うみのほし

藤原くう

うみのほし

 一枚の論文が学会を賑わせた。

 

 最初は、ありふれた新種の発見だと思われた。少なくとも生物学者からすれば、そう見えたのだ。アカホシウミユリと名付けられた新種のウミユリは、赤い光を放つ点、同種で群れを成し巨大な星をつくる点などを除けば、ウミユリには違いなかったからだ。


 論文発表から半年後が経過して、ボストンのM大学でDNAの分析が行われた。経緯は定かにはなっていなかったが、その結果は、多くの学会を震撼させることとなった。


 そのウミユリのゲノムは、何らかの手によって編集されている可能性が高い――。



 わたしは、キリバスという国へとやってきていた。アカホシウミユリをこの目で観察するためである。


 飛行機を降りると、むんとした熱気がわたしを包み込んだ。日本の夏とはまた違う、刺すような熱気に汗が噴き出してくる。観光客は少ない。まるで、飛行機を貸し切り状態にしたみたいだった。


 トランクケースをごろごろ転がし、少し歩く。


 滑走路から少し離れた場所に、男が横になっていた。ぴちぴちのTシャツに、短パン、ビーチサンダル。はちきれんばかりの巌のような体。


 スマホを取り出して、写真を見る。わたしが雇ったダイバーも似たような顔をしている。というか、ここで眠っているのがそうらしかった。


 わたしは、肩を揺さぶる。そうすると、目がぱちりと開いた。


「あんたは……」


 男の口から発せられた言葉は英語でわたしは安堵する。キリバス語だったら、どうしようかと。


「あなたがマティスン」


「そうだが、どうしておれの名前を」


「ダイビングの予約をしたシラクサだけど、覚えてないの」


 うん、とマティスンが考え込む。次の瞬間、指を鳴らした。


「ああ、思い出した。リンネシラクサだ」


 わたしが頷くと、マティスンが立ち上がり、その手を差しだしてくる。その手は、岩石のようにごつごつとしており、大きい。頼りがいがあると同時に、そこはかとない恐怖も覚える。ぎゅっと握りしめられたら、わたしの手なんてぐちゃぐちゃだろうな、とか。


 わたしは、そっと握手に応じた。


 マティスンは手を離し、ついてこいよ、と言った。わたしは彼の後について行くことにする。


 滑走路を横切り、空港へ。駐車場にはジープが停められていた。マティスンは運転席に乗り込み、わたしは助手席へ座った。


 シートベルトもせず車は動き出す。日本に住んでいるわたしからすればちょっと考えられないことであったが、ここはおおらかなのかもしれない。もしくは、マティスンが違反しているだけなのかも。どちらにしても、車はほとんど走っていなかった。


「しかし、急だな。予約してきてから、まだ一か月もたっちゃいない」


「突然、発表されたから」


「何が」


「新種の生物」


「というと、あんたは、生物学者かなんかか」


「一応、海洋生物の」


「ふうん。それでダイビングってわけねえ。じゃあ、その新種を見に来るやつはほかにも……?」


「たぶんね。かなり、物議をかもしているから」


 生物学や遺伝子工学などで、議論が活発に行われている。だが、一番ホットなのは宗教学だろう。つまり、アカホシウミユリが本当にゲノム編集で生み出されたとしたら、そうした人間が過去にいたことになる。人類よりもずっと発達した人間、例えば、アトランティス人やハイパーボリア人じゃないか、とか。いや、そもそもゲノム編集を行ったのは人間ではなく創造主がそうなされたのだ、とか。


 そもそも、進化論そのものが間違いなのではないか、と疑問を呈する研究者もいた。それだけ、提出された論文は衝撃的だったのである。


 わたしは、わからない、としか言えなかった。実物を見るまでは判断したくなかった。生物学の根っこの部分にかかわる問題だから、慎重に考えたかった。


「そりゃあいい。あんたたちは研究ができて、おれは儲かるってわけだ」


「まあ、そうなるね」


「こりゃあ忙しくなるな。そのアカホシウミユリってどんな奴なんだ?」


 わたしはスマホを取り出し、論文でも使用された写真を表示する。


 その名の通り、ユリのような形をしている。もしくは、噴水のようにも見えた。太い茎が一本あり、それが、途中から五本に分裂するのだ。真上から撮った写真だと、星の形に見えなくもない。だが、星の名を冠しているのは、そこだけではない。茎の断面図が、星の形をしていることから、ホシというわけだ。じゃあアカは、という話になるのだが――。


