょこと寄ってきた。
「物資の補給が先だ」
本来ならば、町に着いたらサワタリが真っ先にやることは、それだった。暢気に温泉に浸かり、酒と料理に舌鼓をうち爆睡した昨日が、例外──温泉に浮かれて、らしくない姿をさらしたものだった。気分を改め、過酷になってきた気候に対抗する装備を買いそろえるための算段をしていたのだが。
「……補給が終わったら、また別の外湯に浸かるのもいいかもな」
「いいとおもう!」
とたんに嬉しそうに、モモンガが眼をぎょろぎょろさせる。……やはり禿げのところが気になる。
夕方まで物資の補給を行ってから、サワタリは再び外湯へと繰りだした。夕から夜にかけ、町はいっそう温泉街の趣きを増す。旅行者らしき者はみな、独特の衣装──この地方のものだろう、腰紐が扁平で厚い布地でできており、それを背中で華やかに結いあげている──を着て、独特の靴──色鮮やかな紐の張られた、二つの歯を持つ──を履いて、桶に着替えやタオルを入れて持ち、夜道を歩いている。川端には出店が出ていて、活気のある声が飛びかう。
「おい?」
「あっ、すまない」
モモンガが立ち止まっていた──否、浮遊しているから立ち止まる、という表現は不適切か。つまり、いつもならばサワタリの肩の傍を飛んでいるものの、気配がなくなっていた。後ろを振りかえると、ずいぶんと離れた場所でホバリングしている。人混みに紛れそうでもあるし──弱くとも魔物であり、弱いからこそ人に駆除される怖れもある。そのことは自分できちんと理解しているのだろう、モモンガはすぐにサワタリの傍まで飛んできたが──首をねじり、後ろを振りかえっている。
「あれが欲しいのか?」
リンゴ飴、という看板を出した屋台である。そういえば、こいつは黒蜜のかかった餅をうまそうに食っていた。
なんとなく、性被害者の女に寄り添うモモンガのすがたが、胸をかすめた。惨たらしい人殺しを最初から最後まで見つめては──いまだに慣れずに吐いている。それでもモモンガは、性被害を受け魂を殺された女の傍に寄り添い、彼女らを絶望から救うのだ。それがほんの一ミリの、小さなものでも。こいつは確かに、彼女たちを救ってくれている……。
サワタリは屋台へと歩み、はちまきを巻いたおやじから飴を買った
「あ……うあ……ありがとう、ご主人」
モモンガの小さな手に飴を押しつけると、戸惑いとうれしさを足して割ったような、複雑な顔をしている。姫林檎に蜜をかけた食べ物は、モモンガには少し大きい。ちまちまとなめているのを待つ気もなく、サワタリが歩きだすと、モモンガは飴をなめながらついてくる。混雑のなかでもすらすらと進めるサワタリに、飴をなめながら危なっかしく飛ぶモモンガは、足手まとい以外のなにものでもない。──であれば、なぜ俺は飴を買い与えた。胸にまた、小さな三つ指の手で性被害者の手を懸命に撫でるモモンガのすがたがうかぶ。飴は、うまいだろうか。思うともなく歩いていると、目星をつけていた外湯が見えてきた。
到着した湯屋は、昨日訪れた外湯とは雲泥と云えるほど、外観から違った。前庭はまるごと池になっていて、中央に橋が架かっている。ぼんぼりが照らす道を行くと、華やかな寄木細工に覆われた御殿が現れる。入り口には錦が幾重にも垂れさがり、絢爛たるものだった。
番台に声をかけたところで、また従魔についてギルドへ問い合わせをされるのだろうと踏んでいたが──意外にも、止められることはなかった。曰く。
「うちほどの湯屋ともなると、テイマーの方々にも贔屓にされておりますのです。かのサクラ・パシェンスの列聖がいらしたこともあるのですよ! 従魔をお連れのかたを差別するなど、恥ずべき無知。歴史ある湯屋だからこそ、ダイバーシティを忌憚なく受けいれておりますのです。いや、うちを選ばれた旦那はお目が高い!」
得意顔の番台に手形を見せ、サワタリは湯殿へ向かう。やけに暗いな、と思った。脱衣所から流し場、湯槽までどこも薄暗い。内装も絢爛な建物であるのに──だから、照明を絞っている理由は、すぐに知れるところとなる。
