麦わら帽子とワンピースとサンダル
近藤一
1
例えばそれは日によって暖かかったり、冷たかったりする風が吹く季節だったとする。
彼女は麦わら帽子を押さえて、真っ白なサンダルは砂で汚れても笑顔で砂浜を歩いていた。「ほら。こっちにおいで」と彼女は言う。建てようとしていたパラソルを置いて、僕も彼女がいる波打ち際に走った。砂浜の上は暑くて汗が出るほどだと言うのに、足に当たる波はひんやりと冷たくて思わず笑ってしまった。そんな僕の姿を見て、彼女もまた笑う。
幸せな時間だったが、時は夕暮れに近付いている。いつの間にか満潮が近づいてた様で、波はついに彼女の白いサンダルを吞み込んだ。まるで青い水晶玉の中で真珠が煌めいているみたいだ。
しかし幻想は消える。綺麗なサンダルが砂にまみれて、僕は悲鳴に似た驚嘆の声を上げた。しかし彼女は「全然平気だよ? きもちー」と気にしていなそうだが、綺麗な白いサンダルが汚してしまったショックは抜けなかった。
今日、海に行こうと誘ったのは僕だ。こんな事になるなら誘わなければよかった、と後悔する。
そんな僕の表情を見て察したのか、頬を膨らませた彼女が華奢な手で僕の両頬を包み込む。
「そんな顔しないで。一緒に来てくれて、本当に嬉しかったんだから」
彼女はそう笑ってくれた。その一言で僕は救われた。
「そんな事よりさ、ほら。遊ぼうよ!」
そう言って僕の手を引っ張って、海に連れ出そうとしたタイミングで、ふわりと彼女のスカートが舞い上がり、桃色に彩られた下着が目に入った。
彼女は慌ててスカートを押さえたが、その頬は朱色に染まっている。
「…………見た?」
「い、いや、見えなかったよ!」
「本当かな~?」と彼女はわざわざ僕の顔を覗いてくるが、恥ずかしくて彼女の方なんて見られなかった。変わりに目を閉じて「本当!」と叫んだ。
「ぷっ、ふふっ。あははははっ!」
「っ、はははははっ!」
そんなやり取りが面白くて、二人して笑った。
すごく、すごく楽しい。この時間が続けばいいのに。
しかし無情にもお別れの時間はやってきた。
水をかけてやろう、と僕は両の手に水をすくうと夕焼け小焼けの歌が流れた。
「……ごめん、もう帰らないと」
残念だが、時間だ。
彼女はつまらなそうな顔をして「いいじゃん、まだ遊んでいようよ」と言う。
「ごめん……、みんなが待ってるから」
「嫌だよ。私、もっと君と遊んでいたい」
「……ごめん」
「嫌!」
「………ごめんね」
「嫌だよ!」
「ッ、僕だって嫌だよ! もっと遊んでいたい、君と一緒にいたいよ!」
自分勝手に我儘な事を告げる彼女に嫌気が差し、僕も想いの丈を叫んだ。
初めて聞いたであろう、僕の怒鳴り声に彼女は驚いて、瞳に涙を浮かべた。
「でも一緒にはいられないんだ! 僕も君も、帰る場所が違うんだ! 今帰らないと、ずっと帰れなくなるんだよ!」
「じゃあ、ずっとここにいる! 君の家に泊めてよ!」
「駄目だ! ちゃんと家に帰らないと、君のお父さんとお母さんが悲しむよ!」
「だって……、お別れになっちゃうんだよ! もうしばらく会えないんだよ!?」
しばらく会えない。
今日が終われば彼女はしばらくの間、遠くに行ってしまう。
本当は今日にでも彼女は出発しなければいけなかったのに、僕が我儘を言って遅らせてもらったんだ。
「……大丈夫。また会えるよ」
「……本当?」
「本当だよ、約束」
「っ、じゃあ指切りして。また、ここで会おうね」
彼女から差し出された小指に、自分の小指を絡ませた。
指切りげんまんと二人で歌い、最後に指切ったと、指を離す。
これで約束は結ばれた。
「じゃあね」
「……っ、うん。またね!」
別れ際、彼女は叫んだ。大きな声で何度でも、再び会える事を夢見て、またね!と叫んだ。
そして僕は聞き逃さなかった。
「行かないで」と彼女が呟く声を。
逆だよ。行かないで、って言いたいのは僕の方なんだ。
規則的に鳴る電気機器の音と共に、私は目を覚ました。
真っ白な天井が目に入ったが、次の瞬間に左右から誰かが抱き着いて来た。
泣き声を聴いて両親だと理解できた。それから知らない男の人の声が聞こえてきて、「奇跡的ですね……、あの状態から回復するとは。天文学的な確率です。……いえ、手術をしたのは確かに私ですが、娘さんを助けられたのは彼と彼の両親のおかげです」と会話が繰り広げられている。
それがどんな内容なのかはすぐに分かった。
数か月前から意識不明になっていた、彼。
そして彼と二人で遊んでいた事を思い出して、私は一人で砂浜に向かったのだ。
彼が可愛いと褒めてくれた麦わら帽子と白いワンピース、そして白いサンダルを履いて。
またあの日の様に波打ち際にいれば、きっと彼が帰ってくると信じて。
けれど私は波に攫われてしまった。そして……。
半月後、術後の経過が順調だった私はすぐに退院の許可を貰えた。
両親はもうすぐ迎えに来ると聞いている。
私の枕元の傍らには麦わら帽子が置かれていた。これを被るのは久しぶりで、少し懐かしくなって手に取ってくるくると回していると、先生がやって来た。
退院すると聞いて忙しい時間の合間を縫って見送りに来てくれたのだろう。
「大丈夫かい? 正直、手術の影響よりも、彼の事の方がショックが大きかったろう?」
先生は心配そうに告げる。
例の件のショック?
ふふ。先生は、私の心臓の事はわかっても、本当に大切な事がわかってないのね。
「……うん、大丈夫ですよ。彼とはまた会う約束をしましたし、それに……」
私は麦わら帽子を被り、白いワンピースを着て「ここに彼はいるから」と傷だらけの胸に手を当てた。
麦わら帽子とワンピースとサンダル 近藤一 @kurokage10
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