「こんなのなら、海底にごまんとありそうなもんだが」


「執筆者によれば、噴火の後に現れたらしいわ」


 論文の執筆者がアカホシウミユリを発見したのは、ハワイとキリバスの間に広がる海中。具体的な場所はわかっていない。そこで論文の執筆者に連絡をつけようと思ったのだが、できなかった。電話はつながらないし、住所へ手紙を出してもあて先不明の印が押されて返ってくる。どういうわけなのかさっぱりわからなかった。


「火山っていえば、近くでそんなことがあったような気がするな」


「そうなの」


「ツアー中だったんだが、軽石が遠くから流れてきやがってよお、船がなかなか動かせなくて、困ったっけ」


 わたしは身を乗り出す。マティスンはびっくりしたようにハンドルを切り、車が揺れた。


「な、なんだよあぶねえな」


「その場所って覚えてる?」


「ぼんやりとは」


「じゃあ、そこに案内して」


「了解了解」



 車がたどり着いたのは入り江だった。入り江の手前には小屋があって、車を降りたマティスンは小屋の中へと入っていく。入り口には、ホエールウォッチングの文字。ここが、マティスンの仕事場らしい。

 

 わたしも車を降りた。ちょっと歩くと、入り江に瀟洒なヨットが浮かんでいるのが見えた。


「あの船ってマティスンの?」


「ああ。軍を辞めた時にちょっとばかしまとまったお金をもらったんだ。それでな」


「軍人だったんですか」


「まあな。大体のことは軍で教わった。ダイビングもな」


 わたしは軍隊に詳しくない。ただ、彼の鋼のような肉体は、元軍人であることを証明していた。


 準備がある、と言ってマティスンは建物の中へと引っ込んでいく。


 わたしは入り江へと下りることにした。石造りの階段を下りていくと、砂浜があって、桟橋がある。桟橋には建物近くからも見えたヨットがあった。大きくて、帆がないやつである。結構お高いのではないか。


 砂浜に目を向ければゴミ一つなく、奥まった場所にあるからか、寄せては来る波も非常に穏やかで、時間が遅くなったかのように感じられた。


 そうやって静謐な空気に身を漂わせていると、マティスンがやってきた。その両肩には、ボンベを抱えていた。わたしの隣までやってくると、肩の荷をドスンと下ろす。


「どうだ。これがおれの船だ」


「よほどお金がもらえたのね」


「それだけのことを国のためにしたってことだ。どーんと任せな」


 わたしはダイビングの免許を持っているとはいえ、自信があるというほどでもないから、はなから、任せるつもりであった。


 お願い、とわたしが言うと、マティスンは豪快に笑い、ボンベを船内へと運び込むのだった。



 空港にたどり着いたのが、昼前のことだから、船が入り江を出たのはちょうど午後になったころだ。


 エンジンがうなりを上げ、船が動き始める。ゆっくりと、徐々に速度を上げていく。入り江を出るころには、髪がなびくほどの風を感じた。


「今日の海は静かだな」


 マティスンはそう言ったが、わたしはひどい揺れのように感じた。酔い止めを飲んでいなかったら、今頃酔っていたに違いない。


 マティスン的には静からしい海を飛ぶように進む船。少しすると、揺れにも慣れてきて、周りを見る余裕が生まれた。


 コバルトブルーの海がどこまでも広がっている。少し離れた場所には島が見えた。あれはクリスマス島だろうか。海面に目を向けると、魚が泳いでいる。それを追ってトビウオが、さらにはイルカもジャンプしている。


 美しい光景。フィールドワークなんてここ数年やっていなかったから、すごく新鮮だ。


「きれい」


「だろ。観光地として人気があるんだぜ」


「それにしては人が少なかった」


「そりゃあ、今はオフシーズンだからな。年始年末ってなりゃ、金持ちが暖を取りにくるんだ。あんたみたいに仕事で来るやつなんかいねえ」


 でしょうね、とわたしは適当な返事をした。


 仕事。そうだ。景色にかまけなんかいられない。ここまで持ってくることになってしまったトランクケースから持ってきたスマホを取り出す。海上にまで電波は届いていないから、ネットサーフィンはできない。それでも、PDF化した論文くらいは読むことができる。


