美人のお狐さまをうっかり召喚してしまった僕の下僕な日常

立川きんぎょ

第1章

第1話 お狐さま、降臨!

 ほんの気まぐれだったのだ。大学の講義が終わってバイトの面接に向かう途中、裏門付近にある小さな鳥居がふと目に留まり、なんとなく「面接に受かりますように」と手を合わせた。


小さなおやしろの前に陶器の狐の像が置いてある。一応掃除はされているものの、花の一つも供えられておらず、殺風景な雰囲気だ。賽銭箱もないので、お賽銭もあげずにすぐに立ち去った。まさか、この思いつきのお参りのせいで、奇妙な下僕生活を送る羽目になろうとは……。


その日面接を受けたのは、大学近くの高級スーパーでの品出しバイトだった。酒類や米など重い商品の搬入から陳列がメインで、混雑時にはレジでお客の買った商品の袋詰めも手伝う。かなり人手が足らないらしく、その場で採用が決まった。


「男子の制服はないけど、ワイシャツにネクタイはしてきてね」と店長が言った。店長自身も糊のきいたワイシャツにきっちりネクタイを締めている。デパート系列のスーパーだけに、身だしなみには厳しそうだ。男子バイトの服装規定は、ワイシャツにネクタイを締め、店が貸与するエプロンをかけるというもの。


力仕事なのにちょっとダルいなあと思ったが、即決してくれたことだし、時給もまあまあだし、文句は言うまい。シャツとネクタイは大学の入学式用に買ったやつでいいだろう。明日にでも来てほしいということで、面接の次の日から働くことになった。


始めてみるとそこそこ力仕事だけれど、レジ担当の女の子にはかわいい娘が多いし、結構楽しくて、僕は講義にバイトにと忙しい毎日を送っていた。



 夜11時の閉店まで働いて、くたくたに疲れて帰って来たある日、重い体をひきずるようにしてアパートに帰り、シャワーを浴びると、電池が切れたようにベッドに倒れ込んで眠ってしまった。


僕は普段、いったん眠ったら朝まで起きないのだが、その日は珍しく暗闇の中でぽっかりと目を覚ました。疲れているのに変だなと思っていると、何者かに急に胸を押さえつけられた。ぎょっとして、体が硬直する。これが話に聞く金縛りか。


「人にものを頼んでおいて、お礼もないなんて」

暗闇の中で女の声がする。女の泥棒? でも、胸への圧迫は異様に力強い。

「何か忘れているんじゃないかしら」


 ググッと胸を押さえつける力がさらに強くなった。息ができない。何が起こっているのか訳が分からず焦りまくっていると、暗闇に目が慣れて、僕の胸を押さえつけているものの正体が見えてきた。


ワンピースを着た女が、僕の胸の上に横向きに腰かけている。足を組んで、僕をベンチ代わりに座っているといった格好だ。


年のころは20代後半から30ぐらい、ゆるくウェーブした髪がかかる横顔から、流し目に僕を見下ろしている。何なんだ、この女は。異常なシチュエーションに動揺しつつ、侵入者が女性ということで少しほっとした。いざとなれば、腕力では負けないだろう。


女の横顔を凝視しているうちに、彼女がかなりの美人なことに気がついた。すっきり通った鼻筋に、はっきりとした切れ長の目。長いまつげが頬に影を落としている。今、僕の胸に乗っかっているのは、この美女のお尻……。


すると、まるで僕の心を見透かしたかのように、美女が僕の頭をパーンとはたいた。

「痛っ!」

美女の姿は、みるみる狐の姿に変わった。狐といってもやけに大きく、シェパード犬ぐらいはある。狐は僕の胸の上に座り、今度は正面から僕を見下ろしている。


立て続けに起こる異常な現象に、僕は自分の頭がおかしくなったのかと思った。疲れすぎて幻覚を見ているのかもしれない。何とか電気をつけようと、枕元においてあるはずのリモコンを手探りで必死に探すのだが、手が震えているせいでなかなか探し当てられない。


そのとき、バイトの面接に行く前に拝んだ小さなお社を思い出した。


「あ、ひょっとして大学のお狐さま」

狐は僕の胸の上に座ったまま、ゆらりと長いしっぽを揺らした。

「最近の人間は、お礼参りも知らないのかしら」

正直言って、お参りしたことすらすっかり忘れていた。

「……すみません」

「すまないと思うなら、行動で示すことね」

狐の姿は、かき消すように消えた。


 気がついたら朝だったのだが、頭をひっぱたかれた痛さも、胸を押さえつけられた息苦しさも妙にリアルで、とても夢とは思えなかった。確かにバイトの面接には受かったし、一応願い事をかなえてもらったのにお礼をしないのはまずいと思ったので、朝一番であの小さなお社にお参りに行くことにした。


大学に行く途中でコンビニに寄って、油揚げと日本酒の小瓶を買う。小さな狐の像の前に油揚げとお酒を供え、

「おかげさまで面接に受かりました。ありがとうございました」と手を合わせる。


何の変哲もない白い陶器の狐が、この前と同じように鎮座していた。

「この狐が、あの美人のお狐さまだったのかなあ」

不思議なこともあるものだと、まじまじと狐の像を見つめる。当たり前だが、何も起こらない。


「ま、いっか。とりあえずお礼はしたし」

僕は、講義に出るために教室に向かった。



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