ace :2
Ito Masafumi
第1話
東京都
「誰だ。お前?」
古橋がそう訊いた直後、能面の人物はすかさず右腕を上げて古橋に向けた。「カシュン」という小さな音が二回響き渡ったあと、古橋は脱力したように仰向けに倒れた。能面の人物は面の奥から、激しい憎しみに満ちた眼で、動かなくなった古橋の姿をじっと見つめていた。
明くる日、東京都郊外にある精神科病院。その一室で、白い上下のスウェットを着た女が、リクライニングチェアに仰向けに寝そべっていた。投げ出した足首を交差させ、指と指を互いに組み合わせた両手を腹に置いて、窓越しの晴れ渡った空を眺めている。その女こそ、警視庁刑事部捜査一課の警部、
「私が不在の間大変だったでしょ。捜査に復帰したんだって?
傍らで、臨床心理士の
「復帰じゃない。気になったことがあったから手伝っただけ」
千里は姿勢を変えずに素っ気なく答えた。
「
キーボードを叩き終えた麗子が、椅子を反転させて
「あのクズ。余計なことベラベラしゃべりやがって・・・」
千里は独りごちた。
「犯人を捕まえたのはあなたなんでしょ。すごいじゃない。二年間ブランクがあったのに。さすがね」
麗子は褒め立てた。
「そりゃどうもー」
気のない返事をした千里に麗子は、やや身を乗り出して訊いた。
「で、最近はどう?妹さんの幻覚は見える?」
「ここ一週間はない」
千里の答えに、麗子はうなずいた。
「いい兆候ね。症状が和らいできてる。この調子で治療を続ければ、完治も遠くないわね」
安堵がこもった声を麗子が出すと、千里が突拍子もないことを言う。
「ここ、思ってたより居心地いいんだよねえ。いっそのことずっと入院してようかなー」
冗談めかしに千里は発したが、麗子は真に受けたかのような表情で、その考えを拒否した。
「それはダメ。完治したらさっさと出てって」
「わかってるわよ・・・」
千里は笑みをこぼした。
「あのね、緋波さん」
麗子の顔がより真剣になった。
「昨日、綿矢さんから連絡があったの。あなたにまた事件の捜査に参加してほしいって」
千里から笑みが消えた。
「嫌よ。断って」
はねつけた千里を、麗子が説き伏せようとする。
「そうね。私が言えば断ることはできるわ。でもねー、私としては、綿矢さんの申し出を受けたほうがいいと思うんだけどなー」
「なに言ってんの?」
千里は上体を起こし、顔を麗子に向けた。
「緋波さん。私はあなたをできるだけ早く復職させたいの。そのためには仕事で少しずつ体と心を慣らして、最終的には、ここに来る前のあなたに戻ってほしいのよ。警察官って職業は命懸けなのはわかってる。だけど、今のあなたには仕事をすることで症状が改善する兆しがあると、私は考えてる」
麗子のひたむきな眼差しに、千里は目を閉じてしばらく黙考すると答えた。
「わかった・・。行くだけ行ってみる。でも、私が必要じゃないとわかったらすぐに帰るから・・・」
千里の言葉に、ほっとため息を吐いた麗子が告げる。
「実はね、今さっき綿矢さんから連絡があったの。もう迎えを寄越してるんだって。そろそろ来るころじゃないかしら」
麗子が腕時計を見る。それを聞いた千里がバタンと上体を倒した。
「なんだよそれ!」
千里は眉を
精神科病院の広い待合室に、スーツ姿の若い男がせわしない胸中で、千里が来るのを待っていた。警視庁刑事部捜査一課の警部補、
「緋波警部、ご無沙汰しております」
諸星が頭を下げて敬礼した。
「ご無沙汰ってほどでもないでしょ」
千里が愛想なく言った。
「まずは現場に来てください。今朝、遺体が見つかったんです。話はそこで。バッジと装備品はダッシュボードの中にありますんで、着いたら装着してください。さあ、行きましょう」
会って早々急き立てる諸星に不快感を覚えながらも、千里は病院を出た。
七節町にある川沿いの歩道。周辺には数台の警察車両が停まっており、バリケードテープで規制線が張り巡らされていた。千里と諸星が乗った覆面パトカーが、捜査員が行き来する事件現場に到着すると、グレーのスーツ姿で短髪のがっしりとした体格の男がひとり、車を降りた千里に近づいてくる。その男は七節警察署刑事課強行犯係の巡査部長、
「先、行ってて」
滝石に気づいた千里が諸星に言った。
「は・・、はい」
答えた諸星は白手袋をはめると、制服の警察官から靴カバーを受け取り、バリケードテープを潜っていった。千里と滝石が向かい合う。
「『またいつか』と言いましたが、まさか一週間後に再びお会いできるとは思いませんでした」
滝石は千里に再会できたのが嬉しいのか、笑顔を見せた。
「私も」
微笑みで千里が返した。
遺体を検めていた老年の男、警視庁刑事部鑑識課係長の
「諸星」
その呼び声に諸星が駆け寄ってきた。
「はい。どうしました」
「なんであいつがいる?」
芳賀は滝石と話している千里を
「綿矢警視が呼んだんです。たしか前にこんなこと言ってましたね。『エース』がどうのとか、『ポーカー』がどうのとか」
諸星のおぼろげな説明にもかかわらず、芳賀は頬にできた
「ああ、なるほど。「ace in the hole」か。スタッドポーカーだろ?」
芳賀の答えに諸星はうなずいた。
「そうです!それです!」
「場に伏せたカードがエースなら、そのカードは最強の切り札になる。あいつが切り札ってわけか。綿矢が考えそうなこった」
「どういう意味です?」
諸星が芳賀に訊ねた。
「知らねえのか。緋波はな、休職する前は一課で検挙率トップだったんだよ。で、当時直属の上司だったのが綿矢だ」
「そうだったんですか。全然知らされてませんでした」
「綿矢は、口には出さないが、あいつの腕を買ってたしな。だから呼んだんだろうよ。ま、俺が例えるなら「ace up the sleeve」のほうだけどなあ・・。つっても意味は変わらねえか・・・」
芳賀の発した言葉の一部に反応した諸星が訊き返す。
「はい?」
「なんでもねえよ・・。にしても、あいつ大分雰囲気変わったなあ。髪まで染めやがって。妹さんの事件のせいかあ?」
千里の髪型や服装を見て芳賀が言った。
「ご存じなんですか」
「あいつの妹さんが亡くなった現場に臨場してたからな」
そう答えた芳賀はしゃがんで再度、鑑識作業を始めた。
「自分は一旦署に戻りますので。失礼します」
一礼した滝石は走り去っていった。千里は装備品と捜査一課の赤い丸バッジを身に着けると、靴カバーを履いて事件現場に足を踏み入れた。
片手に白手袋を持った千里が進んでいくと、遺体の周辺を鑑識員が取り囲んでいる。そのうちのひとり、芳賀の背中が千里の視界に入った。
「よう、緋波。二年ぶりだな」
千里に視線を向けず、部下に指示を出しながら芳賀が声をかけた。
「お久しぶりです」
白手袋をはめながら小さな声で千里は返事をすると、覗き込むように遺体を見た。
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