プア・マリア〝アーマー・フォー・スリープ〟
重永東維
第壱章「烏(カラス)」
壱の1
どんよりとした雲が延々と続き、真冬の寒空を覆い尽くしている。
今にでも雪が降り出しそうな雲行き……。列車の窓から曇天の空色をじっと見つめ、青年は図らずしも顔を
駅の到着と共に、車掌の軽快なアナウンスが流れる。
乗車口の隙間から冷気が流入し、自動で引戸がゆっくりと開く──。
青年は使い古した帽子を深めに被り、大きなアタッシュケースを持って駅のホームに降り立ち、次いで懐中時計を手にして時間を確認した。
肌寒い北風が吹きすさび、身を刺すような冷たさ。こうして、雪雲はどこまでも追ってくるものか。寒さを防ぐようにカストロ・コートの襟に首元を埋め、東京の喧騒に戸惑いつつも、
鉄骨が幾重にも重なり合い、
ステンドグラスのような眩しい色合い……。洋風でやや宗教的な趣きを感じつつも、その彩りの美しさに目を奪われるばかり。しばし立ち止まり、神々しいまでの光景を眺めた。遠路遥々、北海道の山奥から数日かけて出てきて介もあり、都会の洗礼を浴びている気分になった……。
札幌の街も開けてはいたが、東京とはまた趣向が違う気がする。
物珍しさも手伝ってか、あれこれと目移りしてしまう。そうして、広々とした小路口には地方の祭りを意識したような巨大な催しものが
──時は、西暦一九六二年の十二月暮れ。
昭和三十七年を示す大きな垂れ幕が随所から降りている。
購買欲を唆るような演出にも感心して、左吉は図らずも感嘆の声をあげた。
東京オリンピックを再来年に控え、商売上手というより、品物の売り方をよく心得ているようだ。宣伝や広告を大きく打つ側面もあるかもしれないが、顧客の心を掴んだ賢い戦略──。露店で販売されている特産品もさることながら、そんな活気の良さも新鮮だった。
……とはいえ、これでは田舎もの丸出しではないか。
青年は小っ恥ずかしさを覆い隠すように帽子を被り直し、慣れない人混みを掻き分けてゆく。そして駅員に切符を渡し、改札口を抜けてロータリーのある広場へと小走りで躍り出たのだった。
外はバスやタクシーの排気ガスで霞がかっており、車で道を埋め尽くすほどの交通量……。分かっていたが、物凄い人の数である。話には聴いていたが、何処も彼処も人と車で溢れ返っている。北の玄関口でもある上野の駅前では雑多な人々が行き交い、各々が忙しなく歩き回っていた。
近代的な街並みに面を食らいつつ、直ぐ近くには『金の卵』と呼ばれる集団就職の中学生たちの群れ……。旗を掲げて先導する教師に連れられて東北からやってきたのだろう。真っ赤に紅潮させた頬と不安そうな面持ち。これから、急速に発展してゆく日本経済に備えて、多くの若い労働力が必要だった。
そんな新聞の三面記事を思い出し、青年は待ち合わせ場所である高架線沿いの壁際まで辿り着き、灰色の空を仰ぎながら一息をつく。
昨日の早朝、旭川を出発してバスや列車を乗り継ぎ函館へ。そこから青函連絡船で約五時間の道のり。青森に着く頃にはとっぷりと日も暮れ、遠路はるばる夜行列車に揺られて東京までやってきたのだった……。
途中、車両の故障に見舞われてしまい、約束の時間に遅れてしまったが、先方は大丈夫だったろうか。いざという時のために停車駅の公衆電話から連絡を入れておいたものの、受話器の向こうから怪しげな電信音が聞こえるだけ……。不審に思いつつも、左吉は手順通りに事を進めたのだった。
……果たして、待ち人は現れるのだろうか。
早朝に到着する筈が既に昼の十二時を過ぎている。そろそろ、小腹も空いてきた。青年は短く刈り上げたもみあげ側面と襟足を撫でて帽子を脱ぐ。その日本人ぽくない薄茶の髪色と両耳につけてある耳飾りを少しだけ気にした。
その耳飾りは青年の一族の慣習であり、成人になった証でもある。
やはり、少し目立つ。事前に耳飾りぐらいは外しておくべきだったか……。本土では一般的なものではないだけに、どうも人目が気になってしまう。
ただ、待ち合わせ相手にとってはちょうど良い目印になると、そのまま身にしておいた経緯もある。誰かに絡まられなければいいが……、青年はため息をつくように袖を捲り、手に握られた懐中時計を再び確認する。そして空虚に乱立する建物をぼんやりと眺めた。
──すると、高架線の物陰から一人の男が現れたのだった。
一瞬だけ、その男と目が合う。煙草を口に咥えて紫煙を吐き、周囲を頻りに気にしながら足早に寄ってくる。痩せ型でひょろりと高い身長。黒に近い背広姿と、襟締などはしておらずシャツの喉元のボタンを開け、非常に砕けた服装だった。
長めの髪を前から後ろに流し、目鼻立ちのしっかりした顔をしている。
年齢は四十代前半から半ばぐらいの壮年だろうか……。左眼が右眼と比べて半目になっている。それ等は事前に聞かされていた情報と合致した待ち人の特徴でもあった。加えて、胸元につけている鳥の記章がはっきりと本人であることを裏付けていた。
男は目を細めて左吉の前に立ち、煙草をもう一服してから地面に落とす。
小さく立ち籠める煙。それを足で乱雑に踏みつけてから、おもむろに口を開いたのだった。
──「薄茶の髪色と耳飾り。あんたが、左吉さんかい?」
──「あっ、はいっ!
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