ace :2

Ito Masafumi

第1話

 東京都七節区七節町ななふしくななふしちょう。夜が更けた川沿いの歩道を、警視庁刑事部捜査一課の主任刑事である古橋豊ふるはしゆたかが七節警察署へ向かって歩いていた。そのとき、古橋の目の前に突如として、得体の知れない人物が現れた。黒いハンチングを被り、えりを立てたベージュのオーバーサイズコートを羽織って、黒革の手袋に同色のブーツを身に着けている。下がった右手にはなにか握られているが、暗がりでよく見えなかった。異様なのは、顔に『橋姫はしひめ』と呼ばれる能面をつけていたことだった。その面は血を浴びたように真っ赤だった。一瞬狼狽うろたえた古橋だが、すぐに威圧的な態度に急変させた。

「誰だ。お前?」

古橋がそう訊いた直後、能面の人物はすかさず右腕を上げて古橋に向けた。「カシュン」という小さな音が二回響き渡ったあと、古橋は脱力したように仰向けに倒れた。能面の人物は面の奥から、激しい憎しみに満ちた眼で、動かなくなった古橋の姿をじっと見つめていた。


 明くる日、東京都郊外にある精神科病院。その一室で、白い上下のスウェットを着た女が、リクライニングチェアに仰向けに寝そべっていた。投げ出した足首を交差させ、指と指を互いに組み合わせた両手を腹に置いて、窓越しの晴れ渡った空を眺めている。その女こそ、警視庁刑事部捜査一課の警部、緋波千里ひなみちさとであった。

「私が不在の間大変だったでしょ。捜査に復帰したんだって?三浦みうらさんが愚痴ってたわよ。ほら、あの眼鏡の。『警察って組織は捜査のためなら、治療中の患者を無理やり退院させるのか』って」

傍らで、臨床心理士の天海麗子あまみれいこが、デスクトップパソコンの画面に硬い視線を向け、キーボードを叩きながら言った。麗子は千里より一回り年上の、黒く長い髪が特徴的な美形の女だった。

「復帰じゃない。気になったことがあったから手伝っただけ」

千里は姿勢を変えずに素っ気なく答えた。

綿矢わたやさんから聞いたわ。妹さんに関係する事件だったんですってね。気になるのも無理ないわよね」

キーボードを叩き終えた麗子が、椅子を反転させてあしを組み、千里を見た。

「あのクズ。余計なことベラベラしゃべりやがって・・・」

千里は独りごちた。

「犯人を捕まえたのはあなたなんでしょ。すごいじゃない。二年間ブランクがあったのに。さすがね」

麗子は褒め立てた。

「そりゃどうもー」

気のない返事をした千里に麗子は、やや身を乗り出して訊いた。

「で、最近はどう?妹さんの幻覚は見える?」

「ここ一週間はない」

千里の答えに、麗子はうなずいた。

「いい兆候ね。症状が和らいできてる。この調子で治療を続ければ、完治も遠くないわね」

安堵がこもった声を麗子が出すと、千里が突拍子もないことを言う。

「ここ、思ってたより居心地いいんだよねえ。いっそのことずっと入院してようかなー」

冗談めかしに千里は発したが、麗子は真に受けたかのような表情で、その考えを拒否した。

「それはダメ。完治したらさっさと出てって」

「わかってるわよ・・・」

千里は笑みをこぼした。

「あのね、緋波さん」

麗子の顔がより真剣になった。

「昨日、綿矢さんから連絡があったの。あなたにまた事件の捜査に参加してほしいって」

千里から笑みが消えた。

「嫌よ。断って」

はねつけた千里を、麗子が説き伏せようとする。

「そうね。私が言えば断ることはできるわ。でもねー、私としては、綿矢さんの申し出を受けたほうがいいと思うんだけどなー」

「なに言ってんの?」

千里は上体を起こし、顔を麗子に向けた。

「緋波さん。私はあなたをできるだけ早く復職させたいの。そのためには仕事で少しずつ体と心を慣らして、最終的には、ここに来る前のあなたに戻ってほしいのよ。警察官って職業は命懸けなのはわかってる。だけど、今のあなたには仕事をすることで症状が改善する兆しがあると、私は考えてる」

