山のスイカ

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山のスイカ

 澄み渡る空気。

 遠方に連なる山々の稜線がくっきりと見える。

 雲一つない青空に、岩肌と緑の木々が鮮やかだ。

 遠くには湖が見え鏡のような湖面が空と緑を映している。

 まさに絶景だ。

 風も穏やかで、心地よい陽気に包まれている。

 その光景を少女は見とれていた。

 元気な印象がする黒髪の少女だ。

 セミロングの髪、細い眉毛にぱっちりとした瞳。

 少し日に焼けた肌。

 背丈は150cmくらい。

 痩せ型ではあるが胸もそれなりにある。

 服装はバーブパンツに登山用のハーフスリーブシャツ。

 足にはトレッキングシューズを履いている。

 少女の名前は倉本くらもと恵理えりと言った。

「きれい」

 恵理の隣に立つ少女が呟くように言った。

 栗色のミディアムヘアをした美少女だった。

 色白の顔立ちで、整った目鼻立ちをしている。

 前髪を真ん中から分けており、童顔を大人っぽく見せ大きな目がはっきりと見えた。

 すらっとした体型をしている。

 名前ははやし響子きょうこという。

 二人は同じ高校に通う同級生だ。

「本当に綺麗よね」

 響子が同意するように言う。

 二人は今、休日を利用したの登山の最中であった。二人が登山を始めた切っ掛けは中学の頃に遡る。

 学校行事で登ったハイキングコース。

 その景色を見た時、二人とも感動を覚えたのだ。それ以来、定期的に山に触れるようになった。と言っても標高400m以下の低い山ばかりであるが。

 山歩きには、3つの種類がある。

 ハイキング、トレッキング、登山だ。

 これらに厳密な定義や違いはないが、それぞれのスタイル違いはある。

 一般的には、ハイキング⇒トレッキング⇒登山の順で歩行レベルが上がっていくことが多く、歩行のスタイルとして使い分けされている。

 ハイキングは、「なだらかな山道を気軽に歩き、自然を楽しむ」というニュアンスで使われる。

 また、ハイキングと呼ばれるルートには木道やなだらかに整備された道が敷かれ、歩きやすくなっている。

 トレッキングは、「山頂を目指すことにこだわることなく山歩きをする」というニュアンスで使われることが多く、歩行時間、日数、標高差等に関わらず汎用的に使われている。そのため、3つの中では一番定義が曖昧な言葉と言える。

 登山は、「山頂を目指し、山を登ること」を指し、山歩きの中で”登る”というニュアンスが一番色濃く使われている言葉。3つの中では歩行レベルが一番高い山歩きとして使用されることが多く、より経験者向けと言える。

 二人は今まで、ハイキングとトレッキングの中間あたりまでしか行ったことがなかった。

 しかし、今回は初めて宿泊を兼ねた本格的な登山に挑戦することにしたのだ。

 初回ということもあり、低めの山を選んでいた。

 それでも標高は1500m近くある山だ。

 頂上までは行かないものだが、山頂を目指す経験を得るという目的での登山であった。

 普段の生活圏から離れた別世界にいる感覚になる。

 二人はしばらく美しい風景に見とれていた。

「良い眺めだね」

 二人の横に一人の青年が現れた。

 爽やかな雰囲気がある美男子だ

 肩のあたりまで伸びた髪を一つに束ねていたが、オシャレを狙って伸ばしている印象はない。散髪に行くのが嫌いか面倒で伸びた髪を、その場しのぎの方法で対処しているといった様子だ。

