盤上に揃いかけた星辰
藤原くう
盤上に揃いかけた星辰
A県B市のC山の山間には、一人の隠居がいた。年は、もう七十を回ったばかり。こじんまりとした家には、彼一人で住んでいる。伴侶となる女性はいなかった。若いころは放蕩の限りを尽くして、世間の批判を浴びたものだ。飯田の影あれば女性スキャンダルの影あり、と一時期は言われたものであるが、本人としては気の合う人を探してのことだったのである。
だが、ついぞ、彼を満たす人間は現れた。
いや、違う。
恋愛感情という意味ではなかったが、老人を満足させる人間は一人だけいたのである。
それが、碁盤の向こうに座っている子供であった。
名は張といった。台湾生まれ日本育ちの彼は、先日八歳という若さでプロ棋士入りを果たした、いわゆる天才だった。
そのきらめくような才能に、飯田は惹かれたのだ――彼もまた囲碁という世界で戦ってきた棋士だったから。
年甲斐もなく、たぎっている。
それがわかっているから、恥ずかしかった。それを気取られないように、彼は渋面を取り繕っていかにも重々しく口を開く。
「暑くないか」
「ぜんぜん」
首を振りながら言った少年の額には汗は浮かんでいない。季節は夏。山の下に広がる盆地は灼熱地獄と化していたが、山の上は自然な涼しさに包まれている。それでも下界で暮らしている張にはつらいだろうと思ってのことだった。
「それならよかった」
「はい」
沈黙が、部屋に訪れた。二人とも口下手で、どう話せばいいのかわからなかったのだ。
重い空気が漂う。たいていは、やるか、と飯田の方から口を開くことが多い。
今日もそうだった。
張は頷くと、碁笥に手を突っ込んで、その中から黒石をつまみ上げる。黒の碁石が先手で、白が後手。つまり、張が先手で飯田が後手だ。
その黒い石が、何も置かれていない碁盤の中心へと置かれた。
最初の一手を見て、飯田はほうと息を吐く。
碁盤には、星というものが九つ存在する。序盤戦術にかかわってくる地点で、ここの攻防から戦いは始まっていく。といっても中心の星――天元ともいう――に打たれることはほとんどない。
その手を、少年は打った。
別に、その手がありえないというわけではなかった。飯田も、昭和の時代には何度か相手をしたことがある。最初から戦局が広くなってしまうので、自分が使うにも相手取るにしても難解な局面が多いという印象である。
だが、そんな古臭い手を、AI全盛のこの時代に、小学生が使ってくるということが、驚きだったのだ。
飯田は盤上から顔を上げ、張を見る。彼の視線は盤上を穿っており、飯田に見られていることに気が付いていないようである。それほどまでに集中している。
そのひたむきな態度が、飯田には眩しく感じられるのだ。
飯田は石を手に取って盤上へと打つ。対局の始まりである。
このようにして、少年と老人とが対局を行うのは、これで三年目。
きっかけは、飯田が招かれた囲碁大会であった。飯田本人としては乗る気ではなかった。六十後半で、囲碁の一線を退いたばかり。弟子を取る気も解説を行うつもりもなかったのだ。そうする資格もないと、本人が思っていたからというのもある。
――若い時はやんちゃしてたのだから。
というわけである。
それに、歯に衣着せぬ言い方をしてしまうことは、飯田自身重々承知していた。それで、棋士が、対局を観戦している人が、嫌な気持ちになるのが想像できたから、かたくなに解説を断ってきた。
だが、引退直後くらいはいいだろうか――なんて思って棋士人生初の解説役を引き受けた飯田は、さっそく後悔し始めていた。
飯田が行うことになっているのは、決勝戦の解説だった。それまで、子どもたちの対局を見守るのが仕事である。
小学生の大会とはいえ、そこに集まっているのは、全国の猛者たち。プロの卵が集まっているのだ。彼ら彼女らが織りなす一局一局は、プロのそれと遜色はほとんどない。
だからこそ、ちょっとしたミスが気になってしまう。敗着となった一手が、歯がゆく感じられる。次の瞬間には、また形勢が一転してしまうような一手が飛び出して、苛立ちは増してくる。
悶々とした気持ちを抱えていると、気が付けば決勝戦が始まった。
そこで出会ったのが、張という少年なのだった。決勝戦が始まるまで気が付かなかったのは、張が勝ち上がってきた方のトーナメントを見てはいなかったからである。
そんなこんなで、張少年を見た時、大丈夫か、という心配が脳裏をよぎった。