麗子のひたむきな眼差しに、千里は目を閉じてしばらく黙考すると答えた。

「わかった・・。行くだけ行ってみる。でも、私が必要じゃないとわかったらすぐに帰るから・・・」

千里の言葉に、ほっとため息を吐いた麗子が告げる。

「実はね、今さっき綿矢さんから連絡があったの。もう迎えを寄越してるんだって。そろそろ来るころじゃないかしら」

麗子が腕時計を見る。それを聞いた千里がバタンと上体を倒した。

「なんだよそれ!」

千里は眉をひそめ、ひたいに拳を当てて叫んだ。


 精神科病院の広い待合室に、スーツ姿の若い男がせわしない胸中で、千里が来るのを待っていた。警視庁刑事部捜査一課の警部補、諸星学もろぼしまなぶである。その諸星が首を長くしていると、以前に聞いた靴音が響いてくる。長袖のカットソーの上に革のテーラードジャケットを羽織り、デニムのスリムパンツに革のショートブーツと、全て黒一色で統一された服装の千里が、ナチュラルブラウンのロングヘアーをかきあげて歩いてきた。

「緋波警部、ご無沙汰しております」

諸星が頭を下げて敬礼した。

「ご無沙汰ってほどでもないでしょ」

千里が愛想なく言った。

「まずは現場に来てください。今朝、遺体が見つかったんです。話はそこで。バッジと装備品はダッシュボードの中にありますんで、着いたら装着してください。さあ、行きましょう」

会って早々急き立てる諸星に不快感を覚えながらも、千里は病院を出た。


 七節町にある川沿いの歩道。周辺には数台の警察車両が停まっており、バリケードテープで規制線が張り巡らされていた。千里と諸星が乗った覆面パトカーが、捜査員が行き来する事件現場に到着すると、グレーのスーツ姿で短髪のがっしりとした体格の男がひとり、車を降りた千里に近づいてくる。その男は七節警察署刑事課強行犯係の巡査部長、滝石直也たきいしなおやだった。

「先、行ってて」

滝石に気づいた千里が諸星に言った。

「は・・、はい」

答えた諸星は白手袋をはめると、制服の警察官から靴カバーを受け取り、バリケードテープを潜っていった。千里と滝石が向かい合う。

「『またいつか』と言いましたが、まさか一週間後に再びお会いできるとは思いませんでした」

滝石は千里に再会できたのが嬉しいのか、笑顔を見せた。

「私も」

微笑みで千里が返した。


 遺体を検めていた老年の男、警視庁刑事部鑑識課係長の芳賀岳彦はがたけひこが立ち上がり、遠くを見遣ると諸星を呼んだ。

「諸星」

その呼び声に諸星が駆け寄ってきた。

「はい。どうしました」

「なんであいつがいる?」

芳賀は滝石と話している千里をあごで指した。

「綿矢警視が呼んだんです。たしか前にこんなこと言ってましたね。『エース』がどうのとか、『ポーカー』がどうのとか」

諸星のおぼろげな説明にもかかわらず、芳賀は頬にできたしわを上げて納得顔になった。

「ああ、なるほど。「ace in the hole」か。スタッドポーカーだろ?」

芳賀の答えに諸星はうなずいた。

「そうです!それです!」

「場に伏せたカードがエースなら、そのカードは最強の切り札になる。あいつが切り札ってわけか。綿矢が考えそうなこった」

「どういう意味です?」

諸星が芳賀に訊ねた。

「知らねえのか。緋波はな、休職する前は一課で検挙率トップだったんだよ。で、当時直属の上司だったのが綿矢だ」

「そうだったんですか。全然知らされてませんでした」

「綿矢は、口には出さないが、あいつの腕を買ってたしな。だから呼んだんだろうよ。ま、俺が例えるなら「ace up the sleeve」のほうだけどなあ・・。つっても意味は変わらねえか・・・」

芳賀の発した言葉の一部に反応した諸星が訊き返す。

「はい?」

「なんでもねえよ・・。にしても、あいつ大分雰囲気変わったなあ。髪まで染めやがって。妹さんの事件のせいかあ?」

千里の髪型や服装を見て芳賀が言った。

「ご存じなんですか」

「あいつの妹さんが亡くなった現場に臨場してたからな」

そう答えた芳賀はしゃがんで再度、鑑識作業を始めた。


「自分は一旦署に戻りますので。失礼します」

 一礼した滝石は走り去っていった。千里は装備品と捜査一課の赤い丸バッジを身に着けると、靴カバーを履いて事件現場に足を踏み入れた。


 片手に白手袋を持った千里が進んでいくと、遺体の周辺を鑑識員が取り囲んでいる。そのうちのひとり、芳賀の背中が千里の視界に入った。

「よう、緋波。二年ぶりだな」

千里に視線を向けず、部下に指示を出しながら芳賀が声をかけた。

「お久しぶりです」

白手袋をはめながら小さな声で千里は返事をすると、覗き込むように遺体を見た。

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