死者と堕天使

須藤凌迦

第1話 平穏

 ピッ、ピッ、ピッと聞き慣れた電子音が薄っすらと耳に入ってきたことを認識し始めると同時に、暗闇だった視界が少しずつ色付いていく。俺は朝になったことを理解し、先程から電子音を響かせている、目覚まし時計の上部にあるスイッチを押した。早く押さなければ電子音は段々とその勢いを増し、忙しなくなっていくことを知っていた俺はまず目が覚めてからはこの音を止めることが一番最初にやることとなっていた。もそもそと布団から上体を起こし、軽く欠伸をしてから床に足をつけて立ち上がった。季節が春ということもあり、布団から出ること自体は大して苦ではなかった。部屋のカーテンを開けると心地よい春の陽気を纏った日差しが入り込んでくる。俺は窓越しに外を見ていた視線を自分の部屋のドアへと一八〇度回転させる。

(おっはよう、玲司れいじ!)

 静かな朝は突然の挨拶によって壊された。朝からこんな声を出せば一緒に住んでいる家族から文句の一つや二つ言われそうだが、その心配はない、この声が聞こえるのは世界で俺だけだからだ。俺は聞こえてきた快活な少女の挨拶に対してぶっきらぼうに返す。

「うっさい。」

 寝起きにこんな大きな声で声を出さらればうるさいのは間違いないことだが、彼女はこれをほぼ毎日やってくる。

 寝ていたベッドの隣には普段から使っている学習机が置かれており、ベッドが置かれている壁の反対側には好きな小説が並べられた本棚と自分の服が仕舞い込まれているタンスがあるが、俺はその引き出しから綺麗に畳まれたYシャツとズボン、そして下着を取り出す。今日はこれにしようという気分だった訳ではなく、高校生という身分ゆえにほぼ毎日これを着ているのだ。自分の部屋から出ると、台所から朝食の準備をする音が聞こえてきた。俺は重い足取りで食卓へと歩いていく。四人掛けの洋風のテーブルにはいつもの朝食が並んでいる。献立はトーストに目玉焼き、ごまドレッシングのかかった野菜サラダ、といういつも通りのものだ。眠いせいかまだ細目になっているまま、俺とは左斜めの席に座るパジャマ姿の父親と、おはようという挨拶を済ませてから椅子に座り、食べ始める。これが俺にとってのいつもの朝だ。朝食の準備に勤しんでいる母親は恐らく俺たち二人がそれぞれ出かけた後に朝食をとるのだろう。父親とは軽い世間話をする程度にとどめ、朝食を済ませてからの俺は高校に行くための支度を始める。朝が弱い俺にとってこの時間でもまだまだ眠気が拭えていなかった。それでもさすがに慣れているためか、それに対して特に感情を抱くことは無いまま支度を済ませ、行ってきます、と母親に声を掛けてから家を出た。母親からは行ってらっしゃい、といういつもの元気な返答が返ってきた。父親は俺が準備をしている間に既に出かけている。ここまでは何の変哲もない、ありふれた朝の風景だと俺は自分の家庭環境を認識していた。しかし、外に出た俺はそんなありふれた日常が人とは異なると自覚させられることになる。一人最寄駅へと歩いていく途中、側から見れば独り言でしかない言葉を呟く。

「今日も朝から元気だな、リアンは。」

 周りから見れば想像上の誰かに話しかけている、イタイ厨二病高校生の独り言のようにしか見えないかもしれない。だが、独り言とは誰に対してでもない言葉のことを指すのだろうが、俺の今の発言には明確に伝えたい相手が存在する。そしてその相手は確かに俺の言葉を受け取り、返答してくる。

(そりゃ、もう! やっぱり元気が一番だからね。君に言われたから仕方なく静かにしてあげてるけど、結構こっちは退屈なんだからな!)

 声の主は俺にしか聞こえない声で語りかけてくる。俺はため息をつきながら悪態をつくように声だけの存在に言葉を返す。

「はいはい、無視しないだけありがたいと思え。家族に知られたら無駄に心配されるだろ?」

 俺はリアンという声の主を冷たくあしらった。だがリアンはそれに反抗するかのように逆に声を上げる。

(え〜! 玲司の馬鹿!)