 金もない、恋人もいない。

 ただ、誠実さだけが持ち前の少年が成長すると、こういった青年になるのだろうか。

 名前を、飛鳥あすか孔音くおんと言った。

 20歳の浪人生であると共に、二人の友人でもある。

 今はアルバイトをしながら大学を目指している最中だった。

 高校生女の子二人での登山となると、両親が心配した為に、二人の友人でもあり登山経験豊富に孔音が保護者役として同行していた。

 孔音の言葉に恵理が反応する。

 嬉しそうな顔を浮かべながら振り返る。

 そこには満面の笑みがあった。

 先程までの大人びた表情とは違い、あどけない少女らしい笑顔だ。

 そして、明るい声で恵理が返事をした。

「はい。とても素敵です」

 その声を聞いただけで分かる。彼女は心の底から喜んでいるということを。

 そんな恵理の様子を見て、孔音も嬉しそうに微笑む。

 大人だが、少年のような無邪気さを持ち合わせている。それが彼の魅力でもあった。

 孔音が言葉を続ける。

 優しい口調で語りかけるように話す。

 その声色は心地よく、耳に入ってくると安心感を与えてくれるような気がした。

 まるで、草原を吹き抜ける風のように優しく耳を通り抜けていく。

「この辺りには他にも、いくつか絶景ポイントがあってね。ここは僕のお気に入りの場所なんだ」

 孔音の視線が一瞬だけ遠くなる。その先にあるものを思い出したようだ。

 その瞳には哀愁のようなものが浮かんで見えた。

 少し間を空けて、再び口を開く。

 今度はどこか寂しげな口調で言葉を紡ぐ。

「どうしたんです?」

 心配したのか恵理が問いかけてきた。

 彼女の目線がこちらに向けられる。

 澄んだ綺麗な目だった。

 思わず見とれてしまいそうになる。

 しかし、すぐに我に帰った。

 誤魔化すように、はっとした顔をして答える。

「あ。いや、ちょっと拝み屋のバイトの関係で来たことがあってね」

 慌てていたため、少々大げさに話してしまった。

 自分の気持ちを隠すためだ。

 こんなにも純粋な子供達に本当のことを言えるわけがない。

 それはあまりにも残酷すぎる。

 僕は大丈夫だ。だから気にしないでくれ。

 いつもの僕でいるために。

 自分に言い聞かせるように言った。

 そして、精一杯の作り笑いで答えた。

 そんな様子を見ていた響子が、 何かを感じ取ったのだろう。

 怪しむような目つきで孔音を見ていた。

 孔音は内心、焦っていた。

 やばい。

 余計なことを話してしまった。

 変に思われていないといいけど……。

 恐る恐る響子の顔を見る。

 響子はじっとこちらを見つめていた。

 何を言うでもなく、ただ見ているだけだ。

 何も言わない響子に対して、不安を覚えてしまう。

 すると、誰かが注意を逸らすように手を叩いた。

 目がさめるような美しい女性が立っていた。

 20代前半の女性。

 ナチュラルなウエーブをかけた黒髪を一つ結びにし、耳前の後れ毛をしっとりと流し、細面のどこか淋しい顔は朝露に濡れた花のよう。

 神職にあるような神々しさがあった。

 カラスのように。

 黒い羽毛を持つカラスは、その色と姿から死という不吉なイメージがある一方で、スピリチュアル的には縁起物とされ、神様の化身や神の使いとも言われる。神様の中でも特に太陽神の化身とされており、日本においては、天照大神の化身であるという。

