第2話 堕落
次に目を覚まして彼の目に入ったのは見慣れない天井だった。
「ここは、どこだ?」
彼は純粋な疑問を口にする。
誰もが知らない所にいたならばそう投げかけるであろう疑問。だがその疑問に答えるものはここにはいない。
ここには彼一人以外誰もいないのだから。
自分の疑問を解決するために彼は辺りを見渡そうと立ち上がろうとする。しかし彼は立ち上がることができなかった。
自分の体の方に目を向けると答えはすぐに得られた。体が何重にも鎖でベッドに縛られ動けないようにされていたのだ。
そのことに彼は多少の驚きと怒りを覚えたがすぐに冷静になった。
何故彼はこのような状況下で冷静にいられるのか。それは彼自身にもわからなかった。こんな経験をしたことなど人生の中で一度もない。それでも、彼はこの状況を自然と受け入れていた。まるで他人事のように。
「仕方ない、か」
彼はそう述べると首だけを左右に動かし辺りを確認することにした。
部屋には簡易用のトイレが一つとこのベッド、それ以外は何もない。壁は全面コンクリートで出来ており窓の一つもない。ここはまるで――
「監獄みたいだな……」
自然とその言葉を発していた。
彼は目を瞑りこうなるまでの経緯を思い出す。
謎の特務執行官隊長――北条景虎の言葉を最後に思い出すことができなかった。
「今こうなってるってことは、捕まったってことだよ、な」
その事実が彼の心を蝕んでいく。
捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった捕まった――
「駄目だ、おかしくなっちまう」
これ以上考えても無駄だと悟り彼は無心を貫く。そして睡魔が襲い掛かってきた、その瞬間――扉が開いた。
「元気かしら?」
この場には不釣り合いな言葉、声音、すべてが無明を苛立たせる。
そうさせるだけの力が、今の一言には秘められていた。
無明は声のした方を睨む。完全に顔を向けることはできない。それでも、精一杯の力で睨み続ける。
「そんなに見られたら感じちゃうわ~」
猫撫で声が無明の耳に響き嫌悪感に襲われる。
カツカツ、と声の主が近づいてくる。ものの数秒だったがそれだけでも無明は嫌悪感が増し鳥肌が立っていくのを感じた。
そして、とうとう目の前に見知らぬ顔が現れる。
その顔は妖艶、この一言に尽きる顔立ちだった。若干のたれ目、整った鼻筋、腰まで伸びている長い黒髪、そしてこの脳髄に届かんばかりの甘い匂い。
大抵の男がこの美女を目の前にしたら何もできずに堕ちるであろう。
「あら、その眼……薬が切れてきたのかしら。それは困るわね……」
女はそう言うとポケットから怪しい瓶を取り出した。
「なにを、する気だ」
「君は何も気にしなくていいの。さあ、お飲みなさい」
そう言って女は瓶の中身を無明に飲ませようとしてくる。それに必死に抗うが女の力は思ったより強く無明はなすすべもなく瓶の中身を飲み干してしまう。
「……ぐっ!……っ!」
その瞬間、無明は身体が燃え上がるような熱さを感じた。呼吸ができない、焦点も合わない。頭の中が真っ白になっていく感覚。
その感覚はしばらく続いたのち彼の身体から引いていった。何事もなかったかのように。
「気分はどうかしら?」
「………まあまあです」
彼はどうでもよさそうにそれに答える。
女はその反応に嬉しそうに目を細める。
「君の名前は?」
「俺の……名前……わか、らない」
「じゃあ君の名前は今日から3186よ」
「3186……」
「そうよ、素敵でしょ?」
「わからない……何も、わからないし、どうでもいい」
彼はそう言うとまた目を瞑った。
「ダメよ、まだ寝たらダメ。ワタシの名前をまだいってないもの」
「あなたの、名前?」
「ええ、そうよ。君はこれもどうでもいいと思うのかもしれないけれどワタシの名前をそう思うのだけはダメよ。絶対に忘れないで、いい?」
「…………分かった、努力しよう」
「そうしてくれると嬉しいわ。ワタシの名前は彼岸・ハリアナ。彼岸が姓でハリアナが名ね」
「彼岸・ハリアナ……覚えた」
その反応にハリアナはまた嬉しそうに目を細める。
「嬉しいわ。じゃあ、もう寝てもいいわよ。夢の中でワタシが出てくることを願ってるわ」
ハリアナはそう言い残し部屋を出ていった。
「あ、結局ここがどこか聞き忘れちゃったな。でも、まあ、いっか。今はとにかく、眠い」
彼は本能に身を委ねるように瞼を落とし、眠りについた。
彼はこうして――堕落した。
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