 リアンは不貞腐れたようにストレートに俺を罵倒した。

「そのおかげで今まで一度も家族には気づかれなかったんだろうが。」

(家族には、ね?)

「あれはお前のせいだからな……。」

 俺は過去に、学校でリアンの声に反応してしまい、周りから変な目で見られたことを思い出し、当時の恥ずかしさが込み上げてきた。リアンは俺と同世代のような声色をしているが、どうやらこいつは俺なんかよりも何年も生きていると出会った時に教えてもらった。その内容は俄かに信じられるようなものではなかったが、こんな風に俺にしか聞こえない声をかけてくる存在がいるというのが不思議な説得力を帯びているようにも感じられた。

「頼むから今日も極力静かにしててくれよ。これ以上学校で変な奴扱いされたくないんだからな。」

(はーい。)

 俺はリアンにお願い、と言うより命令するような口調で彼女に釘を刺した。リアンが俺に突然話しかけるようになった子供の頃からというもの、外にいる間は執拗に話しかけてくるものだから嫌でも態度に出たり、独り言をぶつぶつと呟いてしまい、クラスメイト達からは変人扱いされていたものだった。今はまだリアンがセーブしているのと、俺がある程度慣れたこともあって日常生活への支障はほとんど無くなっている。彼女との付き合いは長いはずなのだが、俺のいる環境が変わると彼女はやけに頭の中で興奮気味に語りかけてくるのは煩わしいことこの上なかった。俺は恐らく自分以外にはこんな脳内会話を繰り広げる人間はいないだろうとため息をつきながらも、自宅の最寄り駅から電車に乗った。東京都内でありながら田舎にワープしてしまったのかと思わせるような小さい二両編成の電車に十分程揺られながら着いたのは終点だった。朝の通勤ラッシュの時間に近かったこともあり、狭い車両に人がごった返しており、ほとんどのスーツを着た大人はそこから電車を乗り換えるのだが、俺は改札を抜けるとそのまま国道沿いの道を歩いていく。国道は多くの車が走っており、その音は仮に隣で一緒に歩いている友達と話していたとしても声は上手く聞き取れないだろうと思わせるほどだった。しかしリアンの場合は違う。俺の脳、もしくは心に直接話しかけているのだがら周囲の声など関係無い。さらに俺が独り言を喋っていたとしても周りに丸聞こえになる心配もしなくて済むので、俺とリアンが喋るにはうってつけの時間だ。

「それで、今日は鎮めなくちゃならない鬼はいるのか?」

 俺は絶対に他人には聞かれたくない内容の会話をリアンと始めた。リアンは初めて俺に話しかけてきた時、自分には戦わなければならない敵がいること、そして俺の身体が必要だということを伝えてきた。どれも荒唐無稽であり、最初は自分が精神的な病気なのだと思い込んだ。

(うん、少し遠いけどいるよ。場所は放課後教えるね。)

 リアンからの情報を知ったせいで、俺は一気に気が重くなった。なぜなら鬼を鎮めることは俺にとって面倒なことこの上なく、俺の求める平穏とはかけ離れた行為だからだ。

「久しぶりに今日は疲れそうだな。」

 俺は疲労困憊になることを覚悟した。なぜなら鬼を鎮めることは命懸けだからだ。

(別にちゃちゃーっと倒して帰ってすぐ寝ればいいじゃないか。)

 リアンは軽々しくこんなことを言っているが、俺にとってはそこまで簡単な話ではなかった。いかんせん鬼を鎮めるというのは肉体的に、というより精神的にキツいのだ。それは鬼の性質上仕方のないことであり、対処のしようがない。俺は朝特有の眠気から感じていたものと鬼を鎮めなければならないという責務から二重の倦怠感を感じながら登校した。

 学校に着いてからはいつも通りの時間を過ごしていた。高校二年生になり、クラス替えが行われた俺のクラスでは、去年からの友人関係に加えて新たな関係を構築したのであろう生徒たちが話に花を咲かせていた。俺はそんな彼らを無感情のまま目視し、自分の席に座る。普段から他人に囲まれたり囲んだりする訳ではないため、基本的に一人でいることが多い。それが俺は好きだし、特段困っているという訳ではない。しかし、俺には時折話しかけてくる人間が存在する。