 荘厳な滝を見た時に感じる、霊気を伴う涼しさ。

 歴史を感じさせる拝殿にある清々しい空気と厳かな雰囲気。

 夜明け前の静寂に一筋の光が差し、心が浄化される光景。

 声をかけることすらはばかれるような、汚れのない外貌を持った人。

 昏いながらも、神使のように美しい女性だ。

 名前を月夜汀つくよみぎわと言った。

「そろそろ出発しましょうか。今は14時だから時間に余裕はあるけど、夕方前には山小屋で休む予定でしょ」

 汀は、孔音に向かって話しかけた。

 その声は凛としていて、よく通る。

 透き通った美しい声だ。

 恵理と響子は、ハッとした様子で反応する。

 孔音の方を見ながら、うわずった声で返事をする。

 二人とも頬を赤く染めている。

 その様子に気づいた孔音が苦笑しながら言う。

 まるで照れ隠しでもするかのように。

 その言葉を聞いて、恵理と響子の二人は、慌てた様子で荷物を担ぎ直す。

 恥ずかしそうにしながらも、笑顔を見せていた。

 それを見て、孔音も微笑んでいた。

 3人の和やかな雰囲気が伝わってくる。

 孔音達4人は、ゆっくりと山道を歩き始めた。

 孔音は隣を歩く汀に礼を述べる。

「汀さん、ありがとうございます」

 孔音の言葉には、深々と頭を下げているのが汀には分かった。

「孔音って、ウソが下手ね。正直なのも良いけど、上手く誤魔化す方法も覚えないと。でも、そこがあなたの良いところでもあるけどね」

 汀は、優しい口調で言って、クスリと笑う。

 慈愛に満ちた表情をしていた。

 その姿は女神のようで、見るものを魅了するような美しさだ。

 そんな彼女を見て、恵理も響子も思わず見惚れてしまっていた。

 彼女は二人よりも、10歳も離れていない年上なのだが、憧れるような大人の女性だ。

 見た目もそうだったが、振る舞いもそうだった。

 その言葉遣いや仕草から、大人の魅力を感じるのだ。

 まるで、母のような包容力があり、どんなことでも包み込んでくれるような優しさを持っていた。

「じゃあ。元の隊列で登山を楽しみましょ」

 汀は孔音に、告げ終わると歩調を落として、最後尾にまわる。

 先頭が孔音、恵理と響子 最後尾に汀といった順番になった。

 汀は、3人の背中を見守りながら、ゆっくりしたペースで進んでいく。

 まるで、親鳥が雛を守るような構図だった。

 かつては、最も登山経験があって全体を見渡せるリーダーが最後尾を歩き、サブリーダーが先頭に立つのが一般的だった。

 リーダーは、ルートの様子を最後尾で観察して「路肩が甘そうだから、もっと山側を歩こう」「風下に雪庇せっぴができているかも」などと、的確な指示を出して注意を促した。

 また、行動中はパーティメンバー全員の様子を観察して、パーティの歩行スピードには付いていけない仲間がいた場合はペースを変えさる、あるいは荷物の分配を改めるなども行った。

 他にも、ふらついているメンバーがいないかなど、パーティメンバーの状況を広く見渡す役割が必要なことから、リーダーは最後尾を歩くのが常だった。

 そして、サブリーダーが先頭に立った。

 だが、最近はリーダーが先頭に立って道を確認しながらパーティ全体の様子を見て、遅れがちな人がいたら2番目を歩いてもらって、その人にも無理のないペースを作りながら、ルートの状況を観察してパーティ全体に注意をし、サブリーダーを最後尾に立つ。

 いずれにしろ、先頭と最後尾にベテランを置くというのが暗黙のルールとなっている。

 しばらく進むと、恵理が口を開いた。

 後ろを振り返り、汀の方を見ている。

 何か言いたいことがあるようだ。

「汀さんって、孔音さんとどういう関係なんですか?」

 唐突な質問だった。

 恵理は、興味津々の様子だ。

 その瞳はキラキラしている。

 まるで、新しいおもちゃを与えられた子供のように。

 好奇心で溢れていた。

 その瞳に見つめられ、汀は少し困った顔をして微笑んだ。

 恵理と響子が汀と会ったのは、今日が初めてであった。事前に孔音は、登山の保護者として友人をもう一人連れて来るとは聞いていたが、こんな美人を紹介されるなんて思っていなかったからだ。

 こんなに綺麗な人が、どうしてまだ浪人生の孔音と一緒にいるのか不思議でならなかった。

 孔音を卑下しているつもりはない。

 恵理と響子にとって、孔音は信頼できる大人であり理解者でもあるが、のんびり遊んでいられる訳でもないことを考えれば、彼女持ちというのは考えられなかったからだ。

 そんな二人の疑問を感じ取ったのか、 汀は優しく答えた。

 その声は澄んでいて、耳に心地よい。

 彼女の声を聞くだけで、心が落ち着くような気がした。

「一言で言えば大人の関係よ」

 悪戯っぽく笑いながら言った。

 その言葉に、恵理と響子は目を丸くする。

 えっ?

 今何て言ったの?