「何見てんだ?」


「論文」


「新種が発見されたってやつか」


「そう。気になる点が多いから。光ったり群れを形成したり。でも一番は、遺伝子操作されているって可能性」


「そんなことがありえるのか?」


「ありえない。少なくとも、現段階ではそうなっている」


「仮にそうだとしたら?」


「……はるか昔に、人類の科学技術を優に超えた文明が存在していることになる」


 だからこそ、大論争が起きているのだ。人類が、科学者が信じてきた土台が、がらがらと崩れ去るかもしれないのだから。


 息を飲む音が、はっきりと聞こえた。


 やや間があって。


「ムー大陸って知ってるか?」


「いきなり何」


「いやね。ここらはムー大陸なるものが存在していたとされる場所なんだよ」


「ムー大陸って今では科学的に否定されたって聞いているけど」


「それはそうだ。でも、そうじゃないとしたら。例えば、今回の件がムー大陸に関係してるってのはどうだ」


 ムー大陸といえば、その手のことに詳しくないわたしでも、ちょっとは知っている。超が付くほど昔に存在していたとされる大陸だ。そこに住まう人々は、卓越した科学技術を有していたとか。


 だが、それは伝説に過ぎない。眉唾物のオカルトだ。


「そうだったら面白いってだけだ。我らが文明よりも進んだ連中がいるってだけでわくわくすんだろ」


「そうかな」


 そうさ、と力のこもった言葉がやってきた。



 船が停止する。目的地にたどり着いたのだ。


 日は未だ高いところに浮かんでいる。調査する時間はたっぷりありそうだった。


 わたしたちはダイビングスーツに着替えた。ボンベを背負うと、今にすぐにでもダイブすることができる。


「ほら」


「これは?」


 マティスンが差し出してきたのは、一振りのナイフであった。その大型のナイフは、おもちゃのようなパステルカラーの持ち手と、丸まった先端をもってはいたものの、思わずぎょっとするような威圧感がそこにはあった。


「あんたが持ってるそのナイフだとちっちゃいだろって思ってな」


「確かに小さいかもしれないけど、そっちのだと大きすぎる」


 差し出されるままに、わたしは握り心地を確かめる。やっぱり大きい。頼りがいがあると同時に、いくばくかの恐怖を感じずにはいられなかった。それは、目の前の外国人に対して、抱いている感情とどこか似ていた。


 わたしは、マティスンにナイフを返す。ちょっと残念そうな顔をしている彼を見ていると、申し訳なくなると同時に不思議なおかしさがこみあげた。


「何笑ってんだ?」


「いや、筋肉質なのに、そんな悲しそうな顔をするとは思わなくて」


「マッチョマンだって悲しくならあ」


 言葉を聞いているだけで、わたしは笑みをこぼしてしまっていた。久しぶりに笑っていたような気がする。研究室にこもっているときには、笑おうなんて気分には全くなれない。南半球の陽気な気候がそうさせるのか、それとも、目の前の男がそうさせてくれるのか。


 どちらにしてもわたしは感謝していた。少なくとも、先ほどまで抱いていたような恐怖心はなくなっている。


 マティスンは、逃げるようにボンベの方へ行ってしまった。わたしは笑うのをやめて、そちらの方へ。


「ごめん。で、今から潜るところってどんな感じなの?」


「普通のダイビングスポットさ。まあ、いろいろな魚がいるが、サメがいる場所ではあるな」


 わたしは、マティスンがつくったと思しき簡素なサイトを思い出す。彼のツアーの目玉は、サメの鼻に手を触れることができる、刺激的な体験だったはずだ。ここは、その体験が行えるスポットの一つ、ということだろう。船から身を乗り出して海中をのぞき込めば、綺麗なサンゴ礁が広がっている。水深もそれほど深くない。