「おはよう玲司。」

 俺が席につくなり明るい声で話しかけてきた青年は背が一八〇センチと、俺より少し高いくらいの背丈で黒い学ランに身を包み、茶髪に蒼い瞳、スラッとした背格好に人当たりの良さそうなルックスはまさに俺と正反対に位置するような人間だった。そんな彼の名前は朽木優斗くちきゆうと、彼とは中学からの付き合いであり、たまたまクラスが一緒だったことがきっかけで知り合った。あまりクラスメイトに馴染んでいる様子ではなかったのを見透かされ、同情ゆえか彼の本心からかは定かではないが、俺と友達のような関係を築いてくれている。それについて俺はある程度の感謝を彼に感じていた。以前、彼にどうして俺と仲良くするのか聞いたことがあったが、彼の返答はたった一言、玲司といるのが気楽だからかな、という答えだった。彼のその言葉に当時の俺はそんなものかとあっさりと聞いていた。彼の言葉の真意をなんとなく理解したまま彼との関係は続いている。実際俺の方からしても朽木と友達でいるのは決して悪い気分ではない。高校生活というのは完全に一人で乗り切るのはかなり厳しいことなので、彼のような存在がいるだけで無意識のうちにかなり気は楽になっているだろうと考える時はある。

「おはよう朽木。」

 俺はいつも通り挨拶を返す。我ながら素っ気ないと感じるが、それを直そうとは思っていない。これが自分の素なのだし、それを朽木は理解したうえで俺との関係を保っているはずだ。朽木は俺の前から立ち去り、自分の席に座り、カバンを机の側面についているフックに引っ掛ける。朽木との朝の挨拶はこれだけだ、それが彼とのいつもの朝の流れで、一切の無駄をそぎ落としたかのような会話をするとお互いにそれ以上話すことはなくそれぞれの朝の時間を過ごした。

 その日も朽木以外の生徒や教師と話すことがほとんど無いままに一日が終わった。これが俺にとっての日常であり、おおむね不満は無い。強いて言うならもう少し友達というものを欲するべきなのだろうが、リアンと出会ってからの俺の奇行が原因でなんとなくではあるがまだ周りから避けられているように感じる。しかしこれと言って不自由なことが無いまま、高校生活が送れているのだから無理に友達を作る気にはなれなかった。俺はいつも通り帰り支度を済ませ、来た道とは別の道を歩き始めた。車の通行量も少なく、時折人とすれ違うくらいしか人通りが少ない道に差し掛かったあたりで丁度脳内に彼女の声が聞こえてきた。

(今回の場所はここから七キロってとこかぁ、行くには時間かかりそうだね。)

「まぁ、いいんじゃないか。リアンの力を借りれば電車だのタクシーだの使う必要は無いからな。」

 俺は冷静にそんなことを言い、周りに人がいないことを確認するために辺りを見渡した。そして誰も見ていないことを確信した後にいつものトーンで話しかける存在に声をかける。

「行くぞ、リアン。」

(はいはーい! ていうか、いい加減相棒って言ってくれても良いだろ!)

 リアンの陽気な返事とくだらない文句が聞こえたかと思うと、俺の右隣で白い光が発生した。それは天使のように女性が白い翼を背中から広げたような容姿を形成した。これがリアンの本当の姿なのだろうが、身体が光で構成されているように見えるせいかはっきりとは見えない。そして次の瞬間、俺の身体へと重なり、段々と溶け込んでいった。俺は一瞬白い光に包まれた後、身体の奥からエネルギーが湧いてくるような感覚になり、自分がそれまでの自分とは全く別の存在となったことを自覚する。さらに内面的な変化だけでなく、自分の容姿も変わっていた。さっきまで着ていた高校の黒い制服の色は真っ白に変化していた。そして背中には金の装飾が施された白を基調とした鞘に納められた剣を一振り携えられている。

「それじゃあ行くぞ。」

 俺は身体能力の変化を実感しつつも、感情の起伏を一切感じぬままに俺は膝を曲げ、勢いよくジャンプした。その瞬間、天使の翼のようなものが俺の背面に現れ、俺を空へと飛翔させる。そこからはリアンの指示した場所へ飛んでいくために翼をはためかせた。


 

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