第34話 復員
身近なところで言えば、月子の兄の一人と、克輝とその兄が帰還した。
克輝は前線に送られる直前に終戦を迎え、その年のうちに帰ってきた。
その一方で、月子の兄はシベリアでの抑留を経ての帰還だった。大柄で筋肉質だった兄が、骨と皮ばかりの小さな身体になってしまった。そんな姿を見て、母と兄嫁がわあわあ泣いたのは、昭和二十五年。月子が二十一になったばかりの頃である。
***
「月子」
無心で針を動かしている時だった。
自分を呼ぶ克輝の声に顔を上げると、すぐ近くに彼の顔があった。
「わあ。びっくりした。何?」
「何度呼んでも気づかなかったの、お前だろう」
可笑しそうに笑いながら、克輝は月子の隣に並び座った。
離れの縁側は程よく日陰になっていて、かといって手元は暗くなりすぎず、針仕事をするのにぴったりだった。
「母さんから、月子が足袋を縫ってくれてるって聞いたから」
「うん。もうすぐ終わるよ」
初夏に入っていた。そろそろ子供達の浜遊びが、砂地だけに留まらなくなる季節にさしかかる。
パチンと、鋏が糸を切る音が鳴った。集中していて忘れていた額の汗を、月子はようやく手ぬぐいで拭き去った。
「はい、出来た」
「ありがとな」
「後は? 他に直しとくものとか、ないって?」
仕上がった足袋は、真っ白で上等なものだった。特別な晴れの日のためのものであることを、その色が主張している。
「もうないよ」
「そう」
裁縫道具を片付ける月子を横目に見て、克輝は仰向けに寝そべった。頭上に広がるのは、畳張りの小さな一室だった。龍と悟が疎開中、寝泊まりしていた空間である。
「もう何年前になるんだ」
呟いた克輝に、月子は首を傾げる。
「何が?」
「龍が出ていってから」
「出ていったんじゃなくて、追い出されたんでしょう」
穏やかな声だった。
「五年くらい前じゃないの」
月子の表情を見ずに、克輝は天井を見ていた。
「何も知らせはないのか」
「分からない」
「おじさんから、何も聞いてないの?」
「うん」
「どうして。悟さんが生きてたら、おじさんと連絡くらい取り合うだろう」
「いいの」
起き上がって、今度は捕まえるように月子と視線を合わせる。
「……気にならないのか。龍のこと」
復員してからずっと、月子に聞きたかったことだった。五年の間、克輝は質問する勇気が出なかった。返答が分かり切っていたからである。
「好きなんだろう」
月子が何を考えているのか、克輝に正確に分かったことなどなかった。この時も例外ではない。しかし、あの不思議な男に対する月子の感情だけは、察することができた。
「かっちゃん、そろそろ戻ろう。明日の準備、色々とあるでしょう。私も他に、お手伝いがあるから」
「月子」
ブラウスの襟元から、白っぽい紐が見えた。服の中に隠されたその先にあるもの――克輝はそれが何なのか知っている。
出征する直前、彼女が「お守り」として触れさせてくれた鱗に、血が残っていた。克輝は復員して村に戻ってくるまで、毎日その鮮血の赤を思い出したものだった。
「明日本番なんだから。しっかり気を引き締めて」
「大げさだな」
「自分の祝言でしょ。ほら、行くよ。お嫁さんに、がっかりされないようにしておかなくちゃ」
「はいはい」
立ち上がって、肩をわざとらしく竦めてみせる。月子は笑った。その顔を見て、克輝も薄く笑った。
明日は彼の元に、結婚相手が嫁いでくる日だった。戦争で深く負傷し、障害を負った兄の代わりに、克輝が家を継ぐことが決まっていたのだ。
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