胡桃と凪

仁井斗

プロローグ


今右足を動かせば多分床に転がるカップにぶつかる。

その些細な音も聞こえてしまう。

奥の部屋では銃声が鳴り響いていた。同時に狼狽える男の声も聞こえる。大の大人の情けない声。

姿を見なくてもどんな格好でいるのか、笑えるくらい想像がつく。

夜中の2時半。うっすらではあるが部屋の真ん中に月明かりが差し込む。

銃声は止んだが、足音が鳴り響く。

男は静まり返ったこの部屋の一角で、廊下から聞こえる足音を頼りに部屋を出るタイミングを見計らっていた。

恐怖で声が出せないような教育は受けていない。

むしろ、慣れていた。

コツコツと聞こえる足音はヒールの音だ。

履きなれているのか、音が一定で乱れがない。


「あとひとり」


そう聞こえた。男の耳は聞き逃さなかった。

女の声だった。

ヒールの音を聞いてだいたい女と予想はついていたが、姿形を見た訳でもない男からすれば有益な情報だった。

その女に全員やられたのだろう。


「…探すの飽きたわ」


そう言って女は歩みを止める。カチャカチャと音を立てていた。

何となく予想はついた。だが0.1秒遅かった。

気づいた時には男の左腹部が真紅で滲んでいた。


「あら、はずしちゃった?」


痛みよりも恐怖なのはこの女の言動。

目も口元も笑っていない。

猟奇的な程に楽しそうな口調。

そして何より見とれてしまうほどに整った顔立ち。


「ねぇ、この男知らない?」


女の声にハッする。

女は腹部の痛みに悶える男に対して目の前でしゃがみ、スマホの写真を見せた。

写っていたのは大学生くらいのチャラそうな男。


「知らねぇ」

「知らないかぁ…じゃあ白って知ってる?」


男は唖然としてした。

色を聞いてきたことに拍子抜けしたのだ。


「ふっ」


男は思わず吹く。


「今色を聞いて何になる?」


口角を上げ、馬鹿にするようにそう聞いた。

女は少し考えるように足元を見る。


「そうね…そんな深い意味は無いけど、最後に聞いておこうと思っただけよ」


その瞬間、男の意識はなくなった。




「もしもし、終わったよ」


女は耳に手を当ててそう吐いた。

目線は動かない男から少しあげ、窓の向こうを見ていた。


『全員?』


イヤホン越しに別の女の声が聞こえる。

女は少しニヤついた。


「いや?なーんかネズミが入ってたみたいで、まぁ私がここに入った瞬間逃げちゃったみたいだけどー?」


そう言いながら窓に近づく。闇夜に包まれ月明かりのみで照らす外を眺め、真下付近に視線を移した。


『まぁそれはそこの奴じゃないと思うから追わなくていいわ。それより、車を手配してあるの。それに乗って帰ってらっしゃい』


黒い車が止まっているのが目に入る。


「そーね、ありがとう〜…あ、報酬は?」


電話越しの女はため息を着く。


『……振り込んでおいたわ』


女は「ありがとう〜、後で確認するわ」と言って通話を切った。

その後、鼻歌を歌いながらこの館を後にした。

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