[到着]

 着いたのは午前6時過ぎ。

 4月の朝はまだ肌寒い。

 裏道を選び数時間、力を必死に振り絞って漕いで来た自転車を某駅前で乗り捨て始発に飛び乗りここまでたどり着いた。

 全身に広がる疲弊感。


 昨夜から何も食べずに緊張と気合いが入り交じる精神状態で心に鞭打ち、ひたすら〈あそこ〉から離れゆく距離だけを励みにペダルを踏んできた両足はパンパンで、歩くだけで通常の倍の重さを感じる有り様だ。


 だから・・・・大丈夫。

 たぶん・・・・。

 今はもう"たぶん"に掛けるしかない、一か八か、だ。


 行動監視のために持たされたスマホは捨てた。

 産まれ落ちてから身にまとわりついた環境のすべてを捨てた私はまさに白紙。


 乃木谷笙子のぎたにしょうこ二十歳はたち=私、の"これまで"を完全に封印かつ"無"にする覚悟は決まっている。


 逃げる。 

 逃げる。

 絶対に逃げ・・・・きるしかない。 


(ネカフェの場所は・・・・)


 捨てる前のスマホで最後に調べた24時間営業のネットカフェを目指し、重い足取りで私は歩き出した。


────────────────────


 目的のネカフェは割とすぐに見つかった。

 駅の裏手の路地にある古びたビルの地下、目立たない場所でホッとする。

 通勤時のピークの時間帯でもここなら人通りも多くなさそうだ。


〈たぬたぬらんどカフェ〉と書かれた看板の新しさからすると、割と最近に出来た店のように見える。

 受付を済ませ指定された小部屋に入ったところで私は思わずへたり込んだ。

「疲れた・・・・」

 重い呟きが漏れる。

 身体のあちこちが油切れのようにギシギシしている感覚に、自分が今どれだけ疲労をしているかが分かる。


 しばらくぼんやりしたあとようやく身を起こし、緩慢な動きで私はPC前の黒い椅子に腰を下ろした。

 早速、とあるサイトにアクセスする。

 ID、パスワードを入力し──


(!)


 メッセージが来てる。

 ハンドルネーム《maogi》

 今の私にとっての唯一の救い。


『無事?』


 たった一言。

 それだけで安堵する。

 書き込み時刻を見ると30分ほど前になっている。


『大丈夫です。ありがとう。とりあえずネカフェに落ち着きました』


 そう書くと1分ほどで返信が来た。


『良かった!心配してました。で、どうです? こちらはすぐに迎えに行けますよ?』

『ありがとうございます。ちょっとここで昼頃まで休んでもいいでしょうか? ぜんぜん寝てなくてフラフラで・・・・』

『なるほど、わかりました』

『すみません』

『大丈夫ですよ、のちほど連絡お待ちしてますね』

『はい。昼頃にまたメッセージ入れます』

『待ってます』


 やりとりを終えたあと、私は一抹の心苦しさを感じた。

 

 maogiとの出会いの場はSNS。

 ネットの大海原の中に救いを求め、掴める希望を悲壮感に駆られながら探した末に見つけたサイト。


[女子専用 緊急事態ヘルパーズ]


 主に彼氏や旦那からのDV被害を受けている女性たちをその環境から脱出させる手助けをしているというボランティアグループ。

 そして私が心苦しく感じている点、それは"彼氏や旦那からのDV被害を──"の部分。  

 つまり、そこに私は嘘がある。

 環境からの脱出、それは決死の覚悟の真実だけれど、ひとりふたりの個人から逃げ出したわけじゃない。

 町──そう、私はとあるエリアそのものから逃げ、そして逃げのびようとしている。

 自分の命を守り人生を取り戻すために。


────────────────────


「あの~、大丈夫ですか~?」

 

 ハッ、とした。

 誰かが声を掛けている。

 

 コンコン・・・・「あの~」

(!?)

 横の壁だ。

 

「あ・・・・私、ですか?」

「ああ、女の人なんだ。何か唸り声してたから」

「え、あ、すみません。ちょっと寝ちゃってて・・・・」

「何だ、うなされてたのか・・・・じゃ、いいです」

「すみません・・・・」


 薄い仕切り板1枚の向こう側、あまり若くはなさそうな男性のその声からはたぶん本当に心配をしてくれたような雰囲気がした。

 同時に、そんな声掛けをされるほどうなされていたことに自分でも驚いた。


 壊れる寸前かもしれない・・・・。

 いや、壊れてる場合じゃない。

 しっかりしろ、自分。


『さっきはすみません。もう出られます』


 メッセージを送信し、maogiからの返信を待つ。

 不安感に胸がザワつく。


『OK! じゃ今から迎えに行きます。15分後、店を出た所にいて下さい』

『ありがとうございます。お願いします』


 3分と待たずに来た返信にホッとする。

 話が通じる人間に会える。

 それだけで気持ちが少しゆるんだ。

 完全に、までではないけれど。


────────────────────


「お待たせしました。初めまして」


 不安感を思い切り身にまとっているであろう私に向かって歩いてきた女性が柔らかい笑みで言った。


「あ、あの、初めまして」

「ふふ、緊張してます? 大丈夫ですよ。あ、これ私の」


 差し出された免許証。

 27歳。

 年齢は私とそれほど離れていない。 

 

「maogiこと多嘉良恭子たからきょうこです。あらためて宜しく」

「ありがとうございます。宜しくお願いします」


 私は深めに頭を下げ、カードを返した。

 この人は信頼出来る──そう確信を得た瞬間だった。


「あ、私は・・・・すみません、これで」


 免許も無くマイナンバーカードも取得していない立場の身として提示出来る物、紙の保険証とキャッシュカードを出した。

 顔写真は付いていない保険証の名前の本人確認のために、と。


乃木谷笙子のぎたにしょうこさん。綺麗なお名前」

「そう・・・・ですか? ありがとうございます」


 私にとっては手放しで喜べない誉め言葉に

複雑な思いがよぎる。


「じゃ、行きましょう。すぐ近くに車を停めてありますから」

「はい」


 ライトブラウンのしなやかなロングヘアーのスレンダーな後ろ姿を見つめながら私は歩き出した。




 



  




 

 






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