 大人の関係って言ったよね。

 聞き間違いじゃないよね……。

 二人はお互いの顔を見合わせて目で会話をする。

 顔が真っ赤になっていた。

 そして、慌てていた。

 その様子を見て、汀は苦笑しながら言う。

「ごめんなさい。ちょっと意味深に言い過ぎたかしら。でも、嘘は言っていないわよ。私と孔音は、ただの友人同士じゃないわ。でも、恋人とかそういう甘いものでもないわ」

 恵理と響子の様子を見ていた汀は、何かを思い出したように付け加える。

 まるで、自分の秘密を打ち明けるように。

「ビジネスパートナーね。孔音は神通力を使う拝み屋としてバイトをしているように、私も拝み屋なの。そして、お互いに助け合って、支え合っている感じ。ちょっと、不釣り合いだけどね」

 その声は、穏やかだが強い意志が込められていた。

 まるで自分自身に言い聞かせているような言い方だ。

「それって、孔音さんが頼りにならないってことですか?」

 恵理は遠慮がちに聞いた。

 恵理は、自分がまだ学生で、社会に出たことがないため、大人という存在に漠然としたイメージしかなかった。

 だが、それでも浪人生で、自分よりは年上の大人である。

 そんな大人の女性が、孔音のことを評価していないことが気になったのだ。

 恵理の言葉に、汀は首を横に振った。

 そして、優しく諭すような口調で言う。

 まるで、幼い子供をあやす母親のようだった。

「違うわ。私の方」

 そう言うと、彼女は自嘲気味に笑う。

 それを見て、二人は黙り込んでしまう。

 そのタイミングで、孔音は脚を止めた。

「止まって」

 孔音は、みんなに呼びかけた。

 恵理と響子は、立ち止まり、不思議そうな表情をしている。

 休憩の時間として早すぎる。

 まだまだ体力に余裕があるし、疲れてもいない。

 だから、孔音が止まるように言ったのが理解できなかった。

 恵理は、もしかしたら熊などの野生動物が出るのかもしれないと思った。

 だが周囲は見晴らしの良い場所だ。

 何も危険はないはず。

 恵理は、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回していた。

 響子も同じような反応だ。

 だが、孔音は前方に見える崖の方を見ていた。

 恵理と響子もそちらを見る。

 そこには、小さな滝があった。

 落差は、10mくらいだろうか。

 むき出しになった岩肌に、水が流れ落ちている。

 ここからの距離として400m位先か。近くで見れば、中々の絶景だろうが、ここからでは小さく見えるだけだ。

 孔音は双眼鏡を取り出すと、それを覗き込む。

 だが、こんな場所で何を探そうとしているのか分からない。

 恵理と響子は、孔音の行動に困惑する。

 汀が、孔音に近づき訊く。

「どうしたの?」

 その言葉には、不安が滲み出ていた。

 まるで、何か良くないことを予感しているような口調だった。

 孔音は、真剣な表情で答える。

 その様子から、何かあったことは分かる。

 だからこそ、余計に心配になった。

 何か嫌なことがあったのではないか。

 何か危険なことがあるのではないかと。

 何かある。

 絶対に何かが起きるはずだ。

 その問いに対して、孔音は双眼鏡を覗いたまま答えた。

「スイカだ」

 その声は落ち着いている。

 いや、いつも以上に冷静だった。

 それが、逆に不安感を募らせるものだった。

(すいか?)

