秋の風

夏川りく

第1話

「あの、すみません。」

トントン。左肩に誰かが触れた。振り返るがそこには誰もいない。ふとしたに目をやると、古びた紙の券が落ちている。

―カタノ珈琲店 コーヒー一杯無料券―

「なんだこれ。」

深く考える余裕もなく、私は足早に職場に向かっていた。

仕事を終え、帰宅しようとする。あの券のことを思い出した。

「調べてみるか。」

検索0件。

「ん、ないのか。」

ずいぶん古いような紙だし、昔のなのかな。そこに、一匹の黒猫が通り過ぎる。よく野良猫は見かけるが、黒い猫は初めて見たため、気付くと目で追っていた。するとその黒猫は狭い路地に入るやいなや人の姿へと変わり、ある店へと入っていった。私は目を疑った。

「相当疲れているな。」

常識的に考えて有り得ないと思いつつ、好奇心には勝てず、私の足は路地裏へと向かっていた。

―カタノ珈琲店

ハッとしてポケットに入れていた券を取り出す。

「入ってみるか。」

チリン。

「いらっしゃい。」

帽子を深くまで被り、ほぼヒゲしか見えないような老人がコーヒーを淹れている。

「あの、これ。」

と言って、券を取り出す。

「はいよ。奥の部屋ね。」

強引に奥の部屋へと案内される。そこには、私がいた。

「待っていたよ。」

「え、誰、ですか。」

「私だよ。私はあなたで、あなたは私。」

「これまさか、ドッペルゲンガーってやつですか。」

「ご名答。」

「ドッペルゲンガーに会うと、死ぬんじゃ?」

「まあ、そんなことはどうでもいいんだ、君に頼みたいことがあるんだよ。君というか、私か! はっはっは。」

「はあ。」

「ドッペルゲンガーと会って欲しい。」

「え。」

「ここにいますよ。」

「んー、厳密にいうと違うんだよね。」

「君は偽物なんだ。本体を抹殺してきて欲しい。」

「え。」

「抹殺と言っても、ある人物に話しかけるだけさ。簡単なことだよ。」

「さっぱり意味が」

「いいかい、この世にドッペルゲンガーは2人いる。本体と合わせて、私という人間は3人いるということになる。本体と偽物が会うと、本体は抹殺さる。偽物同士が会うと、偽物同士2人は消えてしまう。偽物は本物同様に生きていくことができる。お前は偽物なんだ。本体を消して、自身が本体として生きたくないか。」

「まあ、そうですね。」

「話は早い。店を出て、突き当たりを左に行く。お前と同じトレンチコートを着た男に話しかければいいだけだ。」

「はい。」

頭が整理されないまま言われた通りに店を出る。あ、あの人だ。

「あの、すみません。」

ヒュー。

そこには人の姿はなく、古びたコーヒー券が秋の風に飛ばされた。


話しかけてから気づいてしまった。あのコーヒー店で会った時、あいつと会ったとき、なぜ2人ともそこに存在したんだ?どちらが本物でも、偽物でも、一方、あるいは2人とも消えるはずだ。あいつは誰だったんだ。


―カタノ珈琲店では、老人と黒猫が、今日も誰かを待っている。

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秋の風 夏川りく @rikunatsukawa

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