 だが、胸騒ぎがした。


「魚がいない?」


「バカ言え。そんなことが――」


 ボンベを背負ったマティスンがわたしと同じように、身を乗り出す。愕然としたように、その体が動きを止めた。


 澄み切ったエメラルドグリーンの海に、魚群はおろか、魚一匹いない。


 こんなことはあり得なかった。その一か所だけ、魚がいないだなんて不自然なのだ。海はつながっていて、水がある限り、その中を自由に泳ぐことができるのだから。


 わたしは隣のマティスンを見た。彼の目は細められ、遠くを睨みつけている。


「音響兵器か……?」


 わたしは、音響兵器とやらのことを訊ねた。それによると、指向性を持たせた音波によって攻撃する兵器らしい。


「なんていうか、それって、ネズミ除けみたいね。あれも超音波だし」


「まあ、似たようなもんだよ。でっかい音を、そいつだけに聞かせるんだ。音波だから海の中にも効果があるってわけ」


「それが、ここに?」


「ある……とは思えん。ここじゃあ、隠すものがすぐに見つかるだろうし、第一、こんな海の中に何を隠すっていうんだ?」


「確かに」


「だいぶ前のことだから自信はないが、このあたりに秘密基地があるとか、新兵器があるとかなんとかは聞いたことがねえから、たぶんないだろ」


「どうしてそんなことを知ってるの」


 聞けば、秘密だ、と言われてしまった。おどけた調子だったが、さっきの眼光は、一般人のそれではなかった。彼は、もしかしてすごい人だったのではないか、なんて思ってしまうほどには怖かった。


「ま、とにかく潜ってみよう。魚がいないってことは、襲われる危険性が低いってことでもある」


「……そうね」


 一抹の不安はあったが、わたしはマティスンの言葉に従った。恐怖よりも、アカホシウミユリに対する好奇心の方が勝ったのだ。


 わたしとマティスンは、言葉を交わすことなく、ダイビングの準備を進めていく。口を開けば、不安が口をついて、現実のものになるように思われた。


 準備を終え、わたしたちは、船尾からそろりと海へ着水する。ひやりとした海水が、わたしを包み込む。


「普通ね」


「死んだほうがよかったか?」


「まさか」


 魚がいないということ以外は、取り立てて変わらない海がそこには広がっているような気がする。だが、魚がいないだけなのに、海中の雰囲気は違うように感じた。まるで、巨大なアクアリウムの中にいるかのよう。


 わたしは、勘を取り戻すのもかねて、その場で潜る。手と足を大きく動かし、サンゴへと近づく。その色とりどりな動物たちは、強固な骨格を周囲へと伸ばしている。それは模倣品などではない。


 海面へ戻り、顔を出す。どうだ、という声に、OKサインで返す。


「それじゃあ、そのウミユリとやらを探せばいいんだな」


「そう。赤く光ってるはずだから、すぐにわかると思う」


 あいよ、という声ののちに、ざぶんと潜る音。わたしもそれに続いて、再び水中へ。


 ウミユリというのはたいてい、海底に存在している。海流に身を任せるように、ゆらゆら揺れるさまは、風に吹かれるユリそのもの。この辺りはサンゴ礁だから、そういった揺れるものは――その上発光までするのだから――すぐに見つかりそうなものだった。


 だが、なかなか見つからない。


 くまなく探してみても、海底で漂っているのは、藻くらいのもので、発光するものは見当たらない。


 そうこうしているうちに、わたしはサンゴ礁を出ようとしていた。背後を振り返ると、遠くに船が見えた。目前を見ると、海底は奥の方へと沈みこむように傾斜していた。結構な急角度で、下の方は青に染まって判然としない。


 その中に、赤く光るものが見えたような気がした。


 わたしは、手持ちのナイフで、頑丈そうなサンゴを思い切り叩く。コンコンという音は、遠くのマティスンにまで届いたはずだ。実際、彼はやってきた。わたしは海面を指さし、顔を出す。