色白でひょろりとした体は、健康的な体つきには見えない。表情だって、緊張していたガチガチに固まっている。相対する少年は、飯田が見ている限り、緊張している感じはなかった。ひな壇のように一段高くなった場所に上がる際も、どこかにいるであろう両親に両手をぶんぶん振っていた。そこには、楽しさが浮かんでいる。一方の張は、苦しさを隠そうともしていない。
ふむ、と飯田は呟いた。
応援したくなるのは、明るい子だ。だが、張のことが妙に気になった。理由はわからない。直感だった。
だが、その直感は正しかった。
あっという間に、勝利してしまったからだ。
まさに、天衣無縫、電光石火の勝利で、飯田は目を奪われてしまったといってもよかった。
張は、あの時と寸分たがわぬ表情を浮かべている。苦しそうに、盤上を睨みつけている。そのひたむきな目には、白と黒の石が織りなす模様しか捉えていない。
戦況は中盤戦。飯田は押され気味だと考えていたが、これではどっちが負けているのかわからない。
心の中で苦笑して、飯田は盤上へと目を向ける。
盤上の石は、中心から始まって、外へ外へと戦場を広げていった。だから、明確な陣地というのがない。あったとしても、一目二目といったところで、勝利を判断できるほどでもない。それに、次の瞬間には石を殺されるかもしれない。難解な中盤戦である。プロだとしても、先が見えないことだろう。飯田にも、自信はなかった。
乗り出していた体を上げて、盤上全体を見る。渦を巻くような盤面は、どこか銀河のように見えなくもない。だとしたら、石は銀河を構成する星々といったところか。
張を見ると、考えに耽っている。飯田が次の一手を打つまで、かすかに揺れ動くばかりだろう。大した集中力だと、飯田は感心する。
――しかし。
飯田は白くなった髪をなでる。次の一手が難しい。どんな手でもあるところだった。魅力的な手が多いからこそ、悩んでしまう。
今、飯田が考えているのは、二つの手であった。一つは、手筋――部分的な定石――に則った手。もう一つは全くの思い付きである。思いつきなのだが、妙な魅力があった。この手を選択したら、混沌とした盤面はますます混沌としてしまうような。
プロの対局であれば、そんな手はノータイムで否定する。だが、今は違う。プロでもなければ、テレビ放映されている対局でもないのだ。
気の向くままに、着手する。
石が、榧の碁盤とぶつかり、こつんと音を立てる。
空気が変わる。
別に悪い手を打ったという感覚はない、目の前の張が息を呑んだからというわけでもなかった。いやむしろ、張に関しては、空気が変わったから、息を呑んだように思えた。
盤上の宇宙には、たった今白石が置かれたばかりである。一つくらい増えたって、全体の様相というのはそれほど変わらない。……はずなのだが、言いようもしれぬ気持ち悪さを、そこからは感じる。
そんなのは、半世紀以上戦ってきた飯田も初めてのこと。すぐに、かぶりを振った。
――今のは何かの間違いだろう。
そうに違いない、飯田は心の中で呟いて、腕を組む。
張は驚いたように目をぱちくりしていたが、すぐに盤上を睨みつけ始めた。その一手は、意外だったらしい。飯田の口角がわずかに上がった。
無言のまま、手が進む。石が碁盤へと置かれるパチパチという音だけが響く。
ある種美しい音色に異音が混ざり始めたのは、いつごろからだったのか。
びゅうと風の吹く音が外からする。その風は木々を揺らし、窓へとぶつかる。そのたびに、窓はビシビシと音を立てた。
天気予報は晴れの予定だった。だが、窓の外は、ひどく暗い。いつの間にか夜になってしまったのだろうかと携帯電話を開けば、まだ昼である。
「今日は泊まれるか……?」
「おかあさんに電話すれば」
万が一のことを考えて、飯田は聞いた。天候が急に悪くなるということは、山においては何ら不思議なことではない。だから、張を家に泊めたことはそれなりにあった。電話をかけようとして、圏外になっているということに飯田は気が付いた。
「スマホが圏外になってないだろうな」
ちょっと確認してくれ、と飯田が言うと、張は困惑しながらも、手元からスマホを取り出す。そして、目を見開いた。
「どうしてわかったの」
「……いやケータイがつながらないから、そうなんじゃないかと思って」
だが、いったいどうして。こんなことは一度だって起きたことがなかった。山間にあるとはいっても、近くには村があり、電話会社の通信基地もあった。比較的つながりやすい場所なのだ。そのはずなのに、何度かけたってつながることはなかった。
