泡の追跡可能性

そうざ

Traceability of Bubble

 20XX年2月の或る寒い朝、A県の某村にて一人の女の子がこの世に生を受けた。

 後のアイ(仮名)である。

 産院に掛かる金も、頼れる身寄りもなかった母親は、自宅アパートで破水し、浴室で彼女を生み落とした。体重僅か二千五百グラムの未熟児であった。

 母親は、県立高校を中退した後、様々な職場を転々とし、やがて地元で有数のスナックに落ち付いた。アイの父親である筈の男とは、ホステスと客の関係から始まった。男はやくざ者だった。

 男は、女が妊娠した事を知るとたちまち姿をくらました。写真一枚すら残っていなかった為、アイは父親の顔を全く知らない。


 母親は、気の置けない同僚にだけ出産の事実を打ち明けた。同僚の厚意に依って、母娘はその縁故のもとに身を寄せる事になった。

 しかし、孤独と隣合わせの暮らしに変わりはなかった。

 アイは幼稚園や保育園に通わせて貰えず、友達を得るきっかけもなかった。母娘は雨露を凌がせて貰っているだけの居候、厄介者でしかなかった。

 少しでも家賃の入金が滞ると嫌味を言われた。そんな時、母親は店の客とホテル街へ消え、春を売った。

 当初こそが終わるや否や娘の許に急ぐ母親だったが、日毎夜毎の不摂生が次第に怠惰を呼び込み、外泊が増え始めた。それは母親に新たな情夫が出来た事実を物語っていた。

 やがて、縁故宅を逃げるように飛び出した母娘と情夫との生活が始まった。


 情夫は瞬く間にヒモとなり、母親からなけなしの金を巻き上げ続けた。加えて、酒癖の悪さは暴力へと結実し、修羅場が日常と化した。

 アイが己の存在をと認識したのはその頃だった。させられてしまった、というのが正確であろう。よわい十歳だった。

 その夜も、母親は金の為に夜の街へ出掛けていた。その肩書は辛うじてまだホステスだったが、内実は私娼だった。

 アイと情夫だけの時間に会話はなかった。

 自分の存在を無視し続ける少女に、情夫は苛立ちを感じていた。アイが愛想の良い子であったならば、事件は起きなかったかも知れない。

 情夫は、テレビに食い入っているアイに迫った。したたかに酔った情夫は、悪巫山戯わるふざけくらいにしか考えていなかった。

 ここで悪夢の所業をつまびらかにする事は、アイの名誉の為に控えたい。

 しかし、母親も半ば勘付いていながら見て見ぬ振りを続けたおよそ一年に亘る惨劇が、後のアイの生き方に多大な影響を及ぼしたであろう事は想像に難くない。


 アイが母親と絶縁したのは、それから間もなくの事だった。情夫の魔の手から逃れるには、それしかなかったのである。

 盛り場を徘徊する内に纏わり付く人間関係は例外なく刹那的で、昼夜逆転の生活リズムは腐れ縁の連鎖を生むだけだった。

 その後、アイが辿った顛末は、母親のそれを忠実に転写したものだった。男と無縁では居られない心と体は、止め処ない欲望の高みと行き場のない刷毛口を求めて彷徨を続けるのだった。


 転落と言うは易い。

 が、アイは生き続ける。

 例え自殺未遂を繰り返しても、自傷行為を続けても、前科を積み上げても、明日という日を信じ、今宵もまた外科手術で手に入れたGカップに虚ろな魂を潜め、同じく人工の容貌で笑い、がらんどうの心で咽び泣きながら、泡の芳香に包まれながら夢をひさぐ――。


『トレーサビリティー#19:アイの場合』完


 ※この映像は、消費者の《知る権利》の保証及び違法営業の根絶を主眼とする『性風俗産業従事者追跡可能法(通称:トレーサビリティー法』に基づいて制作されています。

 公安委員会から優良特殊浴場として認定されております当店は、同法の理念に基づき、お客様が安心且つ安全にサービス従事者と《既知の間柄》へと移行し、速やかに《時限的恋愛関係》を取り結んで頂けるよう、努めております。


 50インチモニターがホーム画面に戻ると、待合室のドアがノックされ、黒服の従業員が準備が整った旨を告げた。

 通された個室の入り口でひざまづいた嬢が破顔する。

「いらっしゃいませ、アイです。今宵は宜しくお願い致します……お客様、泣いてらっしゃる?」

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