第6話 隣人を愛せよ

「おじさん、こっちだよ」


 セイタの声に導かれて、俺は部屋の中に入った。

 オートロック付きのやや古びたマンションの一画。

 リノベーションをしたばかりなのか内装は小綺麗だった。


 玄関からはよくある長い廊下。

 廊下の両壁にはトイレ、脱衣所、そしてセイタの部屋の扉があり、奥にはリビングに繋がるであろう扉が見えた。

 セイタの部屋とわかったのは扉に『SEITA』と彼の名前がローマ字で刻まれたネームプレートが掛けてあったからだ。


「ちょっと待ってて。タオル取ってくる」


 そう言われて玄関で待たされる。

 まっすぐと脱衣所に駆けていくと、セイタはすぐにバスタオルを持って俺のところに戻ってきた。


「はい、これ」


 ゴワゴワとしたタオルだが、何もなしに拭かないよりはマシだ。


「軽く拭いたらお風呂行って。

 脱いだ服は洗濯機に入れていいから」


 俺は虚とした表情でタオルをもらい身体を拭き始めた。


 その時は、もう何も考えられていなかった。

 機械のようにセイタの言う通りの行動をした。

 頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 色んな考えが駆け巡り、やがて何も考えられなくなっていた。


 次に記憶があったのは、シャワーを浴びリビングに入った時だった。


★★★


「あ、出てきた? 大丈夫?」


 テーブルでスマートフォンを弄っていたセイタは俺に気がつくと、すぐにキッチンへ。


「ココア淹れたんだ。とにかく座ってよ」


 湯気の出たマグカップをテーブルに置き、座るように促してきた。

 言われた通りに椅子に座る。


 二人暮らしには充分な広さ。

 リビングの奥には――おそらく母の部屋だろうが――襖で仕切られていて、その部屋の前にはソファやテレビがある空間があった。


 手前のテーブルには新聞や筆記用具用の箱が置かれ、セイタの奥の棚に写真が飾られていた。


 おそらく小学校の入学式の時の写真だ。

 セイタとスーツを着た黒髪のショートボブの女性。

 顔のパーツにセイタの面影がある。――いや、逆か。

 仕事のできるキャリアウーマンという雰囲気があり、化粧で隠れてはいるが、目の下に隈がありやつれている。

 きっと多忙な日々を送っているのだろう。

 だが幸せいっぱいに親子の笑みが写っていた。


 その写真から目を背けつつ、茶渋が残るマグカップに触れた。


(暖かい……)


 冷えた身体には充分すぎるほど熱かった。


 セイタは俺の仕草を気にせず、自分のスマートフォンを弄り出す。

 横向きにして親指を器用に動かしてることから、現代の人間たちに人気のソーシャルネットワークゲームをしているのだろう。


 ココアを一口。

 暖かいものが内部を通る感覚に気持ちよさを覚えた。

 ようやく糸がもつれあい塊になっていた思考が少し解けてきた。


「……どうして……」


 掠れた声だ。ゲフンと一度咳払いすると、


「どうしてだ?」


 再びセイタにそう聞いた。


「何が?」


 ゲームをしながらセイタは聞き返す。


「どうして俺を助けた?」


「ん〜……?」


「こんな汚ねぇ浮浪者みたいな怪しい格好。

 誰も助けるどころか見向きもしないだろ。

 悪いやつだったらどうするんだ」


「おじさん、悪い人なの?」


 ゲームから目を離し、純粋な目つきで俺を見る。


「いや……」


「じゃあ良いじゃん」


 言い淀んだ隙にセイタはまた指を動かし始める。


「だけど普通助けねぇだろ」


「母さんが言ってたんだ」


「あぁ?」


「『隣人を愛せよ』って」


「は? ……ブッ」


 一瞬何を言っているのかわからなかった。

 だがその言葉の違和感に気付き、俺は吹き出す。


「ハハハハッ! なんだそれ?

 結局は神を信じるんか」


 それは神の教えだ。

 俺ではない。人間が作り出した偶像かみだが、それはいい。


『神様には頼まない』と言っていた。

 神の前で神をデクの棒と罵った。

 そんなセイタが――セイタの母が神の言葉を引用した。

 それが可笑しくて、少し嬉しくて、セイタを嘲り笑う。


 だが、セイタはきょとんとした顔でそんな俺を見ていた。


「別に神様を信じてないとは言ってないよ?」


「あ?」


 笑みが止まる。


「神様には頼らないけど、神様や神様の言葉は信じてるよ。

 だって神様の教え通りにしたら運がよくなるもん」


「それは神がセイタを見てくれているってことだろ」


 ……見ているだけだけどな。


「ううん。結局、神様は何もしてくれないよ」


 大当たり。

 じゃあどういう――。


「僕が期待しているのはの方」


「…………」


「助けた人や周りの人が幸を運んでくれる。

『神頼みはしないけど、神様の教えは人のため』だから」


「……俺が何もしなかったらどうするんだ?」


「その時はその時。でも神様よりは確実でしょ?」


「……そうか」


 もう笑うことはできなかった。

 セイタは、そしてセイタの母は確実に神の本質を見抜いていた。

 そしておれには何も期待をしていなかった。


「けど、おじさんは何かしてくれそうな気がするんだけどね~」


「!」


 ハッと見ると、セイタがニヤニヤと嬉しそうに笑みを浮かべていた。


「まぁいいや。とりあえず気が向くまでここにいなよ。

 何もないけど、いたいだけいればいいからさ」


 セイタはそう言うと立ち上がると、扉の近くに立つ。


「じゃあ僕寝るね。何かあったら言って。おやすみ」


「あ……」


 引き留める間もなく、セイタは自室へと消えていった。

 少々強引だが……。

 こうしておれとセイタとの奇妙な共同生活が始まった。

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