三回目の『おかけになった――』という定型文が聞こえた途端、飯田は電話を切った。
それから立ち上がる。
外へ出よう。軽トラに乗って、街へ行くのだ。
そう考えて、それは無謀ではないか、という懸念がよぎった。窓の外は台風や竜巻の真っただ中のよう。風がびゅうびゅう吹き荒れ、ばさばさ木々はもぎ取られそうな勢いで頭を揺らしている。雨粒がバシバシ窓へとぶつかってきているから、外の様子はぼんやりとしかわからない。だが、ひどい天気だということは伝わってくる。
飯田はその場に立って動かなかったが、じきに腰を下ろした。そんな自分を、不安そうに見上げている目に気が付いた。
「多分大丈夫だろう。むしろ外に出ない方がいいかもしれない」
「わかった」
張は、そう返事をして、盤上へと視線を戻していく。碁打ちの性とはいえ、本当に聞いているのか不安になってしまうのだった。
外に出ることもできず、助けを求めることもできない。本来なら、子どもだろうと大人だろうと、不安を感じずにはいられない状況だった。
だが、彼らは違う。彼らは、一般人とは違って、囲碁に恋し恋焦がれているような人間である。地獄だろうが天国だろうが、そこに碁盤があって対局者がいれば、それに集中してしまうのだ。
そういうわけで、外は荒れに荒れまくっているというのに、対局を続けていく。
ただ、飯田は額に脂汗を浮かべていた。
所在なさげに、座布団の上でもじもじ動いてしまうのは、トイレに行きたいからではない。
心がざわざわと騒いでいた。漠然と抱いていた不安は、今やはっきりと姿を現していて、飯田を動揺させた。
自分は、何に対して不安を感じているのだ。
じっくり考えてみても、その答えは出なかった。
盤面へと意識を向ける。そこには、カオスを体現したかのような戦況が広がっている。対局は終盤戦へと差し掛かっている。普通、囲碁というのは後半になればなるほどわかりやすくなっていく。一度打った石をどかすことが容易ではなく、また相手の石を使うことができないためである。終盤になると複雑化することもある将棋とはそこが違った。
だが、目の前の戦いは、終盤に入っているにもかかわらず、何がどうなっているのかよくわからない。大差で負けているということはないだろう。同様に大差で勝っているということもない。だからこそ、どっちが勝っているのか不明瞭なのだ。
ちらと弟子の顔を窺えば、彼もまた苦しそうな顔を浮かべている。いつも通り――いや、いつもよりかは苦しそうに見える。
ふと、窓の外を見れば、外は鼠色を超えて、黒色になろうとしている。時刻は午後四時。夏の午後四時であり、日暮れにはまだ早いにもかかわらず、外は暗い。まるで、天変地異のようである。
風は依然として、吹いている。その強さは、時間を追うごとに強くなっているようにさえ感じられた。ごうぉぉぉおっと怪獣か何かの叫び声に似た風の音が鳴り、建物へとぶつかる。そのたびに、天井から埃が落ちた。
ぴかっと稲光が走る。窓の外に見えたぼんやりとした影は、どこか人型のように思えて、飯田の背筋に冷たいものが走った。
次の瞬間には、闇に包まれて、謎の影は見えなくなった。
今のは何かの見間違いだろう。
着手しようとしていた手を止め、眉間をもみほぐす。それから、打つ。
空気はぴんと張りつめていて、言葉を発するのは何かためらわれるような雰囲気があった。それは、窓や扉などの隙間から入り込んでくる外空気によるもののように、飯田は感じていた。
言葉を発さないのは、その張りつめた空気を生み出している何者かに気が付かれないようにするため――。
飯田はかすかにうめいた。
なんてことを考えているのだろう、飯田は思った。いよいよボケが始まってしまったのだろうか。こんな世迷言めいたことを思ってしまうなんて。
「外に――何かいると思うか」
「いる」
即答だった。飯田は、またしてもうめいた。
顔を上げれば、張と目が合う。彼の目は、まっすぐ飯田のことを見つめていた。嘘をついているようには見えなかったし、第一、張は嘘をつくような器用な子どもでもなかった。いやむしろ、嘘であってくれ、と飯田は願ってさえいた。
いくら待てども、嘘です、と張は言わなかった。
「本当に?」
「はい。大きな人みたいなのが」
「どうしてわかるんだよ」
「だって、歩く音がします」
飯田は耳を澄ませてみる。聞こえるのは、暴風が生み出すうなり声と、葉っぱがこすれあう音。ごろごろという雷の音……。