「ご主人?」
「……おまえ、飴は食ったのか」
「食った! りんごもおいしかった!」
飴と林檎の甘い匂いのするモモンガとともに、サワタリは湯船に浸かる。露天風呂ではないが、広々とした湯船だった。だが、暗い。夜目も利くサワタリは──見る。
「おおい、三助、背中を流せ」
洗い場で男が呼びつけたのは、男装をした女だった。男物の衣服を着て、髪も短く刈っているが、一目で女だと判る。湯で濡れた服は体に貼りついて、まろい女の線が露わになり──男はそれをねぶるように眺めている。三助、と呼ばれた女は、石鹸を自身の手に直接塗り、男の体を洗っている──その間、男は女の濡れた服の中に手を入れ、胸を揉んでいた。
見れば、浴場の男はみな、三助を従えている。豪奢な、だが薄暗い風呂で、男の体を洗い、垢をこすりおとし、髪を流す女のなかには、胸どころか股に手を入れられているものもいる。
「……ご主人」
無意識に、モモンガの凍傷の痕に湯をすりこんでいた。サワタリが手をとめると、昨日と同じよう肩に顔をのせたモモンガが、ぽつりと云った。
「ご主人、怖い顔になっている」
おまえの体にいい湯を選んで来た──所詮、そのことの方が、俺にとっては例外だったのだ。
モモンガを抱いたまま、湯船を出る。サワタリは勿論、この町の流儀に則った服装をしていない。いつものモッズコートを着こみ──中に装着したナイフを撫でる。
「おや、テイマーの旦那、もうお出になられるのです?」
番台の前を通りすぎるとき、声をかけられた。
「うちの湯には、他の湯にはいないのがおりましたでしょう。お気に召されたら、ぜひご贔屓に!」
「……三助、というやつか」
「ダイバーシティを重んじる湯屋ですからね、あれを取り入れておるのです。湯場でのお世話から、お着物のお召し替え、湯上がりにはお茶をお運びいたしますです」
番頭は目を逆三角のかたちにし、ぺろりと舌で唇をなめた。
「男装してまで勤めたがる女を、差別なく雇っておるのですよ。なにせ、こんなところに勤めるってんだ、女ってものは男にされたがってしかたがないらしい。まったく、サービスをしているのは客である男の方ですな。伝統と先進を誇る当湯屋のお客様は、ほんにお心がお広い」
サワタリは建物を出る──ふりをする。番台の目を盗むことなど造作もない。再び湯殿へと舞いもどり──そして、サワタリはナイフを抜いた。
軈て湯は真っ赤に染まり、洗い場にも脱衣所にも血しぶきが散った。凄惨な殺人現場に、屯所から兵士たちが駆けつける前に。サワタリは既に温泉の町を出立していた。
夜の街道は、静かだった。踏み固められた雪の上を歩くサワタリの肩に、モモンガが貼りついていた。いつものように少し離れたところを浮遊しているのでなく、温泉で一緒にうたたねをした時のよう、ぴったりと体を寄せている。
「ご主人の買ってくれた、りんごの飴がおいしかった」
モモがぽつんと云う。
「ご主人はおれの禿げに効くおんせんにつれていってくれた」
ぽつん、ぽつんと。
「ご主人と一緒におんせんで寝たの、ふわふわした。いー、きもち、だった」
つぶやくモモンガの体温が、肩に沁みる。
ふつうの冒険者を選んでいれば、おまえは。今もあの温泉街で、のんびりと旅の疲れを癒やしていたかもしれんな。──俺を選ばなければ。
「ご主人、ありがとう」
サワタリは答えず、黙々と歩く。
「……おれ、こうしているの、ご主人が歩くのに、じゃまだろうか?」
モモンガの三つ指の手が、サワタリの肩を押す。そのまま飛びたとうとしたモモンガを──その行動を阻むよう、サワタリは手をのばし、かれの背に手のひらをあてる。
「かまわない」
肩と手が、じんわりとあたたかい。モモンガは飛びたたず、サワタリの肩でじっとしている。
雪がちらついていた。肌に残っていた温泉のぬくもりなど、一瞬で拭い去る厳しい寒気だった。
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