「何か見つけたのか?」


「光るものを見つけた。赤く光る何か」


「警戒灯ってことはないか。じゃあ、それが」


「たぶん、そうだと思う」


 人工的な光ではない、ぼんやりとした光を思い出すとそこはかとない不安がわたしの中に浮かび上がってきた。


 マティスンは、わたしが指さした先を、じっと見る。


「よし、じゃあ、おれが先行する。あの先は深そうだし、何より動きを見るに久しぶりなんだろう」


「わかった」


 提案に乗ることにしたのは、最近の運動不足がたたって疲れ始めていたから、というのもある。だが、それよりも一緒にいれば、漠然とした恐怖も忘れられるのではないかと思ったからだ。


 マティスンが潜り、その後にわたしも続く。


 酸素ボンベはまだ半分ほど余裕があった。太陽も沈み始めようとしていたが、日没まではまだまだ時間がかかりそうである。


 下へ下へと潜っていく。透明だった海は、次第に青さを増していき、プランクトンのせいもあって、視界が利かなくなっていく。


 パッと、光が伸びた。まっすぐな強い光。車のハイライトをほうふつとさせるそれは、マティスンの手元から照射されていた。わたしも彼に見習って、ライトの電源を入れた。


 光線を左右に振っても、魚の姿はない。その上、周りは暗くなりつつあって、先ほどよりもずっと恐怖は増した。


 傾斜に沿って下りていくと、じきに海底が見えてくる。大きめの岩がごろごろとして、サンゴは見当たらない。そういえば、光の量が少なくなったからか、寒くなったような気がしないでもない。


 そうやって、周囲を見渡していると、とんとんと肩を叩かれた。あんまり離れるなよ、というサインがやってきたので、首を縦に動かして返事する。


 周囲に目線を向ける。写真を見る限り、アカホシウミユリは海底に根を張っているような感じだから、下を見ていたらいずれ見つかるはずだ。


 目を皿のようにして探す。近くにはなくて、奥へ奥へと進んでいく。


 気が付くと、ごつごつとした岩は姿を消していた。書いては、砂地でもないのになだらかで、時折、波のようにうねっている。光を当てると、灰色をしていた。


 マグマが冷え固まったものかもしれない。海中でこうなるかは知らなかったが、高校生の時にならったマグマは、こんな感じだった気がする。


 それに、論文によれば火山が噴火したのちに、アカホシウミユリは発見されたとある。無関係とは思えない。とすると、アカホシウミユリは近いのではないか――。


 視界の先にぼんやりとした光が見えた。赤い光。アカホシウミユリと思しき光。


 わたしはライトを点滅させて、マティスンへと合図を飛ばす。それから、光の下へと近づいて行った。


 それは果たして、アカホシウミユリであった。


 ゆらゆらと揺れるからだ、植物を思わせるような腕。遠めからはユリのように見えなくもないが、それはさかさまになった箒のようだ。それに何より、ユリは綺麗だが、目の前のアカホシウミユリは、幻想的であり、不気味だ。海の底で、不気味な赤色光を発しているからかもしれない。


 アカホシウミユリの前に立ち、顔を近づけて観察してみる。それそのものは、やはりウミユリと何ら変わらない。上から見れば星形に見えるし、腕もおそらくは星形をしているだろう。光は脈打つように弱くなったり強くなったりしている。――論文に書いてあるままだった。


 紙面上だと現実感に乏しかったが、こうして目の前にあっても、それは幻想のようだ。わたしは幻を見てるんじゃないか。死ぬ前の勝手な妄想……。


 酸素の残りは、まだまだあった。死にかけているというわけではないらしい。


 らしくないな、と思った。幻覚だとかなんだとか思ってしまうのも、アカホシウミユリが放つ光のせいなのかもしれない。もしくは、この環境がそうさせるのか。


 とにもかくにも、目的のものを見つけたのだ。後はサンプルとして回収するだけだ。


 わたしが、取り出したナイフで、付け根の方から刈り取っている間に、マティスンがやってきた。彼は隣に立ち、正面を向いているようであった。採取が完了したので、わたしも正面を見る。


 一面の赤。


 一段下がった海底には、おびただしい量のアカホシウミユリがいた。群れを成しているとわかったのは、自分でもどうしてかわからない。ただ、星形をした赤い光を見ていると、そう思ってしまっていた。