歩く音は聞こえない。
「何も聞こえないが」
「話し声も聞こえます。呪文みたいな」
「呪文? んなばかな」
「でも」
「いいや、おれには聞こえないね」
飯田はぶんぶん首を振ってそう言った。実際、聞こえないものは聞こえないのだ。話し声も、呪文に聞こえそうなものだって。
意固地になった飯田は、乱雑に碁笥へ手を突っ込み、石を打ち据えた。
――あ。
そんな声を上げたのは、飯田と張、どっちだったのか。
置かれた白石に問題はない。ただ、数が違う。盤上、そして取った石の合計が、白の方が多くなっている。これは、先手と後手が一回ずつ着手しているのであれば、ありえないこと。
つまり、飯田は二手連続で打ってしまったのだ。
これはれっきとした反則である。公式戦であれば、その時点で張が勝利となる。
だがここには二、人のほかにだれもいない。対戦相手だって自分の弟子で、「待った」ということも――これだって反則である――できた。
飯田は盤上を見つめる。
肩を落として、頭を下げた。――降参であった。
「こんな調子だからいかんのだろうなあ」
飯田は現役の頃を思い出す。カッとなる瞬間があるのだ。何か、許せないことがあると、すぐに血が上る。タガが簡単に外れてしまうのだ。そのせいで取れなかったタイトルは一つや二つではない。最近は少ないと思っていただけに、すっかり油断していた。
「こ、こういう時もありますよ」
張がそんなことを言う。年端もいかない子どもに、気を使わせてしまったのが、申し訳なかった。
だから、勝ったご褒美という体で、サイダーを取りに行くことにした。碁盤の隣に用意していたのに、二人とも手を付けていなかったそれは、すっかりぬるくなっていた。
部屋には小さな冷蔵庫があったが、もっぱら井戸の中で冷やしていた。山からコンコンと湧き出る冷水のおかげで、井戸は真夏であっても冷たい。
それで、外へと出ようと思ったわけだが、妙に静かだった。
思い返すと、降参した瞬間、音はぴたりと止んでしまったような気さえする。
窓の外の空はグレーだったが、時折オレンジ色の夕焼けが目に入った。どうやら、天気は回復したらしい。
「ひどいなこりゃあ」
恐る恐る扉を開けると、木が出迎えた。周囲を取り囲む木の一本が倒れてきていたらしい。もしかしたらぶつかっていたかもしれないと思うと、心臓がキュッと縮まった。
木々を避けると、倒木がいくつも見える。そのどれもが根っこを露出させていた。人の腰ほどのどっしり根付いた気が倒れるのだから、相当な風だったらしい。
地面を見れば、ぬかるんでいる。長い雨ではなかったにせよ、それなりの量が降っていたらしい。どろどろになって、へこんでいる部分もあった。
――それはどこか人の足跡のようにも見えなくもない。
巨大な人の足跡。
よぎった考えを、飯田は振り捨てた。そんなことがあり得るわけがない。
サッと顔を背けて、井戸の方へ。
井戸は家の裏にあり、木々と家に挟まれていたからなのか、幸いなことに無事であった。
ロープを引っ張り、滑車を動かす。そうすると、キンキンに冷えたサイダーの缶が上がってくるというわけだ。
からころと音が鳴り、桶が上がってきた。
小さな桶の中に、きらりと光る何かが見えた。その光は七色。アルミ缶が返す光とはおおよそ違っていた。それなら銀色だろう。
桶が目の前までやってくる。
その中に、アルミ缶はあった。だが、それ以外にもあった。
虹色の光を返す、薄い物体だ。大きさとしては、それこそアルミ缶くらいの大きさで、飯田の手よりも大きい。それが何なのかわからないし、入れた覚えもない。
よくよく見てみようと思って、顔を近づける。
磯臭い香りが鼻を突いた。
どうして。
――いやそれよりも。
嫌悪感と連動して、頭によぎるものがあった。
これはもしかしたら、魚のうろこなのではないか。
だが、それにしては大きい。クジラでも、ここまで大きくはないのではないか、と思ってしまうほど。
不意に、二つの感想が、合わさった。
巨大な人の足跡のようなもの。
魚のうろこのようなもの。
それが、同一のものだったとしたら。
飯田は身震いして、家へと一目散に帰っていった。
……周りをよく見なかったのは、彼にとっては良かったことなのかもしれない。
その荒れ具合といったら、人が転げまわったようにしか見えなかった。
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