 恵理は孔音の意味が分からなかった。

 汀は、その言葉に驚きと不安が入り混じった複雑な感情を抱く。

 孔音は、汀に双眼鏡を手渡すと、彼女は孔音が指さす方向を見た。

 汀は、最悪の事態を想像してしまった。

 彼女は口を閉ざし、険しい表情をする。

 その横顔からは、焦りと動揺が伝わってきた。

 だが、それは一瞬のことで、すぐに気持ちを切り替える。

 そして、落ち着いた声で、意見を求めた。

「孔音。どれくらいの時間が経っていると思う?」

 汀の言葉に孔音は考える。

「一ヶ月前のニュースを覚えてる。おそらく、その二人だと思う」

 その言葉を聞いて、汀は確信した。

「どうする?」

 汀の問いかけに、孔音は即答する。

 迷いはなかった。

 決断は早い。

 もう覚悟は決まっているようだ。

「下山しよう。僕ら二人だけなら問題ないけど、子供を預かる身だ。万が一のことがあっては困る。もし、あの二人がそうだとしたら、この山は危険だ」

 孔音の答えは決まっていた。

 最初から、迷う余地など無かったのだ。

「分かったわ」

 汀は、孔音の意見に賛成した。

 異論は無い。

「ごめん。二人共、予定を変更する。僕達は、このまま下山する」

 孔音は、申し訳なさそうに言った。

 二人は、その提案に驚く。

 せっかくここまで来たのに、どうして急に帰らなければならないのか。

 もう少し登れば、山小屋に着くのだ。

 ここで引き返すなんて、あり得ない。

 恵理と響子は、抗議の声を上げる。

「どうしてですか?」

 恵理は納得できなかった。

 だが、孔音は、そんな二人の言葉を遮って言う。

 その声は、今まで聞いたことがないほど冷たかった。

 まるで、凍えるような冷たい視線で恵理と響子を睨んだ。

 そして、低い声で言う。

 まるで、脅しつけるように。

「僕は、このパーティーのリーダーだ。僕の指示に従ってもらうよ」

 その迫力に、恵理と響子は黙り込んでしまう。

 普段の優しい孔音とは、別人のように感じられた。

 その豹変ぶりに、恵理と響子は恐怖すら覚えそうになったが、必死に我慢した。

 今は、そんなことを言っている場合ではないからだ。

 恵理と響子が大人しくなってから、孔音は言う。

 静かな口調だったが、有無を言わせない圧力を感じた。

「汀さん。先頭をお願いします。に、僕は最後尾に付きます」

 孔音は、そう言う汀は、

「分かったわ。二人共、私の後ろに付いてきて」

 と言い歩き出す。

 恵理と響子も慌てて後を追う。

 その後ろ姿を見ながら、汀は呟く。

 その表情は、先程までの優しげなものに戻っていた。

 だが、その瞳の奥には、強い意志がある。

「ごめんね。倉本さん、林さん。あなた達を無事に帰すのが私達の役目なの。だから、許してね」

 そう言って、前を向いて歩く。

 その姿は凛々しく、頼もしいものだった。

 しばし緊張感のある下山ではあったが、2kmも歩く頃には慣れてしまった。最初は、ただならぬ空気があったが、歩いているうちに気分も晴れてくる。

 だから、疲れを忘れて楽しく会話をしながら歩いた。

 孔音も、いつもの雰囲気に戻っている。

 当初の予定とは異なったが、下山の景色を楽しむ余裕が出てきた。

 だが、異様とも言える雰囲気が漂って来る。

 その違和感に最初に気づいたのは、響子だった。

 自分たちの後方に足音と気配を感じた気がした。

 響子が振り返ろうとすると、孔音がそれを止める。

「振り向くな」

 大声ではないが、鋭くはっきりとした口調だった。

 その口調に圧倒され、響子は素直に従う。

 孔音は続けて恵理と響子に警告した。

「いいかい。何があっても絶対に振り返るんじゃない。もしも後ろを見たら、その時点で君たちに危険が及ぶことになる」

 その言葉に、恵理と響子はゾッとする。

 冗談ではないだろうと思ったからだ。

 その言葉に、二人は息を飲む。

 そして緊張しながら、孔音の言葉に従った。

(いったい、なんなの?)