 光は明滅する。ゆっくりゆっくり。それは、こちらへといざなっているというよりは、むしろ逆なのではないか。


 わたしたちは、その人知を超えたような光景に、すっかり目を奪われてしまった。


 どのくらいそうしていたかはわからない。だが、わたしの心の中には、別の目的が生まれていた。


 ――あっちに行ってみない。


 そのような意図を込めて、赤い光の群れを顎でしゃくった。


 マティスンは、ぎょっとしたように目を見開いていたが、肩をすくめるようなそぶりをした。それから、腕時計と酸素ボンベを指さす。リミットは厳守するということだろう。わたしは頷いた。調査はしたいが、死にたくもない。


 わたしたちは、前方へと泳いでいく。


 赤い光の上をわたしたちは泳いでいく。真下でゆらりと動くのは、そのすべてがアカホシウミユリ。その星形のものによって、赤い星が海の底につくられている。アカホシ、なんてよくもまあぴったりな名前を付けたものだと、感心した。……そうでもしないと、大自然の驚異に、打ちのめされてしまいそうだったのだ。


 しかし、実に綺麗な星形をしていた。集団で生息する動物は数多く存在すれど、ここまではっきりと五芒星を描く群れというのは、存在しているだろうか。それも、高等な知性を有していないウミユリが、そのような行動をとっているのだから驚く。


 ゲノム編集が行われているというのが本当だとして、それによって、目の前に広がっているような光景が起きているのであれば、納得できる。自然に進化した方が、おかしいとさえ思った。


 奥へと進むほどに、光は強くなる。それそのものが発する光量は変わっていない。アカホシウミユリそのものが増えていた。ゆらりゆらりと、それらが海流に揺さぶられて、体を右へ左へ動かす。それは、収穫寸前の麦畑を連想させた。


 視線を前方遠くへと伸ばす。赤い波の向こうには、何やら物体が見えた。


 それは、最初、ただの岩か何かだと思われた。だが、近づいて行けば行くほどに、そうではないことがはっきりとしてきた。


 柱だ。


 何かしらの石柱が斜めに傾いていたのである。わたしは、建築物に詳しくはない。ただ、ギリシャとかで見る神殿にありがちなやつだとは思う。だが、そんなことはどうでもよかった。


 なぜ、こんな海の底に、そのようなものがあるのか。


 神殿。


 なら、その前にいる、この生物たちはまるで、神を崇める信徒のようではないか――。


 ぞくりと背筋に冷たいものが走った。そんなわけがないと思いたかった。目の前の石柱にしたって、一本だけなら、昔のものがここまで流されてきただけなのかもしれない。


 わたしの願望は容易く打ち崩された。似たような石柱は無数に見つかり、神殿そのもののような建物さえあったのだ。


 歴史学者じゃなくても、これが異常なことだとわかる。柱の一本が流されてきたのとはわけが違う。


 ここに、あの神殿は建っていた。


 ここに大陸があったのだ。


 マティスンが船上で話していたことが思い起こされる。


 ――ここにはムー大陸なるものがあって、文明があったのではないか。


 それが意味するのは、彼らが、このアカホシウミユリという生物をつくりだした張本人ということ。


 恐怖が増す。それでも、わたしは泳ぐことを止めない。


 先に、何かがある。


 そんな直感めいたものが頭に浮かぶのは、アカホシウミユリが、半壊した神殿を覆いつくし、その先へと伸びていたからだ。


 何があるのか見てみたい。


 わたしは、知的好奇心に導かれるままに、進んでいた。……少なくとも、そのつもりだった。だが、今思うと、それは間違っていたのかもしれない。ただ単に、狂気に陥って、戻るのが――背を向けてしまうのが怖かっただけだろう。


 マティスンも少なからず興味を抱いていたに違いない。じゃなければ、異様だったに違いないわたしを止めようとしていたはずだから。


 一面に広がる光景は、生理的な恐怖を駆り立てるものであり、抗いがたい魅力があった。


 神殿の先は、斜面となっている。見上げるほどの大きな山だ。気が付かなかったのは、山の手前にアカホシウミユリの光があったからだろう。だが、その山は、今の今まで気が付かなかったのがおかしなほどに、大きく迫力があった。