 恵理は不安になる。

 背後からの気配が気になって仕方がない。

 それは、恵理だけでなく、他の二人も同じようだった。

 4人は歩調を落とすことなく下山を続ける。

 すると汀が孔音に振り返らずに呼びかける。

「孔音。追いつかれそう?」

 その言葉に、孔音は静かに答える。

 小さな声で話しているが、よく聞こえた。

「まだ大丈夫。でも、油断はできない」

 孔音の声には焦りがあった。

 そんな異様な緊張に包まれた中、響子は次第に喉の乾きを感じてきた。

 その変化に孔音は気づく。

「林さん。大丈夫?」

 孔音の問いかけに、響子は答えられない。

 緊張と恐怖で、上手く声が出せなかった。

 それでも、何とか首を縦に振る。

 恵理はザックのベルトに下げていた、ステンレス製の水筒を取ると響子に差し出す。

「響子。喉乾いたんでしょ。飲んでもいいよ」

 恵理は優しい声で言った。

 響子は、その言葉に甘えて水を口に含む。

 緊張で、口の中がカラカラになっていたのだ。響子は、その水を少しだけ地面にこぼしてしまう。

 喉に潤いが生まれ、ようやく声が出るようになった。

 そして、感謝の言葉を述べる。

「ありがとう。恵理」

 その言葉を聞いて、恵理は微笑む。

 その時、恵理は異変に気づいた。

 響子が手にした水筒を凝視していることに。

 水筒の表面。

 そこに、自分たちの背後が写り込んでいた。その面を恵理もみてしまう。

 そこには、男が居た。

 だが、その上半身は真っ赤に染まっている。

 血だ。

 顔も、服も、全てが血にまみれている。

 頭は割れていて、脳漿らしきものが見えた。

 それが誰なのかは分からない。

 ただ、人の形をした何かであることは分かる。

 おそらく、自分たちを追ってきたのだろう。

 恵理は悲鳴を上げそうになる。

 だが、声が出ない。

 体が硬直し、動かなかった。

 男は水筒に写り込んだ恵理と響子の視線に反応したかのように、突然動き出す。

 男は気が狂ったように恵理と響子目掛けて走り出した。

 恵理と響子は声にならない叫び声を上げる。

 男の動きに驚いたが、それ以上に、恐怖で動けなかった。

 危機的状況に孔音は叫ぶ。

「汀さん!」

 孔音の呼びかけに、汀は全てを察する。

 汀は振り返り、右手の指を全て伸ばし、人差し指の一節だけを直角に折った。

 苦手の法を使う為の印だ。


 【苦手の法】

 医療の神・少彦名神が伝えた秘術。

 少彦名神はこの苦手の法をもって軽い病はもちろんのこと難治とされる病を癒し、この法をもって悪しき獣、害をなす虫を祓除し、あるいは滅尽させる。


 汀が気合を込めると、男の身体は見えない力で拘束される。

 まるで見えない鎖に縛られたかの如く、その動きを封じられた。

 だが、その力には限界があるようだ。

 男は必死にもがく。

 その抵抗により、徐々に拘束は解けていく。

 だが、その隙を見逃す孔音ではない。

 孔音は手を合わせ、前大僧正行尊さきのだいそうじょうぎょうそん・百人一首の和歌を詠み上げる。

「もろともに あはれと思へ 山桜やまざくら

 花よりほかに 知る人もなし」

 怪異を前に孔音の表情は穏やかであり、落ち着いた様子だった。

 だが、その瞳の奥には強い意志がある。

 その瞳は輝いていた。


 【百人一首】

 百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰。

 秀歌は、王朝和歌史の精髄をみる感があり、日本人の自然や季節に対する感覚や美意識の原典、繊紬で巧繊こうちな表現技巧や言語感覚などが随所にみいだされるだけでなく、呪力を持つ。

 江戸時代の『おい長咄ながばなし』によれば、狐憑きになった人が『百人一首』の本を恐れ、百人一首を詠み上げると狐は退いていったとある。

 『老の長咄』日く、

「和歌には目に見えぬ鬼神をも和らげる徳がある。それほど和歌はありがたい道なのに、それをまったく知らずに過ごしている人は、和歌の徳を知っている、かの狐に劣っている」

 とある。


 孔音が和歌を詠み上げると男は苦しみだす。

 苦悶の表情を浮かべ、全身を震わせながら苦しみを耐えていた。

 恵理と響子は互いに身を合わせて、その様を見ていた。

 二人は恐れながらも見ているしかなかった。

 やがて孔音は最後の句を詠む。

 その言葉を聞いた瞬間、男は霧が消えてなくなるかのように消滅した。

 孔音は、息をつく。

 そう思ったのも束の間、横の茂みからもう一体の怪異が姿を現す。

 それは先程の男とは、また別のものだったが、先程の男と同様に頭が割れ、脳漿が飛び散っていた。

 その姿を見た恵理と響子は悲鳴を上げる。

 その悲鳴を聞き、孔音は振り返る。

 突然の奇襲に、汀は完全に虚を突かれた。

 苦手の法を使う《力》は前方に向けているだけに、そちらに意識が向けられなかったのだ。

 男は奇声を上げ、両手を広げて恵理たちに襲いかかろうとする。

 その恐怖に、恵理と響子は耐えられなかった。

 動けなかった。

 狂気の宿った男の眼を見て、二人の心は恐怖に支配されてしまったのだ。

 だが、そこに現れた人物がいた。

 孔音だ。

 孔音は素早く恵理と響子を庇うように前に出ると、左拳を男の腹に叩き込んで怯ませる。

 そして、右掌を相手の胸に当てると、在原行平ありわらのゆきひら・百人一首を詠み上げ霊気を込めた。

「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる

 まつとし聞かば 今帰り来む」

 孔音の右手が輝くと同時に、男の体は塵のように崩れ去っていった。

 その光景に、恵理と響子は奇跡を目の当たりにする。

 汀は申し訳なさそうな顔をしていた。

「ありがとう孔音。私一人じゃ、スイカをどうにもできなかったわ」

 汀の言葉に、孔音は微笑む。


 【スイカ】

 山で転落死した人間のことを《スイカ》と呼んだ。

 山で足を外すと斜面を、一番下に待ち構えている岩場まで止まることなく真っ逆さまに滑り落ちてしまう。

 人の体は、頭が重いので、滑る落ちて行く間に必然的に頭が下を向いてしまい、最後に岩場に強打することになる。

 スイカと呼ばれる所以は、落ちた時に頭を打ち、血まみれになった様子が割れたスイカに似ていた為。

 登山の最中にスイカを見つけても、そのまま通り過ぎ、絶対に振り返ってはならないとされた。スイカを見た人の魂を死者の世界に連れて行くからだ。

 その為、山では、先頭と最後に山登りのベテランが配置された。先頭の者は、スイカを見つけると後の者に注意を促し、最後の者は振り返って見る者がいないように見張った。

 登山者の間では、

「スイカをみたら振り向くな。振り向いたら自分もスイカになる」

 と言われている。

 山は古くから「異界」、すなわち目には見えない何かがあると言われる場所であり、霊界でもある。

 振り返ってスイカを見てはいけないのだ。


 恵理と響子は、大きく安堵する。

「二人共、ケガはない?」

 恵理と響子、汀に安否を問う。

 その問いに、恵理と響子は大きく何度も首を縦に振る。

 無事であることを伝えた。

 恵理と響子の無事に安心すると、孔音は汀に向き直った。

「汀さん、ありがとう。動きを止めてくれなかったら、間に合わなかったかもしれないよ」

 孔音は汀に感謝した。

 だが、汀は首を振る。

「そんなことないわ。私が不甲斐なかったから……」

 汀の顔には反省の色が浮かんでいた。

 孔音の百人一首による除霊により、何とか事なきを得た。

 だが、恵理と響子に怖い思いをさせてしまった。

 汀は、そのことを気に病んでいるようだ。

 そんな彼女に、孔音は優しく言う。

「いや、さっきのは僕でも対応できたかどうか分からないよ。それに、あの時、真っ先に動いたのは汀さんだったじゃないか。本当に助かったんだよ。ありがとう」

 孔音の優しい言葉に、汀は少し救われたような気がした。

 汀は孔音をビジネルパートナーと言ったが、損得だけではない関係がそこにはあった。信頼と尊敬の念を持っているからこそ成り立っているだけではない、確かな友情があった。

「下山したら、あの遺体のことを連絡しよう。彼等の家族が心配しているだろうしね。警察には、僕が報告しておくよ」

 そう言って、孔音は恵理と響子に向き直る。

「ごめんね。怖い思いをさせて。もう大丈夫だから」

 孔音は笑顔で言う。

 その表情には、戦いの最中で見せた緊迫感はなく、穏やかなものだった。

 恵理と響子は落ち着きを取り戻す。

 恵理と響子は互いに顔を見合わせ、お互いに笑い合った。

 山の景色を眺めながら、孔音たちは帰途についた。

 再び山に登ることを話し合いながら……。

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