 富士山のように整った綺麗な海山だ。その頭からは、白い線が細くたなびいている。海底火山というやつらしかった。


 そういえば、肌を包み込んでいた冷たさが、いつの間にかなくなっていた。火山の熱がここまで伝わっている。それほどの熱を、あの山は秘めている。


 わたしは、足元の光に目を向ける。脈動するかのような光は、火山が生み出す熱を得るために集まっているのかもしれない。そのような生物はごまんといる。――だから、そう考えると、アカホシウミユリに対する恐怖にも似た感情は薄らいだような気がした。


 そうして、わたしはアカホシウミユリを見ていた。


 変化が起きたのはその時である。


 光が、明滅を止めた。


 直後、耳をつんざくような音が、わたしの耳へと響いてきた。甲高い、モスキート音のような高音が生じると同時に、正面から何かがやってくるような感じがした。


 わたしは、マティスンを見た。マティスンもまた困惑している。わたしにも、何が何だかわからなかった。ちょうど、その音は、危機に瀕した生物が上げる威嚇の音にも似ていたが、あまりにも急だった。威嚇するなら、わたしが採取する際に起きるべきなのに。


 超音波ののちにわたしたちは正面から抵抗を感じた。それは徐々に強くなっていく。水流だ。突然生まれた水流が、わたしたちのことを押し流そうとしていた。海流とは違う、作為的な力。それが、超音波によるものだと気が付いたものの、抗うすべはなかった。腕を動かし、足をばたつかせても、びくともしないのだ。じきに疲れてしまって、わたしは流されるままになった。


 だが、マティスンは、歴戦の勇士だった。彼が豪語していたことは本当で――後日彼がアメリカ海軍特殊部隊に所属していたことを知った――強い流れが押し寄せてきても、丸太のような腕を動かして、じりじりと前に進んでいた。すさまじい、運動能力。目に見えない力に対して、恐慌せずにいられるメンタルは、兵士というほかない。


 彼が、先へと進もうとしているのを、わたしは見ていることしかできなかった。……今思うと、どちらが幸せだったのか。


 赤い光が一斉に動き出した。アカホシウミユリが、動いたのだ。それ自体は不思議なことではない。ウミユリという種は、海流に乗って旅する個体も存在しているのだ。だが、その動きには、明確な目的、確固たる意志があった。それに何より、海流に逆らうような動きをしているものもいた。


 光は二つに分かれた。大部分は火山へと。一部はマティスンの方へと。


 あっという間もなかった。アカホシウミユリは、マティスンをすっかり覆いつくしてしまった。赤く光る人型は最初こそ、暴れていたのだ。だが、その動きはだんだんと弱まっていく。最後に、大きな泡が、人型の口のあたりから出て行ったかと思うと、動かなくなった。


 死んだ。死んでしまった。それを認識しつつも、どこか他人事、絵空事のように思われてならなかった。サメに噛みつかれたとか、毒のあるものに刺されてしまったとかならわかるし、恐怖してしまっただろう。でも、目の前で起こったことは、あまりにもあっさりしすぎて、現実味に乏しかった。


 わかったのは、マティスンが死んでしまったということだけ。


 火山が鳴動した。


 噴き出す泡が、大きくなる。ボンっと軽い衝撃がこちらまで伝わってくる。


 泡に紛れて、巨大な何かが河口から顔をのぞかせようとしていたような気がしたが、それはまもなく、大量の赤に埋め尽くされて見えなくなった。



 その後、どうやって船まで戻ったのか、わからない。放心状態だったわたしは、それでも講習で習った、遭難した際の手引きを覚えていたらしく、船の救難信号をオンにしていたのだ。


 そうして、わたしは助かった。


 後日、わたしは取り調べを受けた。マティスンがいなくなっており、その場にいたのはわたし一人だったのだから、わたしが疑われるのは当然のことだった。


 わたしは正直に話した。だが、信じる者はいなかった。ただ、大きなショックを受けたと判断された。心神喪失状態で、不起訴処分となったのである。


 そんなあれこれが終わり、いつもの日常が戻ってくる。


 手元に残ったのは、アカホシウミユリのサンプルだった。陸に上がり、干からびてしまったそれにわたしは火をつける。


 水分を失っていたそれは、じきに灰となって、灰皿に落ちた。

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うみのほし 藤原くう @erevestakiba

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